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明治32年(1899年)以前に没した人物の死亡状況について調べている。本県出身の以下の人物について、死因(病名)、死没した場所(自宅か病院か)、晩年の状況(病状など)について知りたい。1.近藤芳樹 2.白石正一郎 3.熊谷五一 4.田島直之 5末岡精一(山口県立山口図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/10/30 13:43:04)
from レファレンス協同データベース (2024/10/30 13:43:04)
以下のとおり。インターネット情報の最終確認日は2024年10月23日。1.近藤芳樹(1801-1880)下記資料1『近世防長人名辞典』p111に、「明治十年(引用者注:ママ、「二」が欠けているものと思われる。)五月病を得て官を退き翌十三年二月二十九日東京四谷の自邸に没す」とあり、死因は病気(病名不明)で、東京の自宅で没したものと思われる。晩年の状況については詳細は不明だが、資料2『近藤芳樹の手紙』の年譜のうち、p33によると明治12年(1879年)5月26日に「岩倉公邸にて木戸孝允三回忌懐旧の莚に列し、発病」とある。同様に、資料3『万葉集註疏 1の上』に収録されている近藤の略歴「先大父寄居府君行状」にも「十二年五月。会木戸公三回忌于岩倉右大臣第。疾作。十月請致仕。」(引用者注:訓点省略)とある。資料1、資 ...
下松市の緑ヶ丘市営住宅付近に「鎮魂」とある石碑(平成12年(2000年)8月、山口県知事二井関成の署名あり)があり、この辺りは戦時中、陸軍病院(避病院か)があり、広島原爆投下後に被爆者が移送され、死体の処理もされたという話を聞いている。この病院について、また石碑建立の経緯が知りたい。(山口県立山口図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/10/30 13:43:04)
from レファレンス協同データベース (2024/10/30 13:43:04)
当該病院は、広島第一陸軍病院櫛ケ浜分院(または花岡分院とも呼ばれた。)と思われる。同病院では、広島原爆投下後に、被爆した軍人の治療に当たったとされる。その後、国立柳井病院花岡分院となり、昭和21年に廃止された。昭和46年に、被爆軍人の治療に同病院が関わったことが明るみになり、昭和50年には、同地付近に遺体が仮埋葬されたとの情報もあったが、調査の結果、遺構等は見つからず、その後の経緯は不明。また、石碑については徳山市(当時)の医師、光永徹氏が、当地が被爆軍人の治療に関わったことを風化させないために私費で建立したもの。石碑について、下記資料1『いのりとちかい』p119に、読売新聞平成13年(2001年)1月4日付け「下松/「被爆兵士治療」後世に/医師病院跡近くに石碑建立」の記事が引用 ...
近世、長州藩における「1里」の長さは36町だったというが、それはいつ頃どのような経緯で決まったのか。また「1町」は現代の約109mというが、これはどの藩も共通だったのか。特に長州藩における距離の単位について、他藩の事例と比較しながら解説した文献等があれば知りたい。(山口県立山口図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/10/30 13:42:38)
from レファレンス協同データベース (2024/10/30 13:42:38)
1里が36町となったことの起源は、織田信長や豊臣秀吉が天下統一を進めるにあたって道路整備を行った際に定めたことによるとされるが、長州藩において、1里36町、1町60間と定められたのは慶長検地の際とされる。また、江戸時代において、里程(道の長さ)は、藩によって異なっており、長州藩では、1間を6尺5寸と定めているため、1寸を3.03cmとすると、1町(60間、390尺、3900寸)は118.17mとなる。『歴史の道調査報告書 萩往還』(下記資料1)p7によると、織田信長が、天下統一を進めるにあたって道路整備を行った際、それまで6町1里であったものを36町1里に改めた、とある。ただし、同書p15によると、(36町を1里とした)一里塚が実際に設置されたのは豊臣秀吉の時代からとされる、とある。また、『歴史の道調査報告 ...
不明。下記資料1では、徳隣寺(萩市江向)に記載があるが、墓は「東京へ改葬」とある。このほかに、墓所について記載のある資料は見当たらなった。参考資料:1.田中助一 編. 萩先賢忌辰録. 萩市仏教団, 1970.https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001210793, (p239)
山口県の太田(大田)という地名について、その歴史や現在も残っているか等について知りたい。また、その地域に神社、寺、城があれば、それらの由来等も知りたい。(山口県立山口図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/10/30 13:41:37)
from レファレンス協同データベース (2024/10/30 13:41:37)
・県内の太田(大田)という地名について下記資料1『角川日本地名大辞典 35』p205-207美東町の「大田(おおだ)」の記載あり。これによると、日本書紀の仲哀天皇8年9月条の新羅出兵の神託の中で神が「穴門直踐立(あなとのあたいほむたち)が献上した大田という水田を弊物とせよ」とのお告げをし、この大田が美東町の大田村であるとしている。p207にあるように、現在も美祢市美東町の大字名として残っている。日本書紀の該当部分は参考資料1『新編日本古典文学全集 2』p411にあり。資料2『日本歴史地名大系 36』p581-582 大田村の項にも同様の記述あり。p582に神社、寺院について記載があり、基本的には資料8、9に記載のあるものだが、円通寺については、当該資料に名前の記載があるが資料8、9には掲載されていなかった。金麗神社と大 ...
当該作品は、同人誌「午後」10号(下記資料1)に掲載されたのち、「文学界」昭和40年7月号(資料2)に転載された。回答プロセス:参考資料1の略歴部分を確認、「文学界」掲載号は、国立国会図書館デジタルコレクションでタイトル「文学界」、キーワード「走狗」で検索し、35巻6号の「同人雑誌推薦作掲載一覧」のスニペットから類推。参考資料:1.古川薫. 「走狗」. 午後同人会, 1965. 午後 10号, (p82-91)参考資料:2.古川薫. 「走狗」. 文芸春秋, 1965. 文學界 昭和40年7月号, (p212-222)
福知山市民(出身者)が、編著者として出版した図書のコレクション。来歴:1983年(昭和58年)に「市民文庫」として、福知山市立図書館内に設置、展示を開始した(144冊・編著者73人)。一般流通している図書の他、自費出版等も収集対象とする。福知山市立図書館中央館内で別置している。収集継続中。利用条件:館内閲覧のみ(貸出可能複本がある場合は帯出可能)所蔵点数:975点(2024年9月30日現在)
What’s at stake in US election? $250bn in taxes for Corporate America
from UK homepage (2024/10/30 13:00:34)
from UK homepage (2024/10/30 13:00:34)
Research shows Trump’s tax cuts led to expanded corporate investment — and a spike in share buybacks
神前の塀(柵)の有無の理由が知りたい。なぜ、真清田神社(愛知県一宮市)には無く、国府宮神社(愛知県稲沢市)にはあるのか。(一宮市立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/10/30 11:48:21)
from レファレンス協同データベース (2024/10/30 11:48:21)
神前にある塀(柵)とは何かを調べる。①『建築大辞典』彰国社,1982年 ・蕃塀について②『尾張地方の神社と密教寺院の建物』花村 清隆/著,2003年 ・蕃塀の意義・真清田神社にも戦前までは蕃塀あり。・真清田神社と国府宮神社の社殿形式を「尾張造」といい、尾張地方の神社の共通点である。・「尾張造」の特徴のひとつに社殿の前に蕃塀という目隠しがある。②より、真清田神社にも藩塀(透垣)があった事が判明。『尾張名所図会』が参考文献としてあげられていたので、こちらも確認する。『尾張名所図会 中巻』岡田 啓/撰,野口 道直/撰,小田切 春江/撰,愛知県郷土資料刊行会,1970年 後編巻の一に収録の真清田神社の絵図に藩塀(透垣)あり。現在、藩塀(透垣)は存在しないので、いつ頃なくなったのかを調べる。『 ...
「殊に先年傳奏使の饗應役を勤めたる大洲(おおず)藩より懇切なる注意もあり、」という一文について、くわしいことがわかる資料はあるか。 ※大洲藩=現・愛媛県大洲市本町(一宮市立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/10/30 11:48:21)
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内容は確認できませんでしたが、こういった資料もありますとお勧めしたところ『史話日本の歴史 19』清原康正、鈴木貞美/編集.作品社,1991 上記の本をリクエストされました。回答プロセス:自館にて検索『藩史大事典 第6巻』木村礎/[ほか]編.雄山閣出版,1990,R210.5/ハン/6 p516-530 大洲藩の内、p521〔藩史略年表〕 「寛永20(1643)年7月7日、泰興ら、江戸で朝鮮使節馳走役を命ぜられる。(「加藤家年譜」)」との記述あり。p553-565 吉田藩の内、p557 「元禄5(1692)年3月、公家接待役を命ぜられる。元禄14(1701)年2月4日、村豊、赤穂藩主浅野長矩とともに公家接待役を命ぜられる。」との記述あり。『三百藩藩主人名事典 4』藩主人名事典編纂委員会/編.新人物往来社,1986,R281/サ/4p260 2段目「同十四年二月四日、年頭の賀使として~の接待役を命ぜられたが… ...
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