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【宮本頼三について】 明治初年に岩倉具視とやりとりしていた宮本頼三という人物について書かれた資料を見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:17)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:17)
石川県立図書館の石川県関係人物文献検索で検索すると、宮本頼三に関する資料が確認される。『石川県石川郡誌』(11824573)p.405や『新松任町史』(119562581)p.203によると、頼三の経歴は以下の通りである。天保14年 誕生文久元年 広瀬旭荘(『新松任町史』では範治と記載)のもとで漢学を修学慶応元年 長崎遊学明治2年 外務省権大録 のち、東京府議会議員、東京府茶業組合長明治38年 6/30没『石川県石川郡誌』は国立国会図書館デジタルコレクションにてインターネット公開されている(228コマ目を参照)。【URL】https://dl.ndl.go.jp/pid/1186712/1/1 (2020年10月18日最終閲覧)『新松任町史』は、図書館送信参加館において閲覧可能。当館近世史料館で所蔵されている明治初年の藩士の由緒書「先祖由緒 一類附帳」に明治4年提出の宮本頼三の由緒帳があり、提 ...
以下の資料を確認した。資料によって、最終運行日昭和42年2月10日を以て廃止としているものと、最終運行翌日の11日を以て廃止としている資料があった。『よみがえる記憶北陸の鉄路』(118619115)p.26「S42.2.11 全線廃止」、p.49「昭和42年2月10日の廃止時に、」とある。『金沢市史 通史編3 近代』(119958310)p.739「運行最終日である二月十日の最終電車発車時刻には、」とある。『金沢市内電車50年のあゆみ』(11909314)p.3「昭和42年2月10日限り、約半世紀にわたる歴史を閉じたのであります。」p.50「軌道金沢市内線の運輸営業を廃止し、バス輸送に切り替える。」とある。『金沢の百年 昭和続編』(119320633)には、「大正8年以来48年の歴史をもつ北鉄の市内電車が全面廃止された。」とある。『市電廃止記念』(118309050)巻頭「昭和42年2月10日かぎりで、金沢 ...
【久保市乙剣宮について】 (1)久保市乙剣宮の由来が知りたい。(2)小坂庄とは今で言うとどの辺りになるのか知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:16)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:16)
『加能郷土辞彙』(改訂増補)(119865516)p.12に記載されている久保市乙剣宮の項目を提示した。金沢市図書館ホームページで『金沢古蹟志』に久保市乙剣宮の記載があるかどうか検索をかけたところ、該当する記事が『金沢古蹟志 第11編』(119865973)の巻廿九p.14に見つかった。『金沢市神社大観』(119555602)p.12にも久保市乙剣宮の記載があった。久保市乙剣宮は小坂庄久保市村にある、という内容の記述がそれぞれの資料に見られたため、追加質問として「小坂庄とは今で言うとどの辺りになるのか」と聞かれた。『日本歴史地名大系 17 石川県 石川県の地名』(118287258)p.348で久保市の記載部分を提供し、久保市が尾坂下、中町の呼称であったことが分かった。『図説 金沢の歴史』(109173982)p.36~p.37に小坂庄の記述が見つかった。それによって、小坂庄が ...
【足利義政の生花について】 足利義政が生花を生けていることについて書かれた資料を見たい。特に、撫子について書かれた資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:16)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:16)
以下の資料には、義政が同朋衆立阿弥に牡丹など花を立てさせていたことや、梅を愛好していたことに関する記述がある。なお、撫子に関する記述は確認されなかった。『日本花道史』(11927207)p.30~31『足利義政 日本美の発見』(112432745)p.175~176『いけばな史論考』(111834193)p.82~85『足利義政と東山文化』(113653043)p.157~158『歌・花・香と茶道』(113794266)p.108~109『いけばなハンドブック』(11069734)p.21~22『山根有三著作集 7 花道史研究』(119864519)p.16~17なお、各書で引用されている史料「蔭凉軒日録」は、『大日本仏教全書』133~136などに収録されている(当館には「蔭凉軒日録」を収録した資料の所蔵なし)。『大日本仏教全書』の戦前発行のものは、国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されている。【URL】https://dl.ndl.go.jp/p ...
【野上祇麿が犀川画廊で開催した展覧会について】 富山県射水市生まれの洋画家、野上祇麿(のがみ ただまろ)について1 昭和49年(1974) 「犀川画廊企画展」に出品 昭和51年(1976) 「シュピーゲル展」に出品 この2つの展覧会の開催を伝える新聞記事等、文献資料がないか2 犀川画廊の会社概要、沿革等が確認できる文献資料がないか3 10/14追加・野上祇麿(のがみ ただまろ、昭和5年(1930)―平成29年(2017))が出品した展覧会(金沢市内[推定])について 昭和43年(1968
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:16)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:16)
・石川県立図書館の「石川県内新聞記事共同データベース」で「犀川画廊」を検索。 1997-11-25 女の目 女性の感性を生かして 基本は思いやり 心の安らぎを与える 金沢ミセスクラフト協会 中谷照子さん(画廊主) がヒットした。当該記事を北國新聞縮刷版で確認。・当館OPACで「中谷照子」をフルテキスト検索。 『私の人生抄 蘭の巻』(11912174)がヒット。 犀川画廊の設立に関する記述あり。・昭和49年、昭和51年の北國新聞縮刷版「きょうの催し」で、犀川画廊の展示会を順次確認。 昭和49年8月1日~に「伊藤公象・二人展」が開催されたとの記述あり。 昭和51年の催しに「シュピーゲル展」が見当たらず。 念のため昭和52年1~3月分も参照したところ、昭和52年2月1日~13日に当該展示会が 開催されたことの記述を発見した。・『石川の美術』(11947 ...
図書館システムで「青木木米」とフルテキスト検索をかけたところ、『日本美術絵画全集 第21巻』(11027809)がヒットしたので、まずそちらを紹介した。また、郷土に関連する人物であるため石川県立美術館に作品が所蔵されていると考え『石川県立美術館所蔵品目録』(11916651)を確認したところ、青木木米の作品「染付?風箱香合」のモノクロ写真が掲載されていた。落款については、掲載されている資料を探すため図書館システムで「落款」と検索をかけ、検索結果のうち『日本書画 落款大事典』(118482270)が最も青木木米に近しい資料であると予想し内容の確認を行った。p.2には木米の落款とその読みが2種類掲載されていた。以上の資料を提供した。
【数字の入った名前について】 五男であるが、利三郎という名前の人物がいる。三男ではないのに、なぜ利三郎なのか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:15)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:15)
三郎や五郎など出生の順番を表した名前は、排行(輩行)名(はいこうめい)と言い、通称の一種にあたる。『日本人の姓・苗字・名前』(113271362)p.87によると、出生順に従うことが原則となっているが、必ずしも実際の出生順に従っていたとは限らないと記されている。排行名については、以下の資料に記載がある。『日本人の名前の歴史』(113833711)p.228~236「一般庶民の名前」『読みにくい名前はなぜ増えたか』(112930980)p.84~『苗字と名前の歴史』(112780829)p.72『日本人の名まえ』p.89~90では、八男である源義経を「源九郎」、曽我兄弟の兄を十郎、弟を五郎といった古い例や清河八郎が長男であったなどの、出生順と一致しない実例を紹介している。「単に「よくある男子の名」として、排行とは無関係に付けたのもあるらしい。」との記述 ...
【秀吉・利家の遺物の分配について】 1.慶長3年に前田邸で秀吉の遺物の分配が行われたことについて書かれた資料を見たい。2.前田利家の遺物の分配について書かれた資料を見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:15)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:15)
いずれについても、前田利家のことについて書かれた以下の資料に記載がある。『前田利家』(人物叢書新装版)(11826716)p.259~260、294~295同書の出典のひとつである「亜相公夜話」は『御夜話集 上編』(118511603)p.1~76に収録されている。『加賀藩史料 第1編』(11801624)p.577「遺物配分覚」、p.625「国祖遺言」なお、『加賀藩史料』は、東京大学史料編纂所の近世編年データベースで閲覧可能。【URL】https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller利家の遺物については、『前田利家 図説,前田育徳会の史料にみる』(118386176)「利家の遺書と子供達」、『前田利家のすべて』(118370837)「前田利家の遺品」、『加賀前田家と尊経閣文庫』(118581340)p.79~82にも記述がある。
久徴館とは、明治中期、東京にあった加賀藩士子弟のための寄宿舎である。久徴館が寄宿舎であるということは、以下の資料に説明がある。『金沢市史 資料編15 学芸』p.257~『久徴館同窓会雑誌』に関する記述のところで、久徴館に関することも書かれている。『〔金沢文化振興財団〕研究紀要 第9号』(109153390)p.31~37「久徴館の意義―『久徴館同窓会雑誌』の翻刻―」冒頭で久徴館に関する説明がある。『市史かなざわ 第10号』(119856651)p.75~83「明治中期までの石川県教育の一面」『石川郷土史学会々誌 第47号』(109205567)p.89~91「加越能育英社の由来」育英社関係の資料にも記載がある。『育英社沿革誌』(118582982)p.13~14『財団法人加越能育英社百二十年史』(119662738)p.38~41
【明治期の金沢の上野町の場所について】 先祖が明治期に上野に住んでいたことがわかっている。市役所で調査後、戸籍に書かれた住所(明治頃の上野町)の場所が知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:15)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:15)
明治頃の上野町は現在の小立野あたりである。上野町の歴史や由来は以下の資料に記載あり。・『角川日本地名大辞典』(118552562)・『さきうら』(119764317)・『いし曳』(119456767)・『小立野共和会百年史』(109219615)明治期の地番図は所蔵がなく、以下の地図を提供した。・『地図で見る金沢の変遷』(118365873) 明治42年頃・『金沢市史 資料編18』 別刷25「金沢市街図」(明治38年)
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