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【高木事務次官の略歴について】 オイルショック発生当時、大蔵省事務次官の地位にあり、その解決に尽力した高木氏のフルネーム、業績の概要等の文献を調べてほしい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:30:43)
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高木文雄(1919-2006)昭和-平成時代の官僚。大正8年4月6日生れ。昭和18年大蔵省に入り、45年官房長。主税局長をへて49年事務次官となる。51年国鉄総裁。59年横浜みなとみらい21社長、62年横浜国際平和会議場社長。東京出身。東京帝大卒。(『日本人名大辞典』(講談社)(112321755))(没年は『デジタル版日本人名大辞典』による。)〈参考文献〉『私の履歴書 経済人30』(118453896)『国鉄ざっくばらん「赤字の王様」のひとりごと』(所蔵なし)なお、オイルショック発生時の事務次官は相沢英之(1973.6-1974.6)で、高木文雄はその後任である。
○延喜式を収載した史料集・『神道大系 古典編11・12・古典注釈編7』・・・石川県立図書館所蔵・『国史大系 15-17・26』・・・石川県立図書館所蔵・『延喜式 上』虎尾俊哉/編(112123721)・・・当館所蔵○延喜式神名帳に関する研究書・『式内社の研究 第8巻 北陸道』志賀剛/著(11074572)・・・延喜式神名帳の引用
『石川郷土史学会々誌 第10号』(1977年)(119552155)「津田淳三について」津田進三/著「「金沢市医師会医政史」所収の「四名医伝」(※1)は、藤本純吉氏著「津田淳三略伝」(金沢市立図書館蔵)に拠るものと思われる」(※1)『金沢四名医伝』(藤本文庫.特096.0-221)『津田淳三に関する二、三の資料』寺畑喜朔/著「石川県医師会編(石川県医師会報(※2)第九号、大正三年六月)による津田淳三略伝」(※2)『石川県医師会報』は県内の図書館に所蔵なし。『石川県医師会会報』は1930年から当館所蔵あり。
・『新潮日本文学アルバム 25 北原白秋』(11076090)記載なし。・『日本女性肖像大事典』(118345870)p.115に白黒写真と解説の記載あり。
【旧制金沢一中の同窓会誌について】 旧制金沢一中の創立100年を記念する同窓会誌が発行されていると聞いているが、所蔵しているか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:30:42)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:30:42)
『金沢一中泉丘高校百年史 前編・後編』金沢一中・泉丘高校百年史編集委員会/編(1993年)を所蔵している。
【「能登はやさしや土までも」の言葉の原典について】 「能登はやさしや土までも」の言葉の原典は何か。田辺正己(タナベマサオノ)の書いたものではないのか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:30:42)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:30:42)
・田辺政己の書いたもの(『能登日記』等)では確認できなかった。・『能登のくに 半島の風土と歴史』(118391710)のp.30~33に西山郷史氏がこの言葉について、元禄9年の初出と、論考している。具体的には以下のとおり。a.もともと労作歌の一部であったらしい。「○○泥棒、△△盗人、能登はやさしや土までも」だったとの伝えがある。b.1696年(元禄9)に能登をめぐった加賀藩士、浅加久敬が『三日月の日記』の中で書き記した。c.浅加久敬は1709年(宝永6)の旅日記『能登浦伝』にもこの語句を書き記している。d.18世紀末に九淵斎由己が『能登の海』の中で書き記している。e.1850年(嘉永3)に森田良郷が著した『続咄随筆』にも記されている。f.森田柿園が『能登志徴』に引用した太田道兼の「能登誌」にも記されている。・平成4年11月17日 北国新聞 ...
【大日本印刷訴訟について】 『別冊ジュリストNo.165』に載っている、採用内定取り消しに関する訴訟「大日本印刷訴訟」について知りたい。最高裁、昭和52(オ)、94号(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:30:41)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:30:41)
・判決全文に関しては、裁判所の「判例検索システム」を紹介した。【URL】http://www.courts.go.jp/解説については以下の文献を参照のこと。・『解釈通覧 労働基準法』(11033738)・『労働法』(11096405)・『判例にみるリストラと雇用対策』(112201274)
【清川町の屠畜場について】 清川町(旧仙人町)のある土地の履歴を調べていたところ、「屠場敷地」という名目で金沢市が昭和初期(7年頃)に土地を貸借していた(登記簿)。このことについて書かれた文献はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:30:41)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:30:41)
『石川県食肉名鑑』(119572597)P.66「金沢市営と畜場」に「昭和5年6月金沢仙人町より移築」とあり。『金沢の百年 大正・昭和編』(市史年表)( 109089889)P.138、昭和5年6月「押野村太郎田(現 西金沢)に移築工事中の金沢市屠場が完成、使用を開始した」とあり。『金沢市史 現代篇 上』P.387「12、と畜場」によると経緯は次のとおり。明治39年9月 民営の屠場ができる明治39年4月 屠場法公布、民営の屠場は43年8月で廃止に明治44年8月 仙人町に市営屠場を開設する大正15年ごろ 付近住民より移転請願が出される昭和3年2月 太郎田方面への移転が内定する昭和5年1月 入札・着工
【吉岡銘鳥園について】 吉岡銘鳥園が藩政期から続く老舗であるかどうかを確認したい。吉岡銘鳥園の歴史や由来について書かれた文献があれば教えてほしい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:30:41)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:30:41)
現住所:金沢市尾張町1丁目7-17『金沢市詳細図 昭和38年版』に「吉岡小鳥店」の記載あり。1943~1961発行の金沢市街図に記載なし。『金沢市街地図』(2003年)(119781499)に記載なし。(『20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜』(改編版)(118388152)付録、昭和14年発行「大日本職業別明細図・金沢市」の複製)『金沢の老舗』本岡三郎・松原茂/編(118413003)に記載なし。『石川県商工便覧』(109177936)に記載なし。昭和3年・6年『金沢商工人名録』(119503114)に記載なし。・昭和3年・・・小鳥、動物の項目に「池田茂良」「則竹文四郎」・昭和6年・・・小鳥、動物の項目に「池田茂良」「村松清次郎」「合資会社金城農園」昭和8年・10年・14年にもなし。昭和29年・35年・38年・45年『特定商工業者名簿』、昭和51年『金沢商工名鑑』(119532250)にもなし。『金沢古 ...
【長町の連れ込み宿について】 昭和30年頃の長町に連れ込み宿があった旨、文学作品に出てくるが、そのことについて書かれた文献(資料)はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:30:41)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:30:41)
・「金沢市街図」(1948、1944等)を紹介した。現在の松ヶ枝緑地の辺りに旅館が集中しているが、連れ込み宿があったという確実な根拠は見つからなかった。『石川県商工要覧 昭和27年度版』(119514029)附録録「商工名鑑」p.117~120「金沢市(金沢旅館業組合加盟旅館)」によると、長町近辺の旅館数は次のとおり。高岡町上薮ノ内 1軒高岡町 2軒栄町 3軒松ヶ枝町 2軒長町川岸 1軒古寺町 2軒裏古寺町 1軒『金沢市詳細図 昭和38年版』(118407249)によると、長町近辺の旅館数(ホテル含む)は次のとおり。高岡町上薮ノ内 1軒高岡町下薮ノ内 1軒高岡町 2軒長町 5軒栄町 4軒長町川岸 5軒裏古寺町 2軒『松ヶ枝の広場』(118290727)「栄町界隈」p.104「遊廓移転の後が旅館となり、栄町だけでも15、6軒も数えられた」
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