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「環濠集落」とは、『国史大辞典』(資料(1))によると、村落全体を壕や堀で囲んだ集落で、室町・鎌倉時代の中世において、大和(奈良県)や摂河泉(摂津国・河内国・和泉国)の平野部に多く存在しました。「桑津環濠集落」の跡は大阪市東住吉区三丁目にあります。東住吉区のホームページ( https://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033846.html )の東住吉100物語「030桑津環濠(かんごう)集落」(資料(2))の項に、「桑津の場合、(中略)四周を水濠に囲まれ、竹薮で一部囲まれていました(古老の話)。 外周の濠の東南部に2カ所、金蓮寺東側に2カ所、それぞれ少しづつ離れて濠が広くなって池となっていました。外部に通じる道路としては北に2カ所、南に1カ所、西に1カ所の計4カ所だけで、現在でもその地名として桑津北口・桑津南口などが残って ...
関連資料を紹介します。(1) 『大阪の地名由来辞典』(堀田 暁生/編 東京堂出版 2010.8)p.85「遠里小野」の項に、「柿本人麻呂の歌に「すみの江の遠里小野の真萩もて」(『万葉集』)とあるなど、この地は古くから歌枕として知られている。歌の中での読みはいずれも「とをさと・おの」で、住江(住吉)の周縁部の原野、といった意味が込められているが、「とをさと」は韻律を整える和歌独特の言い回しとみられ、元来は「をりおの」だった可能性が高い。「を」と「う」、あるいは「お」と「う」の読みの混同により、「うりうの」とも呼ばれ、現行地名の読みが「おりおの」に確定するまでは両様に呼ばれていた。『太平記』の「住吉合戦」の項では「瓜生野」の字があてられ、さらに江戸時代この地域が瓜の産地として知られていた ...
此花区内には安治川沿いには多いときで10箇所ほどの渡しがありましたが、現在は天保山(港区築港3丁目)と此花区桜島3丁目を結ぶ天保山渡船場だけになっています。以下の資料に「此花区の渡船」について記述が見つかりました。(1) 国立国会図書館デジタルコレクション『此花区史』(大阪市此花区 1955) (図書館・個人送信限定) https://dl.ndl.go.jp/pid/3008454/1/70 (2024.3.2確認)p.92-93 (コマ番号70)「第二編 各説 第五章 渡船」の「渡船の市営」の項、「明治三十八年天保山渡船場が始めて市営となり、翌三十九年市内全渡船場の市営が認められ、大阪府より有料経営の認可があつた。また四十年より市営名義に改められ請負経営によった。」とあり、p.93「安治川墜道」の項に「昭和十九年九月十五日十カ年の歳月と約二百五十万円の巨額が投ぜられ ...
祖母が森小路1丁目か2丁目の古市幼稚園に通っていたらしい。昭和18年から昭和20年に存在していたのは確かで、昭和のはじめごろにはあったと思う。今はもうないとのことだが、どこにあったのか、またいつからいつまであったかを知りたい。(大阪市立中央図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/3/7 10:45:28)
from レファレンス協同データベース (2025/3/7 10:45:28)
以下の資料に古市幼稚園の記載がありましたのでご紹介します。なお、いつまで存在したかについて明記されている資料は見つかりませんでした。(1) 『大阪市学事要覧 昭和10年度』(大阪市教育部編 大阪市教育部 1936)「第十編 附録 Ⅱ.私立各種学校及幼稚園(昭和10年5月1日現在)」のp.292に校名「古市」の項があり、位置は「旭区今市町」、創立年月は「大正14.4」とあります。(2) 『大阪府学事職員録 昭和17年度版』(教育通信社編 実業日報社 1942.7)「幼稚園 私立幼稚園一覧」のp.341に「古市幼稚園」の項があり、所在地は「旭区今市町一〇七五」とあります。なお、昭和18年度以降に出版された『大阪府学事職員録』には私立幼稚園の収録がありませんでした。(3) 『大阪市学校幼稚園其他一覧』(大阪市役所教育局編 大阪市役 ...
明治時代にあったという「中之島監獄」について、所在地、規模、収容状況、その他(堀川への移転理由、移転後の跡地活用など)を知りたい。(大阪市立中央図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/3/7 10:44:27)
from レファレンス協同データベース (2025/3/7 10:44:27)
明治6年4月に大阪裁判所構内(大阪市北区中之島1丁目)に監倉が新設されます。明治13年に監倉は「未決監獄分署」に改称となり、その後、「中之島監獄分署」、「大阪府監獄中之島分署」、「中之島監獄」と改称された後、明治20年7月に堀川監獄に移転合併されました。以下の資料に関連記述が見つかりました。1.「中之島監獄」の所在地、規模、収容状況等について明治14年から19年の『大阪府統計書』に中之島監獄(未決監獄・中之島分署)の記載があります。なお、それ以前の『大阪府統計書』は、当館、大阪府立図書館、国立国会図書館とも所蔵がありませんでした。(1) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪府統計書 明治14年』 (大阪府 明15-44) (インターネット公開) https://dl.ndl.go.jp/pid/807135/1/36 (2024.2.23確認)p.58-61(コマ番号35-36)「庁舎 ...
関連する記述のある資料を以下にご紹介します。1.竣工から平成期の保存・再生工事までまとまった記述のある資料(1) 『重要文化財大阪市中央公会堂保存・再生工事報告書』(大阪市教育委員会/編集 大阪市 2003.3)中央公会堂についての資料です。「第2章 大阪市中央公会堂の建築と改修履歴」や「第3章 保存・再生工事の計画」等の章があり、それぞれ詳細な記述があります。「史料」として「設計競技に関する史料」や「創建当初の公会堂に関する史料」等も掲載されています。2.主に竣工時の建築について記述のある資料(2) 大阪大学学術情報庫:山形政昭「大阪市立中央公会堂の建築様式と意匠について」『デザイン理論 』42号(意匠学会 2003.05)p.116-117https://doi.org/10.18910/53125 (2024.9.2確認)(3) 国立国会図書館デジタルコレクション『芸術 : 大 ...
「住吉高燈籠」とは、わが国初の灯台とされる史跡です。鎌倉時代末期に住吉の浜に建てられ、明治41年に改築されるも昭和25年のジェーン台風で倒壊しました。その後、昭和49年に現在地に移築復元されました。下記資料に住吉高燈籠についての記載があります。(1)『住吉区史』(大阪都市協会/編集 住之江区制十周年記念事業実行委員会 1985)p.142に「鎌倉時代末期に住吉浦の漁民らが、住吉大社への献灯と航海安全を祈って立てたといわれる高燈籠は、高さが石垣積みを含めて十六メートルもあり、わが国初の灯台であった。(中略)上部の木造灯室は明治四十一年に改築されたが、これも昭和二十五年のジェーン台風で壊れ、(中略)四十九年十月、住吉名勝保存会が訳二百メートル東の国道二十六号線西側の住吉公園に石垣積みを移して復元し ...
「強頸断間(こわくびのたえま)」とは「日本書紀」の伝説によるもので、武蔵の人、強頸が人柱にされた淀川、茨田(まんだ)堤の決壊地(断間)のことです。以下の資料に強頸断間に関する記述がありました。強頸断間の伝説については、(1)『日本古典文学全集3 日本書紀2』(小学館 1996.10)p.37の解説部分に「茨田堤を築くのに、二か所の切れ目を防ぐ難工事があった。川の神の人身御供として二人の男が選ばれる。強頸は川に沈み、切れ目は塞がる。衫子は川の神と誓約をして勝ち、堤が完成する。世に「強頸断間・衫子断間」という」との記載があります。強頸断間の場所については、(2) 『日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1』(平凡社 2001.7)「旭区」のp.613「強頸断間」の項に「「日本書紀」仁徳天皇一一年一〇月条に、武蔵の人強 ...
以下の資料に阿遅速雄神社のお蔭燈籠について記述が見つかりました。(1)『お蔭参りとお蔭燈籠』(牧村 史陽/著 史陽選集刊行会 1970.4)p.107-136に「お陰灯籠」の項があり、p.107に「伊勢神宮の式年をかこつけに特におかげ参りが流行し、同時におかげ踊りがさかんに行われるとともに、各村々では大神宮への献灯を建て、その棹石に「おかげ」と彫ってそれを記念するようになった。」との記述があります。またp.130に「大阪市城東区放出町(片町線放出駅北東すぐ)阿遅速雄神社 慶応四年戌辰三月 太神宮 おかけ 大型、高さ約三・○m、壇上積式基盤上。下段に、寄進者二十五人、世話人十二人、「松屋町石工源助」の刻銘がある。」と記載があります。(2)『近代大阪の史跡探訪:改訂新版(ナンバーガイド 37)』(大岡 欽治/編 ナンバ ...
以下の資料に「昭和山の由来」について記述が見つかりました。(1)『大正区史』(大阪都市協会/編集 大正区制施行五十周年記念事業委員会 1983) p.144-145に、「昭和山」という人工の山を造ることになった「千島計画」についての記述があり、「昭和43年9月から始まった大正運河の埋め立てに関連して、同44年9月、大阪市が発表した構想で、大正区のほぼ中央、もと大正運河や貯木池、木場のあった千島町一帯に「港の見える丘」(標高35メートル)を造り、その周囲に、高層住宅はじめ区総合庁舎や体育館、グラウンドを設けるという計画で、広さは17.7ヘクタールに及ぶ。(中略)この山造りのため、当時、万国博関連工事で建設が急がれていた地下鉄工事の残土など約170万立方メートル(ダンプカー57万台分)の土砂が盛り上げられた。」「昭和45 ...
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