リンク集 RSS/ATOM 記事
ホーム >>
リンク集 >>
RSS/ATOM 記事 (31109)
ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



①当館デジタルアーカイブ『和歌山県下諸商独案内』(1877年)№44に掲載の「㊂恒産商社」と左側の絵「檜縄製造所」の複写又は写真撮影は可能か。②上記2枚の図に記載されている「和哥山湊久保町濱」「湊久右エ門町」の位置を特定する為に有効な地図や図面があれば紹介してほしい。③「恒産商社」が出てくる資料などがあれば教えてほしい。(和歌山県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/2/1 15:17:43)
from レファレンス協同データベース (2025/2/1 15:17:43)
①デジタルアーカイブに掲載している画像については申込不要で複写可能。原本『和歌山縣下諸商獨案内』(1877年 70丁 8×18㎝)の撮影を希望する場合は当館調査相談カウンターで資料の出納及び資料撮影の申請手続きが必要。複写は不可。 なお、参考に以下の資料を紹介。『和歌山県下諸商独案内抜粋写真集』(森 荘三郎/編 1968年 15p )原本の和歌山県下諸商独案内より復写写真52枚、別に写真3枚を収載。こちらの資料は複写可能。※「㊂恒産商社」と「檜縄製造所」の写真は掲載されている。② 「湊久保町濱」「「湊久右エ門町」の地名は見つからなかったが、以下の資料に関連すると思われる地名の記載がある。『角川日本地名大辞典 30 和歌山県』(角川書店 1985年)p382に「くぼちょう 久保丁」、p363に「きゅうえもんちょう 久右 ...
橋本市・かつらぎ町・九度山町の江戸時代~昭和にかけての料理についての図書(具体的には、郷土料理、伝統料理、ハレ及びケの日の料理、救荒食全般で、調理法まで載っているもの)はないか。(和歌山県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/2/1 15:16:59)
from レファレンス協同データベース (2025/2/1 15:16:59)
『わたしたちの九度山町』(九度山町郷土読本編集委員会編/九度山町教育委員会 /1990)『伊都に伝わる味』からの引用として10品目の郷土料理の作り方が、分量まで載っている。出典元の『伊都に伝わる味』は所蔵していない。『和歌山の味』(角川書店 /1978)伊都地方の料理として、柿の葉寿司のカラー写真、作り方が載っている。『橋本市史 民俗編・文化財編』(橋本市史編さん委員会編/橋本市/ 2005)p45~ハレの日の食事、日常の食事、副食の記述がある。分量など詳細な作り方は載っていない。『かつらぎ町史 通史編』(かつらぎ町史編集委員会編/かつらぎ町/2006)p749~村の生活の記述があり、出産祝いの献立の記載があるが、作り方は載っていない。『高野口町誌 下巻』(高野口町誌編纂委員会編/高野口町教育委員会/1968)p4 ...
次の資料を提供した。1.和歌山市/編(1970).『和歌山公園動物園』.和歌山市.2.(2014).「お城の動物園」『ほうぼわかやま』vol.14,pp.2-5.回答プロセス:『ほうぼわかやま』に掲載されているようだが号数は不明と利用者から情報提供があった。備考:昭和43年の再整備計画については次の資料にも記載がある。京都大学農学部造園研究室/編.(1967).『和歌山公園基本計画』和歌山市経済部公園課.
紀州粉河出身の桃谷華洲(1711~82)について墓碑で華洲の人物評をした 1)西川之次 墓碑を撰した人物 2)西村義卿 伊都郡墓碑を作った人物? 3)伊藤宣蔵 伊都郡 1)、2)、3)の人物に関して何か記録は残っているか。華洲の墓碑があった紀州粉河の真福寺の寺歴の分かる資料はないか。(和歌山県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/2/1 15:15:45)
from レファレンス協同データベース (2025/2/1 15:15:45)
(1)西川之次、西村義卿、伊藤宣蔵に関する資料は見つからなかった。調査資料一覧・和歌山県伊都郡役所 編『和歌山県伊都郡誌』(名著出版 1971)・和歌山県編集『和歌山県史 人物』(和歌山県 1989)・南紀徳川史刊行会 編集『南紀徳川史』(南紀徳川史刊行会 1932)・仁井田好古編集『紀伊続風土記』(歴史図書社 1970)(2)真福寺の寺歴仁井田好古編集『紀伊続風土記』(歴史図書社 1970)(1839年に完成した紀州藩が編纂した地誌)の巻之三十三 那賀郡 粉河荘下 粉河寺の箇所に末寺十三箇寺とあり、眞福寺の名前がある。粉河町史専門委員会編『粉河町史5 文化財編』(粉河町 1996)448-449ページに真福寺についての項目があり、寛文12年(1672)以後真言宗から天台宗に改宗し比叡山の末寺であると記載がある。粉河町史専門委員会編 ...
『南紀徳川史 第6冊』(堀内 信/編 清文堂出版 1990年)p473に『紀州郷土芸術家小伝』より詳しく記載されている。『和歌山県教育史 第1巻 通史編1』(和歌山県教育史編纂委員会/編集 和歌山県教育委員会 2007年)p11に「和歌山に初入国した治貞は、和歌山城中に講席を設け、さっそく家臣に対して儒学教育を始めた。講義は、毎月六回、三の日と九の日に行ない、講師は三日が伊藤蘭嵎、九日が祇園南海門下の坂井敬亭、一三日が南海の息子祇園餐霞、一九日が太田九皐、二三日が木村蓬渚、二九日が阪井謙之助と、交代で務めた。」と記載されている。 なお、国立国会図書館デジタルコレクション(国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp))で「阪井敬亭」や「坂井周道」等をキーワード検索すると、他にも多数の資料が検索結 ...
以前、那智の滝について調べているときに『安倍晴明滝本記』という史料を引用している書籍を見つけた。その書籍の著者・書籍名等がわからない。『安倍晴明滝本記』という史料そのものについてや、これを参考史料としてあげている書籍について知りたい。1:『安倍晴明滝本記』という史料を参考資料としてあげている書籍2:『安倍晴明滝本記』という史料そのものについて3:安倍晴明と那智滝、花山法皇との関係についてまとめている書籍(和歌山県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/2/1 14:36:00)
from レファレンス協同データベース (2025/2/1 14:36:00)
1:以下の資料に「晴明瀧本記」という史料が参考資料としてあげられている。 『熊野 増補新版』(地方史研究所/編 原書房 1982) p416-447「熊野山略記」 p415-416「熊野山略記」熊野山略記について(―解説―)近藤喜博 上記中、p416,447に「晴明瀧本記」の記述がある。 なお、「熊野山略記」は『熊野那智大社文書 第5』(永島 福太郎/校訂,小田 基彦/校訂 続群書類従完成会 1977)p83-131にも収められている。2:上記資料に「晴明瀧本記」という史料が参考資料としてあげられているが、そのものにつ いてわかる資料は見つからなかった。 『ごった煮のおもしろさ『熊野山略記』を読む』(桐村 英一郎/著 はる書房 2021)p204 に「「清明瀧本記」について。」と、この文書について触れているが、「この文書の存在は確認 できなかっ ...
紀伊粉河の人で桃谷華洲(1782年没)について、亡くなった月日・場所、簡単な経歴がわかる文献はないか。(和歌山県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/2/1 14:34:41)
from レファレンス協同データベース (2025/2/1 14:34:41)
『医聖華岡青洲』(森 慶三/共編,市原 硬/共編,竹林 弘/共編 医聖華岡青洲先生顕彰会 1964)p10-11に記載されている以上に詳しい経歴等の資料は見つからなかったが、『遺徳顕彰録 第3輯 昭和17年』(大日本頌徳会 編 大日本頌徳会 昭和17)p518-525「桃谷順天館を大成 薬学博士 桃谷幹次郎氏」の中に「古来の名家であり、連綿薬種業に従事し来った家柄であることを知るのである。尚ほ代々知名の士を出し、桃谷華洲、大納言学天大僧正、春田厚等は世に著聞した。」との記載がある。『遺徳顕彰録 第3輯 昭和17年』(大日本頌徳会 編 大日本頌徳会 昭和17) 《国立国会図書館デジタルコレクション》(info:ndljp/pid/1069787 国立国会図書館 2024.2.29最終確認)で閲覧可 コマ番号294)『粉河町史 第4巻』(粉河町史編さん委員会 編 粉河町 1990) ...
熊野水軍が屋島の戦いに出陣した時に、沼島を経て、沼島水軍とともに屋島に航行したということを裏付ける資料はないか。なければ、熊野水軍が屋島に出陣した様子がわかる資料はないか。(和歌山県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/2/1 14:34:08)
from レファレンス協同データベース (2025/2/1 14:34:08)
熊野水軍が屋島の戦いに出陣した時に、沼島を経て、沼島水軍とともに屋島に航行したということを裏付ける資料は見つからなかった。以下は熊野水軍が源平合戦において出陣した様子がわかる資料。 『田辺市史 第1巻 通史編Ⅰ』(田辺市史編さん委員会/編集 田辺市 2003) p432-437「行命と湛増」、「熊野水軍の瀬戸内海進出」に以下の記述がある。 「結局、屋島の合戦には間に合わなかったものの、湛増に率いられた熊野水軍は、義経の「引汲」 により、この元暦二年(一一八五)二月下旬には、平氏方の阿波水軍の一部(大将田口成良)や鎮西 水軍(大将山鹿秀遠)・松浦水軍などに対抗する源氏方の水軍の主力として、梶原景時が統率する一 四〇艘もの船団や、河野通信に率いられた伊予水軍よりもやや遅延して、源氏に参加した ...
以下の資料に榊原青洲について記載がある。 『和歌山史要 増補5版』(〔和歌山市役所〕/〔編〕和歌山市役所 1965)人物誌p14 『和歌山県誌 第3巻』(和歌山県/編 名著出版 1970)榊原篁洲(p664-666)の記述の中に記載がある。 『南紀先賢列傳 第1編』(和歌山県教育会/編 和歌山県教育会 1937)榊原篁洲(p58-62)の記述の中に記載がある。 『南紀徳川史 第6冊』(堀内 信/編 清文堂出版 1990)榊原篁洲(p443-446)の記述の中に記載がある。 『紀州家中系譜並に親類書書上げ 上』(和歌山県立文書館/編 和歌山県 2011)p257に以下の掲載がある。 「榊原権之助/奥儒者」の親類書(資料番号6112) 「榊原雄之介/御書院番格奥儒者」の系譜(資料番号6104) 「榊原雄之介/御書院番格奥儒者」の系譜(資料番号6106) 「榊原雄之介/奥詰儒者」の親類 ...
以下の資料に関係のある記述がある。 参加者全員ではないが、主な人物名や人数、編成などの記載が含まれている。 『南紀徳川史 第12冊』(堀内 信/編 清文堂出版 1990)p665-706 「長州征伐 一」 『南紀徳川史 第13冊』(堀内 信/編 清文堂出版 1990)p1-124 「長州征伐 二、三」
execution time : 0.285 sec