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桜木町や港の見える丘公園、山下公園などの周辺について、電車が通った頃(明治期)から現在までの移り変わりがわかる資料がないか。明治期の港の周辺はどうなっていたのか、埋め立て等をされて現在の様子になったのか、また舗装される前の道路はどうなっていたのか、それらの整備の様子についてもわかるとよい。写真や地図等でわかるものがあれば見たい。(神奈川県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 13:35:37)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 13:35:37)
以下の資料をご紹介しました。○横浜市全般・『100年前の横浜・神奈川 絵葉書でみる風景』横浜開港資料館編 有隣堂 199920世紀初頭から昭和前期までの神奈川県全域の風景絵葉書をまとめた資料です。p.8-29「第1部 横浜 Ⅰ横浜港周辺」には、山下公園の昭和初期の様子のほか、港からほど近い山下町の様子も掲載されています。舗装以前の道路の状態も確認することができます。p.30-53「第1部横浜 Ⅱ山手とその周辺」中、p.40に「⑤イギリス海軍病院の入口」が掲載されており、現在の港の見える丘公園の地にあったとの記述があります。p.86-123「第1部横浜 Ⅳ関外」中、p.114-117に「桜木町・高島町」が立項されており、現在の桜木町駅の関東大震災前後の様子が掲載されています。・『図説・横浜の歴史』横浜市市民局市民情報室広 ...
神奈川県内には地震の際に萬歳楽萬歳楽とか南無阿弥陀仏とかの伝承が伝わっているか知りたい。また文献などがあれば紹介してほしい。(神奈川県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 13:35:25)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 13:35:25)
以下の資料より、神奈川県内にも地震の際に唱えられる伝承が存在することが判明しましたので、紹介しました。・『平塚市史民俗調査報告書 6 大野』平塚市博物館 1987p.268-269「第8章 口頭伝承 4.まじないと諺」中、p.269に「地震の時、「マンダラッコ マンダラッコ」と唱えるとよい。(南原)」との記述があります。・『大野誌』大野誌編集委員会編 平塚市教育委員会 1958p.1024-1047「第九章 民間伝承 九 俚言俗言」中、p.1042に「まんぜー、まんぜー。 地震の際にとなえられることば。」、p.1046に「桑原桑原。(中略)地震、雷、その他恐ろしいことが発生した時に発せられることば。」との記述があります。以下の資料には回答につながる記述は見つかりませんでした。・『神奈川県史 各論編5 民俗』神奈川県企画調査部県史編集室編 ...
龍神伝説というものがどういうものなのかと、Wikipediaを見たところ、「九頭竜伝承」という記事があり、その伝承が全国各地にあるとのことだった。Wikipediaの記事中に、「箱根の九頭竜伝承と祭祀」という項目があったのだが、箱根の九頭竜伝承についてわかる資料にはどんなものがあるか。(神奈川県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 13:35:12)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 13:35:12)
以下の資料を紹介しました。・『箱根神社大系 下巻』箱根神社社務所編 名著出版 1980 「四 伝説」(p.51-72)中、p.59-62に「六 九頭龍」が立項されています。毒竜が夜になると芦ノ湖から飛び出し村の人々に危害を加えること、龍の機嫌を損ねると、恐ろしい水害や悪い病気が流行ると言われたことから、子供を人身御供として龍に供えることになったが、人身御供となる子供やその家族を哀れに思った萬巻上人は、日夜祈祷を行い龍の心を和らげていたところ、ある日竜が前非を悔いて謝ったので、上人は毒龍を鎖につなぎ、さかさ杉に結び付けると、毒龍は九頭の龍神に化身したので、これを九頭竜神社として祭り、人身御供に代えて三斗三升三合三勺の赤飯を備えた、という伝承についての記載があります。また、毎年行われる箱根神社 ...
「山口正造懐想録」(山口堅吉 /編, 山口正造 /被伝者:1951年 富士屋ホテル)には「富士屋自働車」の設立経緯についての記述はあるか。(神奈川県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 13:35:00)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 13:35:00)
以下の資料を紹介しました。・『山口正造懐想録』山口堅吉編 山口正造被伝者 富士屋ホテル 1951山口正造の還暦祝に寄せられた文や追悼文などをまとめたもののほか、ホテルの事務員である磯野専治が常々談話を記録していたものを合わせ、『懐想録』と題して編輯したものです。磯野専治「山口正造氏自叙還暦之回顧」(p.1-96)中、p.61-84に「私の趣味、世紀の転廻、国賓の来館」が立項されています。富士屋自動車の設立に関しては、p.63-64に、富士屋ホテルに滞在していた米国陸軍少佐のホイトニーの勧告に促されて設立したことやその経緯について書かれています。また、関東大震災時の富士屋自動車の状況について、p.84-96「三大事業、震災と復興の努力と、私の主義」中、p.87-88、p.91を中心に記述がみられます。本人の談ではありま ...
以下の文献を紹介しました。・『横浜美術風土記』横浜美術風土記編集委員会編 横浜市教育委員会 1982 本書は、大正初期から昭和39年までの横浜の美術史がまとめられています。p.25-59「明暗こもごも」中、p.56-59に「五 戦時下の横展」が立項されています。p.58に「(前略)十七年には横浜市翼賛美術聯盟が結成され、戦事色のいっそう濃い美術展となっていく。」、「翌十八年に美術展開催、横展主体と言っても展覧会名そのものが横浜市翼賛美術展となっているから、いわゆる横展とはすでに別途のものといいたいところである。」との記述があります。また、p.125-175に「横浜美術関係略年表」が掲載されており、p.147-148に1942年(昭和17)の記事として、「(展覧会・活動・その他)十一月 横展は戦時下のため廃止 (詳細)昭和七年から ...
・『秦野市史 通史3 近代』秦野市 1992「第5章 生活の変化と町の整備 第3節 関東大震災」(p.457-481)中、p.464-469に「南秦野村」が立項されており、村の被害状況、震生湖のなりたち、当時東京帝国大学の地震研究所・所員専任であった寺田寅彦らが昭和5年に行った調査についてなどの記述があります。こちらの資料は、国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/)にて、国立国会図書館内/図書館・個人送信限定で公開されています。【永続的識別子】info:ndljp/pid/9523033 【該当ページのコマ数】252-254コマ・『図説秦野の歴史』「図説・秦野の歴史」編集委員会編 秦野市 1996p.216-218に「震生湖と寺田寅彦」が立項されています。震生湖の位置や規模、誕生の経緯、前述の寺田寅彦らが行った調査の概要、震生湖の名前の由来な ...
次の資料を紹介しました。・『神奈川縣廳物語 本庁舎建設60周年記念』神奈川県出納局 1989本庁舎の建設六十周年を記念して編集された資料です。p.44~52「神奈川県庁舎の歴史」、p.53~82「神奈川県庁の生い立ち」、p.83~118「4代目県庁舎の建設」に、初代~4代目それぞれの県庁舎に関する詳細な情報が掲載されています。その中に、p.66~67「県庁舎の移りかわり」として、日本大通り付近の建物の変遷が図示され、合わせて県庁舎の位置の変遷も伝えています。p.81のコラム「さまよえる県庁舎敷地」では、三代目庁舎が関東大震災で焼失した後、四代目庁舎の建設地をめぐる動きが記載されています。また、p.56~57に「県庁舎の本籍地を決めた先達 井伊直弼」の項があり、1858年5月の日米修好通商条約によって取り決められた開港場「神 ...
『匠の姿 Vol.4』(出山健示/文 二玄社 1999)p.109に渋柿を2回塗り、その上から黄土を混ぜた亜麻仁油を塗るとある。『傘 和傘・パラソル・アンブレラ』(LIXIL出版 2016)p.74には「えごま油を中心とした植物油の混合油を塗る。」とある。一般社団法人日本植物油協会のWebサイト「竹と和紙と植物油が織りなす和傘の世界」のページには、「荏油(えのあぶら)、亜麻仁油、桐油に、紙に油を浸透しやすくするために少量の鉱物油を混合して使用」とある。https://www.oil.or.jp/trivia/wagasa.html(2024.11.21確認)
白井市立図書館所蔵の『江戸醤油酢問屋伊勢屋宇兵衛の研究 民間活力に徹した人生』(鈴木普二男/著 1990)を紹介。
文化3年頃、ある紀行に大磯から馬で現在の埼玉県川越市へ「なまり節」を運ぶ商人がいたという記述があるが、大磯は「なまり節」製造が盛んであったのか。(神奈川県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 13:29:09)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 13:29:09)
大磯において「なまり節」の製造が盛んであったかどうかの記述がある資料を見つけることはできませんでしたが、参考までに、関連しそうな記述のある資料をご紹介しました。・『大磯町史 6 通史編 古代・中世・近世』大磯町 2004「第三章 近世 第四節 村と人々の暮らし」(p.355-447)中、p.406-432に「五 漁業と浦の暮らし」が立項されています。江戸時代の大磯浦の漁師の生活や漁場、運上や魚の輸送などについての記載があるものの、なまり節などの加工品についてや、川越方面への輸送についての記述は見つけることができませんでした。なまり節の原料となる鰹については、p.426に「鰹漁は相模湾内でも真鶴から内側の地海といわれた真鶴から江の島沖までが良好な漁場で大磯・小磯沖は鰹漁の中心的漁場の一つであった」と記述さ ...
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