リンク集 RSS/ATOM 記事
ホーム >>
リンク集 >>
RSS/ATOM 記事 (23036)
ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



戦国大名・北条早雲が伊勢盛時であり、室町幕府の政所の頭人の伊勢氏の一族だとされているが、北条早雲以降の北条家などの歴代当主が、室町幕府の政所の頭人伊勢氏や政所代の蜷川氏などと交流のあった資料はあるか。(神奈川県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 13:28:41)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 13:28:41)
以下の資料を紹介しました。・『後北条氏家臣団人名辞典』下山治久編 東京堂出版 2006(以下①)こちらの資料は、後北条家の当主や、関係した主な人物が立項されている辞典です。立項されている人物の解説は、古文書や記録類をもとに記述されています。<伊勢氏>①p.47-48に「貞辰 さだとき」が立項されており、「『快元』天文三年六月三日の条では、(中略)氏綱は鎌倉比企谷(鎌倉市大町)で酒宴を開き、(中略)。参加した人達は伊勢備中守貞辰はじめ伊勢八郎、伊勢又次郎・大和兵部少輔入道・千秋入道の面々であった。」との記述があります。文中の『快元』は『快元僧都記』を指しています。『快元僧都記』は次の資料に収録されています。・『羣書類従 第25輯』塙保己一編 続群書類従完成会 1971・『神道大系 神社編 ...
アザラシの記載がある江戸時代の資料としては、本草学等の博物学的視点のものと、蝦夷の旅行記等で名産として記載されているものがある。当館で確認のとれたものは以下のとおり。『本朝食鑑5』(人見必大/[著] 平凡社 1981)p.328,362、『本草綱目啓蒙4』(小野蘭山/著 平凡社 1992)p.66,91、『毛吹草』([松江重頼/編]岩波書店 1976)p.176、「蝦夷島記」(『続々群書類従 第9』続群書類従完成会 1978)p.526、「日本山海名産図会」(『日本庶民生活史料集成 第10巻』宮本常一/[ほか]編 三一書房 1970)p.69~70、『日本庶民生活史料集成 第28巻 和漢三才図会』([寺島良安/著]三一書房 1980)p.545、「東遊雑記」(『日本庶民生活史料集成 第3巻』竹内利美/[ほか]編 三一書房 1969)p.529,p.538、「蝦夷談筆記」(『日本庶民生活史料 ...
天保14(1843)年に奈良を訪ねた旅行記に、図を見て、断り書き付きで、東大寺大仏と大仏殿の寸法が記されている。東大寺は、平重衡と松永久秀に焼き討ちされているが、現在の建物は宝永6(1709)年に再建されたものであり、当時の財政事情から東西はそれ以前の約6割ほどになっている。旅行記にある寸法はいつの時期のものか。(奈良県立図書情報館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 12:30:17)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 12:30:17)
『奈良史料叢書2 庁中漫録4-6』のp.172によれば「朝野群載ニ曰、大仏殿ノ高サ十-五丈-六-尺、東西二‐十九-丈、南-北【中略】東西砌三-十二-丈七尺」とあります。朝野群載は、1116年成立とされていますので、平重衡が燃やした前の寸法です。これですと、旅行記にある寸法の3/5程度で、54m程度と、現在の寸法とほぼ同じです。松永久秀らが燃やした後の再建時の記録がやはり、庁中漫録に掲載されており、この翻刻(島津良子・坂東俊彦「玉井家藏『大仏再建記』解説および史料翻刻」2(『南都仏教』88、2006所収))は、「大仏殿再建案二百分之一正面図」を掲載しています。これによれば、「大仏堂 桁行弐拾八間六尺弐寸梁間弐拾五間四尺一寸」としており、52m程度です。すなわち、旅行記にある大仏殿の東西49間(89m)という数字は、平重 ...
江戸時代の庶民がアザラシをどう捉えていたのか。「縁起の良い魚」(万歳楽)ともてはやしたり畏れたりしたと聞いたが、当時の記録があれば、教えて欲しい。(市川市中央図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 12:25:33)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 12:25:33)
天保4(1833)年に尾張愛知郡熱田前新田の海で捕らえられたゴマフアザラシについての記録が複数ある。『彩色江戸博物学集成』(平凡社 1994)p.364,366に大窪昌章「海獣図」として、見世物として公開され、外国書によって同定し、体測体重、形態、生態の知見を付し、銅版画を作成した等の記載があるほか、同図の写が、国立国会図書館NDLギャラリー「描かれた動物・植物―江戸時代の博物誌―」https://ndlsearch.ndl.go.jp/gallery/nature/31(2024.11.21確認)に掲載されている。『動物奇想天外 江戸の動物百態』(内山淳一/著 青幻舎 2008)p.85には、「又兵衛新之田前新開ニ入込候海獣ノ記」がある。また、「〈天保四巳日記〉海(かい)獺(だつ)談話図会」が西尾市岩瀬文庫のWebサイトで閲覧でき、海獣を見ようと見物人が集まる様子など当時の雰囲気 ...
サンリオが発行していた雑誌『リリカ』について知りたい。創刊の経緯や漫画界からの評価、連載していた作家の一覧などが知りたい。(早稲田大学図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 12:24:18)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 12:24:18)
雑誌『リリカ』で「連載していた作家の一覧」については、一般Webサイトで掲載されているものになるが、複数見つかった。「創刊の経緯」や「漫画界からの評価」については確認できなかった。「連載していた作家の一覧」について(一般Webサイト情報)私設図書館「高橋亮子 作品館」のホームページhttps://www.shiryoukan.org/libinfo/liblist/lyrica/「くだん書房」のホームページhttp://www.kudan.jp/EC/lylyca.html「少女漫画ラボラトリー【図書の家】」のホームページhttps://www.toshonoie.net/shisho/magazine/ririka.html確かな情報を得るためには、『りりか』現物を確認することをおすすめする。「明治大学 米沢嘉博記念図書館・現代マンガ図書館」にも所蔵されている様子。https://manga.meiji.jp/Opac/search.htm?s=5YS1vzZKPBLCwv2TA9pmYx067ib以下が、今回の調査内容。まず、『リリ ...
『ゼンリン住宅地図千葉県市川市 1』(ゼンリン 2023)p.54によると柏井町3丁目には大柏川にかかる「浜道橋」がある。『市川市字名集覧』(市川市教育委員会 1973)によると、柏井町3丁目91~104の字が「浜道」(p.29・図12)となる。『市川の道をたずねて』(市川博物館友の会歴史部会 2005)p.32~34に「浜道」(森亘男/[著])が掲載されており、『更級日記』の菅原(すがわら)孝標(たかすえ)の女(むすめ)が通ったという説や、平将門、源頼朝が通ったという伝説のほか、『成田参詣記』『葛飾誌略』から、日蓮上人が通ったとの説の紹介がある。菅原孝標の女については、『市川 市民読本』(改訂版 市川市教育委員会 1979)p.284、頼朝の伝説に関しては、『市川の伝承民話』(市川市教育委員会 1992)p.94~95にも記載あり。
企業内で活躍していた家政学士であるヒーブ(HEIB)について、特に日本での活動について知りたい。(早稲田大学図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 12:05:39)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 12:05:39)
(1)本学統合検索システムWINEでの検索"HEIB"で検索すると図書や論文がいくつか見つかるので、まずはそれらの資料を確認するとよい。また、各資料の参考文献一覧から、さらに資料を見つけるのも有効。(2)検索用キーワードの探し方大学契約データベース「ジャパンナレッジLib」で検索すると、日本大百科全書にてHEIBに関する記載が見つかった。まずはこの記載を確認し、あわせて検索に使えるキーワードを探すとよい。例として、片岡まりという人物の名前がある。この名前で検索をすると、日本での活動の一部が見つかった。日本の人事部 HRテクノロジーhttps://jinjibu.jp/hrt/article/detl/techactivities/1609/また、日本ヒーブ協議会のwebサイトに掲載されている「活動内容」の「月例研究会」、「分科会・支部活動」、「ヒーブ講座の開催」 ...
「長屋の桜」ではなく「長屋の花見」とのこと。『落語入門』(渡邉寧久/監修 成美堂出版 2008)p.20-21、『あらすじで読む古典落語の名作』(野口卓/著,柳家小満ん/監修 楽書舘 2004)p.120-121。
『市川市史 第3巻 近代』(市川市史編纂委員会/編集 市川市 1975)p.641に、日出学園の設立年と設立者について記載あり。『日出学園五十年誌』(日出学園 1984)p.13から掲載の「学園史」に創立の経緯について詳しく記載あり。
2000年ごろに千葉県の「市川市東大和田2-16-21」にあった、萩原製罐株式会社という企業について知りたい。①いつ頃からこの場所にあるのか。②この場所にできた時から「株式会社」だったのか。③昭和43年ごろの所在地の表記。④「萩原製缶(株)市川工場」があったのが「市川市東大和田2-16-21」なのか。またここ以外にも「萩原製罐株式会社」はあったのか。⑤いつ頃なくなったのか。(市川市中央図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 11:51:24)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 11:51:24)
①『市川市商工名鑑 1966年版』(市川市役所,市川商工会議所 1966)p.60に、「萩原製缶(株)市川工場 本行徳3848」との記載あり。『市川商工名鑑 1963年版』には記載がないため、1964年から1966年の間ではないかと推測される。なお、『市川市字名集覧』(市川市教育委員会 1973例言)p.41に地番「本行徳3735~3856」は現在の住居表示「東大和田2丁目1~17」とあるため、同じ場所だと考えられる。また、1966年の住宅地図の51図に「萩原製缶KK市川工場」の記載があり、こちらからも同じ場所だと考えられる。 ②①の記載から、株式会社。③『市川市商工名鑑 1966年版』では、p.60より「本行徳3848」、『市川市商工名鑑 1971年版』では、p.126より「東大和田2-16」。④住宅地図では、市川工場の記載は、1966年から1981年まで「市川市東大和田2-16-21」(196 ...
execution time : 0.262 sec