リンク集 RSS/ATOM 記事
ホーム >>
リンク集 >>
RSS/ATOM 記事 (26282)
ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



『角川日本地名大辞典 17 石川県』(118552562)p.1339「市町村沿革表」によると、小金・坂井・中口・金川の4村が明治40年8月10日に合併して小坂村となり、小坂村は昭和11年4月1日に金沢市に編入されている。村長については、大正9年刊行の『石川県河北郡誌』(11824575)p.427~428にかけて記載がある。合併以前の小金村長については、「大矢豊?・神保道直・出坂與三郎・林甚右衛門・西元伊三郎」と記載されている。ただし、併合以前の村長については、「今其在職年月を知る能わず」とある。併合前の小坂村長については、以下のようにまとめられている。篠島憲正 明治40年12月21日~明治41年2月10日和久田勝之 明治41年10月13日~大正元年10月12日武内七三郎 大正元年12月3日~大正4年10月6日長野榮次郎 大正4年11月11日~『石川県河北郡誌』発行以降の ...
【金石の日和山の遊園について】 『金石町誌』p.258に記述のある、日和山遊園について詳しく書かれた資料を探している。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:12)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:12)
日和山遊園の詳細について書かれた資料は確認できなかった。金石の日和山については、『金石町誌』(11801960)p.433~434に「金石灯台」の項目があり、明治30年より灯台があったことが記されている。『追憶 昔の金石とその周辺』(109069803)p.90~91に、「金石日和山灯台下海水浴場」という項目があり、明治30年に海水浴場が開かれたことや、二階建ての浜茶屋が軒を連ねていた旨が記されており、日和山下に海水浴場が存在していたことが確認される。『金石町誌』挿図43、44には、日和山下の海水浴場の写真が掲載されている。金石の海水浴場には、浜茶屋のほか娯楽施設も並んでいたことが確認されるが、その所在地が日和山下であるかどうかは確認できなかった。『石川県石川郡誌』(11824573)p.435に金石町の海水浴場の項目があり、「明治三 ...
【郵便規則第39条の3について】 現在は廃止された「郵便規則第39条の3」を知りたい。また、現在日本郵便ではどのような規則になっているか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:12)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:12)
・D1-lowで廃止法令を含めて検索し、上記規則を案内。・「日本郵便」「心身障害者用書籍小包」等をキーワードに検索するも、「心身障害者用ゆうメール」の案内しか見つけられなかった。・日本郵便の「内国郵便約款」https://www.post.japanpost.jp/about/yakkan/1-1.pdf?200501(2020年6月9日閲覧)を見つけ、内容を確認すると、規則に掲載されている内容が重複していたため、これを提供した。
【「義経記」で義経一行が上陸した大野湊の位置について】 「義経記」で義経一行が大野湊に上陸し、粟崎に向かうとの記述がある。義経の時代の大野湊はどこにあったのか。また、金沢リンクスゴルフ場が該当すると聞いて、尋ねてみたところ埋め立て地と教えられた。どのあたりまでが埋め立て地なのか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:12)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:12)
・『地図で見る金沢の変遷』(118365873)で、平成6年頃、明治42年頃の地図を確認。 金沢リンクスゴルフ場のほとんどが埋め立て地であることが確認できる。・加越能文庫所蔵「加越能三州細密図」(近世史料館所蔵史料データベースでイメージ画像を閲覧可能) 天保時代の海岸線が確認できる。・『海の道と川の道・補遺』(119656946)p63 大野湊は大野川河口の湊で、中世から名が残る。大野川は勾配が緩く、海岸は砂丘のため砂が河口付近に滞積すると流路の変化が大きかったと記載あり。・『大野町史』(119810901)p43 中世の文献に「大野荘湊」の名称が複数登場することが記載されている。 中世の港津は、河川の河口から少し遡った地点にあることが多いことから、大野の集落は、大野川に臨んだ位置で営まれたこと。 日本海沿岸の集落のほ ...
【金沢にかつてあったおでん屋について】 万直しというおでん屋について調べている。金沢で最初のおでん屋と書かれている資料を見た。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:12)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:12)
質問者は『大金沢繁昌記』(118273421)を見て質問してきた。同書のp.132に「金澤最初のおでん屋として食通禮讃の的たる「万直し」」という見出しの文章が記載されている。『金沢商工人名録 昭和8年版』(119503141)p.83に「万直し」が記載されていた。「飲食店(おでん)」と記載されている。開業は昭和2年で所在地や氏名が記載されている。戦後の資料では、昭和24年2月現在の『石川県職業別電話番号簿』(118600015)p.49に「万直し」が記載されている。おでん屋とは記載されていない。『特定商工業者名簿 昭和29年度』(119529881)には記載がなかった。『金沢市西南部の歴史』(109068628)p.251に「石坂川岸町の「万直し」(現、勝田パーマ店)」という記述があった。昭和50年頃の住宅地図で勝田パーマ店の所在地を確認後、当館で最も古い昭和38年の住宅地図 ...
<全体に関わるもの>『石川県災異誌』(119565574)項目別索引p.274に「疫病」の項目あり。年表の記述のある頁を引くことが可能。『石川県史 現代篇3』(118412759)p.407~「第八章 保健、衛生」大正~昭和36年にかけての伝染病等に関する記述あり。『金沢市史 現代篇 下』(119562680)p.233~「五、急性伝染病の流行」感染症の種別に項目あり(結核については「四、結核の推移」にあり)。※昭和39年度の赤痢発生数707人発生率2.2%で全国一との記述あり。<近世の感染症>『市史かなざわ 第6号』(119701442)p.62~「疱瘡・コレラの流行と対策」藩政期の疱瘡及びコレラの流行とその対策について書かれた論考。『市史かなざわ 第10号』(119856651)p.27~「藩政期村方における疾病と医療活動」村方の疾病の状況や医療活動について書かれた論考。『金沢市史 ...
【「果実」という言葉の定義について】 自分が持っている電子辞書に、「卵や牛乳が果実に含まれる」というような記述があった。これは本当か。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:12)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:12)
『日本大百科全書』25索引巻(11103516)で「果実」をひくと、項目として掲載されていることが分かり、5巻-p199(11076987)を参照した。以下、引用「果実 カジツ 法律用語としての果実は、物(元物)から生ずる経済的収益をいう。民法では、果実は天然果実と法定果実の二種があり、両者はその性質・取扱いを異にしている。〈天然果実〉元物の経済的用途にしたがって、収取される産物をいう(民法八八条一項)たとえば、くだもの、動物の子、牛乳、野菜などのように有機的に産出されるものや、鉱物、石材、木材のように無機的に収取されるものが含まれる。」→質問者は、法律用語の「果実」の箇所を参照したと思われる。『岩波生物学辞典 第5版』(113428101)を参照。p215「広義には種子植物の~」とあり、植物の器官のことを指す用語とし ...
【絵馬の奉納者について】 明治36年に絵馬の奉納者として名の見える五宝町の朝岡次三郎という人物について調べている。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:11)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:11)
当館所蔵で明治36年に近い年代の商工名鑑を確認したが、五宝町の朝岡姓はなかった。『金沢市史 資料編11 近代1』(119647301)「明治二八年度県税中商業税分賦等級別交名簿」『都道府県別資産家地主総覧 富山編 石川編 福井編』(111825720)「日本全国商工人名録」(明治31年)『明治大正期商工資産信用録 第2巻』(明治42年)(118565346)旧五宝町近辺の地誌情報を記した資料にも記載はなかった。『ひさごのしらべ』(11900260)『瓢箪地区四十周年記念誌』(119611621)『次代に語りつぐひょうたん物語』(119983396)昭和38年の住宅地図を確認したが、五宝町周辺に朝岡姓を確認できず。郷土の絵馬関係の資料でも、手がかりは得られなかった。『芸術学学報 第4号』(109272004)「大野湊神社所蔵の絵馬・扁額悉皆調査の中間報告」『いしかわの歌仙絵馬』(119786495)
【安政3年の参勤交代の際、13代前田斉泰が二俣に行った理由について】 安政3年4月に江戸を出発した斉泰は、いつもと違うルートで裏街道を通り二俣に寄って、金沢に帰っている。二俣に行った理由が書かれた資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:11)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:11)
『加賀藩史料 藩末編上巻』(11801640)で二俣に行ったことが書かれていることは、確認済とのこと。質問者としては、その年2月に子の直会が死んでいることと何かつながりがあるのではないかと推測しているとのことだった。・『加能郷土辞彙』(改訂増補)(119865516)で斉泰の子直会を確認、『加賀藩史料 藩末編上巻』p764 に「2月14日子清之介逝去す」の記載あり(清之介は直会の幼名)。・『加賀藩史料 藩末編上巻』p778「御献上紙等御料紙由緒覚帳」に、斉泰が江戸を発つ前に二俣で御料紙の紙すきを見たいと言い、帰国の際、越中から二俣に来たことが書かれていた。・『山の民物語』(118419580)p223に斉泰が江戸から帰還の際、「途を荒山越にとられ二俣なる山田弥次兵衛の紙漉を観られ三ノ坂を経て小坂村」で休憩をとったとの記載あり( ...
『加能郷土辞彙』(改訂増補)(119865516)p.379に思案橋の名の由来についての項目があり紹介した。その他、以下の資料を紹介した。 同様の内容の『亀の尾の記』(11824824)p.21 現存の橋の来歴の記述を含む『歩む菊川』(109088335)p.29 小説風に書かれた『金沢四十八名物』(11906641)p.121~122 定説以外の逸話の記載のある『金沢・町物語』(118555205)p.288~290
execution time : 0.280 sec