リンク集 RSS/ATOM 記事
ホーム >>
リンク集 >>
RSS/ATOM 記事 (26282)
ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



・当館HPより『金沢商工人名録 昭和3年版』が閲覧できることを案内。その他の名簿として、 『石川県下商工便覧』(118542593)川崎源太郎 1888年刊の復刻。 『金沢商工人名録』(昭和3,6,8,10,14年) 『金沢商工名鑑』(昭和29年~平成15年 一部抜け)・最新の名簿は見当たらなかったので、職業別電話帳を紹介した。・このほか調査した資料 『明治大正期商工信用録』石川県収録の各巻、国立国会図書館デジタルコレクションの『北陸商工業要録 大正11年』はいずれも飲食業の記載なし。【URL】https://dl.ndl.go.jp/pid/923624/1/1 (2020年7月10日最終閲覧) 『石川県商工要覧』には名簿の記載なし。 『東商信用録』『帝国データバンク会社年鑑』は五十音順。 『北陸三県会社要覧』は企業のみ掲載。
【金沢御堂成立以前の中心勢力について】 金沢御堂成立以前の加賀国の支配の中心勢力について書かれた資料を探している。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:11)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:11)
金沢御堂成立以前の加賀一向一揆について書かれた資料を調査した。『図説金沢の歴史』(109173982)p.56~57にかけて、支配の中核的存在に関する記述があり、一家衆である加州三ヶ寺がそれまで掌握していたものが、享禄4年の内紛を経て藤島超勝寺と和田本覚寺が中核的存在になっていった旨が記されている。その他、当該期の概要については以下の資料に記載がある。『金沢御堂・金沢城調査報告書 文献史料編 Ⅰ-2 金沢御堂史料編』(109077369)p.7~13「金沢御堂調査の意義と課題」『金沢市史 資料編13 寺社』p.157~「四 真宗」(119585648)『一向一揆という物語』(118606387)『一向一揆の研究』(129177862)『金沢市史 通史編1 原始・古代・中世』(119881707)『小松本覚寺史』(11822362)p.59~「一揆のなかの本覚寺」なお、当館の以下のレファレンス事例も参考 ...
代替地を与えられた理由について書かれた資料は確認できなかったので、関連するものとして、別院の縁起が書かれた資料と金沢城下町の都市計画や寺院配置について書かれた資料を案内した。『加越能寺社由来 上巻』(118355330) 「寺社由来書上」p.445「西本願寺金沢別院」に沿革が記されている。『本派本願寺金沢別院本堂調査報告書』(109075515)p.1~「創立と沿革」には、「當別院の旧跡は藩主前田公の居城となり御城替の後、藩祖高徳院殿利家卿の室高畠氏が御城内に於て弥陀仏の像を拾い上げられ、旧主を尋ねて本願寺へ寄附されることになり、これが当別院の再興の端緒となって、天正十一年(一五八三)六月袋町に百間四方の寺地を賜り本堂を再建した。」とまとめられている。近世初期の寺院配置政策については、以下の資料に言 ...
【昭和初期の金沢の火災について】 昭和初期に金沢であった火災について載っている資料はあるか。横安江町辺りが出火元と聞いている。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:10)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:10)
質問者の述べるものに該当する火災が何かを調査した。『金沢の百年 大正・昭和編』(119871424)の年表や、『石川県災異誌』(119565574)p.204の気象災害年表より、昭和2年4月21日に横安江町辺りから出火した彦三大火と内容が合致したため、同火災に関する資料を調査した。以下の資料に記載があった。『金沢市史 現代篇 下』(119562680)p.343~345『石川県史 現代篇3』(118412759)p.1130~1133『ひさごのしらべ』(11900261)p.28~30『瓢箪地区四十周年記念誌』(119611621)p.70~74『次代に語りつぐひょうたん物語』(119983396)p.70~75『金沢消防のあゆみ』(119566080)p.322~324『金沢市史 資料編12 近代2』(119788883)p.212~219その他、レファレンス協同データベースに、石川県立図書館の以下のレファレンス記録があった。「昭和初期の彦三の大火と、金沢市の都市計画道路の第一 ...
質問者は『金沢の百年 大正・昭和編』(119871424)大正12年4月12日の火災記事を見て質問してきた。インターネットで検索したところ、金沢の小立野寺院群に城端別院の支院である善徳寺という寺があるという情報を得たので、同寺について調べることにした。小立野関係の資料を調査。『小立野校下の歴史』(109068646)p.258に「善徳寺」の項目がある。明治17年4月に城端別院金沢支院となった旨が記されている。その他、金沢の寺院について書かれた資料にも記載があった。『加越能寺社由来 下巻』(118355320)p.486~487『稿本金沢市史 寺社編』(119531469)p.325
民俗関係の資料を調査。以下の資料に収録されている。『加賀能登の生活と民俗』(118412884)p.344~「北陸の舟唄」『石川県の民謡 民謡緊急調査報告書』(11910150)p.17~の一覧でAc(舟歌)に分類されているもの。『石川県の民謡』(118412795)加賀地方で漁港・漁村を抱える自治体史や集落誌を調査した。『金石町誌』(11801960)p.515~519「歌謡」『安宅誌』(国立国会図書館デジタルコレクション)p.85~舟唄が収録されている。【URL】https://dl.ndl.go.jp/pid/1035962/1/56(2020年7月2日最終閲覧)『金沢市大野町史』(119810901)民謡の項目はあるが、舟唄はなし。以下には記載なし。『塩屋町史』(118575306)『橋立町史』(119630458)『本吉港の歴史』(119956307)
【石浦神社の由緒について】 金沢の石浦神社の由緒について書かれた資料を探している。できれば史料の原文の掲載されているものを見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:10)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:10)
郷土の地誌書や神社関係の資料を中心に調査した。『金沢古蹟志 第3編』(119865893)p.10~13に「石浦神社」の項目があり、寛延2年の由来書など、近世成立の由緒書が部分引用されている。『加賀志徴 下編』(11824805)p.274~275にかけて「石浦惣社山王」の項目があり、「石浦山長谷寺縁起」や「寛延二年之由来記」の記述が引用されている。『金沢市神社大観』(119555602)や『石川県神社誌』(118412230)p.42の項目に石浦神社の項目はあるが、原文の引用はなかった。上記資料の記述より、石浦神社の旧称の由来書を調査した。『式内社調査報告 第16巻 北陸道』(118610245)p.151~155では、延喜式式内社の三輪神社を石浦神社と位置付けている資料についてまとめている(同書では、他の説に関する資料も紹介している)。その他、以下の資料を紹介した。『石浦 ...
【石川県の小作争議の推移について】 石川県における大正~昭和期の小作争議の市町村別の件数の推移と、個別の争議の内容について書かれた資料を探している。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:10)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:10)
質問者は、山口県文書館で所蔵されている『小作争議一覧』のような資料を探しているとのことであったが、当館所蔵の資料で該当するものは確認できなかった(2020年3月現在石川県内には県立の公文書館はなく、県有の公文書の目録も発行されていないため、資料の所在は確認できなかった)。『石川県農地改革史』(119564399)p.105~106の「小作争議郡市別件数一覧表」に昭和4~21年の金沢・小松・七尾の各市と能登・加賀各4郡の争議件数がまとめられている。なお、同表に数字の出所は記されていなかった。『地方別小作争議概要 昭和9年』(国立国会図書館デジタルコレクション)に、同年の金沢市と能登・加賀各4郡の争議件数が記されている。市町村別の数字は把握することができなかった。【URL】https://dl.ndl.go.jp/pid/1910343/1/134 (2020年7月10日最 ...
【尾崎神社の名称由来について】 尾崎神社は明治に改称されたが、尾崎の名の由来は何か。また、最初の名も知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:09)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:09)
・「金沢市神社大観」「石川県神社誌」「加越能寺社由来」「古蹟誌」などを調査したが改称したという記述はあるが、理由については記載なし。・上記により、正式名称は東照三所権現社、俗に金沢東照宮、権現堂と呼ばれた。・「金沢東照宮(尾崎神社)の研究」(119961399)に ① 山の尾(小立野台地)の先端(崎)に立地するから ② 尾山の尾と山崎の崎を組み合わせた と言われている、との記載があった。・山崎の名称については、「石川県姓氏歴史人物大辞典」(118421945)p470に、山崎氏の屋敷地が明治期に山崎町と呼ばれていたとの記載あり。 山崎町は、現在の石引2丁目にあたる(「角川日本地名大辞典 17 石川県」(118552562))。
【金沢の読みについて】 金沢の読みを昔は「かなざわ」と「かねざわ」が使われていたそうだが、「かなざわ」に統一されたのがいつか知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:09)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:09)
『日本歴史地名大系 17 石川県 石川県の地名』(118287258)p.334に「慶応二年(一八六六)五月、前田斉泰が金沢中納言を称したとき「かなざは」と訓ずることを令しており」という記載がある。『角川日本地名大辞典 17 石川県』(118552562)p.261にも、「慶応2年に「かなざわ」と統一した」。と記載されている。同書は、『加能郷土辞彙』(改訂増補)(119865516)p.194や『前田利家』(11826716)の記述を出典としている。『加能郷土辞彙』では、郡村部で「カネザハ」という者が多く、知識階級は「カナザハ」と言っていたと記している。『金沢城と前田氏領内の諸城』(11824308)p.31には、秀吉の朱印状で「かなさわ」、「かね沢」の両様が用いられていたことが書かれている。「前田斉泰が金沢中納言を称したとき」という記述内容をもとに、『加賀藩史料 藩末篇 ...
execution time : 0.282 sec