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特にコーナーは設けていないが、NDC分類689観光事業の棚に本が多く並んでいる。それらの本も含めて回答資料のような本が参考になるかと思う。回答プロセス:グーグルで「コンベンションとは」を検索すると「大きな会議」「国際博覧会」「国際会議(二カ国以上の人が集まり行われる)」質問者に「コンベンションとは何か」を聞くと、「国際会議」と答えられたが、続けて回答資料1 のレシートを見せて「この類の本がほしい」と言われ、ビジネスとしての国際会議について書かれた本をお探しとわかる。タイトル+内容「コンベンション」×分類「6」×資料種別「一般書」で所蔵検索すると12件ヒット → 統計の本を除き、回答資料1を含む9件あり。次にタイトル+内容「国際会議」×分類「6」×資料種別「一般書」で所蔵検索すると上記 ...
1 金沢市の道路元標の所在を書いた本はあるか2 松任の道路元標はどこにあるか3 大正8(1919)年施行の道路法施行令(で決定された道路元標)は現在も有効か4 道路元標の大きさは一律のようだが、法律で決められているのか(石川県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/7/28 10:33:15)
from レファレンス協同データベース (2024/7/28 10:33:15)
1 回答資料1の「加賀国金沢区地誌 壱 皇国地誌 石川県治 金沢市街」の項目「里程」の冒頭に「元標 県庁ノ 東北 尾張町ノ東頭ニアリ」云々という記述があり。(現在、橋場町の交差点にあり)2 資料では確認できず、ウィキペディア「道路元標」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E8%B7%AF%E5%85%83%E6%A8%99(20230111確認) の外部リンク「道路元標が行く。」中に「松任町道路元標」がヒット。http://901.st/901dg/17isk/ishika-2.html (20230111確認)。画像と地図付きで所在地は「白山市中町」 とある。3 ウィキペディア「道路元標」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E8%B7%AF%E5%85%83%E6%A8%99(20230111確認) の記述中に「旧道路法(1919-1952)で(略)道路元標も設置された。現行の道路法に改正されてからは道路元標の法的根拠はなくなった(略)」 とある。また「旧 ...
革の染に特化した資料は見つからず、雑誌記事および図書を紹介。(歴史や技法等ほとんどなし)①国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2304774/1/23東海区水産研究所研究報告 = Bulletin of Tokai Regional Fisheries Research Laboratory (3)タンニン染めにおける海水の使用について / 右田正男 ; 竹井誠/P781~786②国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1765694/1/9農林時報 7(5)浴式タンニン染料 / 右田正男/14③国立国会図書館デジタルコレクション(参加館送信) https://dl.ndl.go.jp/pid/2464145/1/61『皮のなめし方 (農家新書)』川村亮 著 天然社 1953p92 渋揉法(植物タンニン揉法)④目次・索引よりタンニンの染について書かれた資料を紹介。『天然染料の科学』青木/正明?著日刊工業新聞社2019.3タンニンが皮をなめしてくれる原理の説 ...
金沢城が建つ前にあったという古墳と、今の県立図書館が建っている小立野近辺に昔は古墳が有ったらしいのだが、それらが分かる本は無いか。また、金沢市近辺をおさめていた豪族の名前を知りたい。(石川県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/7/28 10:31:50)
from レファレンス協同データベース (2024/7/28 10:31:50)
①金沢城が建つ前に有ったという古墳について金沢城の場所に有ったいう古墳について書かれた資料は見当たりませんでした。(金沢城近辺まではお調べしておりません)②今の県立図書館が建っている小立野近辺に有ったという古墳について現在の石川県立図書館は、金沢大学工学部跡地に建っております。下記資料に、この地に古墳があったという記述がありました。・回答資料1『さきうら』P.290-299 「第8章 名所・遺跡・伝説 二、跡地と遺跡」P.295-296に「崎浦地区遺跡一覧」がございます。このうち、“崎浦御塚遺跡”が古墳であった、という記載があります。地目は“金沢大学工学部”とありますので、石川県立図書館が建つ土地で間違いないようです。参考事項に“数基存在したらしいがすべて消滅”とあります。P.298-299には遺跡 ...
G7各国(カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、英国、米国)の国花・国鳥のわかる資料をパネル展示作成のため探している。(石川県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/7/28 10:30:24)
from レファレンス協同データベース (2024/7/28 10:30:24)
〇回答資料1によると、G7の7国の国花・国鳥は以下の通り(記載がないものもある)。イラストや写真の掲載はない。カナダ:国花・サトウカエデ 国鳥・記載なしフランス:国花・アイリス 国鳥・記載なしドイツ:国花・ヤグルマソウ 国樹・オウシュウナラ 国鳥・コウノトリイタリア:国花・ヒナギク 国鳥・記載なし日本:国花・ヤマザクラ 国鳥・キジ英国:イヌバラ 国鳥・ヨーロッパコマドリ米国:特定の国花なし(バラかセイヨウオダマキが代表花) 国鳥・ハクトウワシ〇回答資料2の巻末「194カ国データ・インデックス」 p217-231に、アイウエオ順で並んだ国名に対して、本文掲載頁と、(国)花・(国)樹、(国)鳥のイラストの一覧の掲載あり。この本の凡例には「(略)国花、国樹、またはその国のシンボル、原産地等の植 ...
犀川周辺エリアという地域の特定ができませんが、加賀藩支配下の金沢での花火の打ち上げなどについて以下の図書に記載があり紹介します。〇論文「加賀藩と花火」(長山直治 石川県郷土史学会々誌通巻42号)があります。内容は「はじめに 1花火の禁止 2江戸藩邸での花火 3近世後期における花火の禁止 4斉広による花火の打ち揚げ 5斉泰による打ち揚げ 6花火の解禁 おわりに」 です。〇『加賀藩を考える』 第3章 金沢町における町人と文化 3 芝居・遊郭・花火 に「江戸における芝居・遊郭・花火」p214-215 「芝居・遊郭・花火の禁止」p217-218 「花火の禁止と藩主斉広による花火打ち揚げ」p243-245 「芝居・遊郭・花火の解禁」p256-259 の項目の記述が参考になると思われます。※第12代藩主前田斉広(1782-1824) 特に「芝居・遊郭・花火の ...
1.『小坂のあゆみ 小坂郷土史』p23『加賀古跡志』に、天正年間、佐久間盛政が尾山城を治めていた時、市中を拡めるため小坂村を浅野川の以北の大樋口へ移転した(加賀古跡志)。とあるが、「小坂村」がこの辺りに移転したという事実を確認できない。『加賀古跡志』とは何か?確認できるか?2.小坂村が移転するころ郷としては田上郷だったのか玉鉾郷だったのか?それにより、小坂神社が野間神社であったかどうかが推定できる。(石川県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/7/28 10:25:12)
from レファレンス協同データベース (2024/7/28 10:25:12)
1-(1) 『石川県河北郡誌』には出典は明記されていませんが、『小坂のあゆみ』と同じ記述があります。1-(2) 『金沢古蹟志 上巻』には「小坂村は金澤の府下広がりし時追ひ出され、今大樋口なる小坂村の地へ移転せしよし云ひ伝へたり。但し其の年暦は旧記に所見なし。」(p431)とあります。1-(3) 『金沢市史 資料編2』の佐久間盛政に関する記述には「小坂村を浅野川の以北の大樋口へ移転した」ということは書かれておりませんでした。1-(4) レファレンス協同データベースに「出典は「加賀古跡誌」(所在不明)」(https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000190205)とあります。以上より、『加賀古跡志』の現存を確認できないながらも、それを典拠とした移転を記した書籍が流布していること。一方で、移転の時期を不明としている書籍が ...
金沢城の石垣に刻まれた刻印に関する資料で以下の3点に該当するものを知りたい。①刻印の種類と意味が、一覧となって記載されたもの②刻印の点在箇所が図(写真)で示されているもの③玉泉院丸庭園から二の丸へ上る途中にある案内板周辺の石垣に関するもの(石川県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/7/28 10:25:12)
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①刻印の種類と意味が、一覧となって記載されたものとして『金沢城石垣刻印調査報告書』(田端 寳作∥著 城郭石垣刻印研究所 1977)があります。この資料は、石垣刻印についての先駆的な研究であり、「相紋」「家紋」「馬印」「石工の符号」を元に刻印者を比定しようとするもので、刻印一覧の記載があります。(宇佐美孝「金沢城石垣の刻印について」(「石川県史だより」41号収載の記述より要約)また石垣刻印の意味として「金沢城の石垣は家臣に受け持ちの区画を定めて普請を行わせたのではなく、石の切り出し段階において各丁場が定められ、各丁場において刻印が施され、それら集められた石材を、刻印に関わりなく積み上げたということになろう」とも書かれていました。(宇佐美孝「金沢城石垣の刻印について」(「石 ...
1966年ごろ、能登半島を一周した。その時、七尾から穴水を船で行ったと思うが、七尾から穴水まで船がでていたか。出ていなかったら、どこからどこにでていたか。大きな島が左に見えた。船を降りてからあるいて禄剛崎まで海沿いに行った。途中トンネルで写真を撮った。どこのトンネルかわらないか。(石川県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/7/28 10:25:12)
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「観光地図 能登」(昭和41年6月発行 昭文社)を確認したところ、七尾港より能登島を左にして宇出津港までの航路が確認できました。能登の遊覧船・航路として①②が書かれています。①七尾貸切遊覧船連絡先能登商船K.Kコース 七尾-和倉 七尾和倉・七尾-野崎七尾-鰀目 七尾-佐渡 能登島一周②定期航路七尾-宇出津-小木-飯田大きな島を左に見るならば、②の定期航路となります。また、『石川県商工要覧』(昭和42年4月発行 石川)p80にd.能登島、奥能登定期航路が掲載されています。該当しそうな航路名は以下の通りです。航路名 七尾-飯田 寄港地 小木、松波、飯田 1日1往復 経営者 能登商船上記より、能登商船の船で,宇出津港または小木港で降りたと考えられます。この宇出津港より、徒歩で禄剛崎まで海沿いにいくと仮定し ...
七尾市にあって閉校になった高等学校(七尾商業、七尾農業、中島の3校分、七尾工業については入手済み)の校歌と楽譜、校舎の写真の掲載されている資料はないか。(石川県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/7/28 10:25:11)
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【七尾商業高等学校】校歌、楽譜、校舎:『七商八十年史』校歌、校舎:『石川県内高等学校学校要覧 平成16年度(2004)到着分』校歌、楽譜:『郷土を知るためのレファレンス』校舎(白黒写真):『石川県高校教育五十年史』【中島高等学校】校歌、校舎:『石川県内高等学校学校要覧 平成16年度(2004)到着分』、『石川県内高等学校学校要覧 昭和以前(~1988年)到着分』校歌、楽譜:『郷土を知るためのレファレンス』、「石川自治と教育」414号「わが町わが学校」校舎(白黒写真):『石川県高校教育五十年史』【七尾農業高等学校】校歌、校舎:『石川県内高等学校学校要覧 平成16年度(2004)到着分』、『石川県内高等学校学校要覧 昭和以前(~1988年)到着分』校歌、楽譜:『郷土を知るためのレファレンス』、「石川自治と教育」46 ...
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