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【松ヶ枝町小学校校舎上のドームについて】 戦前の絵葉書に写っている、松ヶ枝町小学校の校舎上にみえるドームは何の建物なのか知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:17)
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『金沢市松ヶ枝町尋常小学校春季運動会絵はがき』(118599504)「松ヶ枝ポールダンス」の校舎上にドームが一つ、「合同体操」の校舎上にドームが二つ写っている。松ヶ枝町小学校の校舎とは別の建物の先端部分が写りこんでいるようにみえる。松が枝町との位置関係から、表通りの堤町方面の建物と思われる。『金沢商工人名録 昭和3年版』(119503114)p.260-268によると、堤町にある主な金融機関は以下のとおり。下堤町:加州銀行、加能合同銀行、明治銀行、日本生命、国光生命、新日本火災海上保険上堤町:北陸貯蓄銀行金沢支店、日本共立生命、横浜生命『金沢市史 資料編17 建築・建設』(119623121)p.222「図6-10 日本生命金沢支社」をみると、建物の上にドームが取り付けられており、松ヶ枝町小学校の校舎上のドームの一つと思われる。北國新 ...
【犀川の水害について】 室生犀星の作品の中に犀川大橋が流されて雨宝院も被害を受けたことが書かれているが、何年のことなのか知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:17)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:17)
利用者によると、『作家の手記』に書かれていたとのこと。玉川図書館所蔵の『室生犀星未刊行作品集 第5巻』室生犀星/著(三弥井書店、1989)(111105649)で確認した。p.52-63 「作家の手記」『なかむら校下今昔誌』(11931483)p.256-257「水害」大正11年8月3日 金沢測候所開設以来の大雨で、犀川の橋全部、浅野川は天神橋を除いて全部流出。犀川の堤防60か所決壊。市内浸水家屋4,000戸。戸板、大野村までが洪水に見舞われた。当時の写真掲載もあり。キャプション「大正11年8月3日の犀川の洪水。雨宝院の裏の土堤が崩れ、本堂が傾いている。」『金沢・野町の四〇〇年』(119666183)p.66-67「犀川大橋」1922年8月、金沢測候所(現・金沢気象台)開設以来という豪雨によって犀川が増水し、上流からの流木などが橋脚にかかり水を塞き止めたため、片町などの低 ...
○明治2年説をとるもの『かなざわ名妓の栞』(118578916)(出版年不明)「主計町検番」「花柳界になるのは明治二年(一八六九)、東廓の幕末に次いで二番目に古い」と記載されている。『20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜』(改編版)(118388152)p.99「主計町」 「1869(明治2年)」から遊廓となった。」と記載されている。『金沢の芸妓さん』(アクタス2007年1月号別冊)(118487446)p.78「主計町茶屋街」によると、「「主計町茶屋街」は、大正ロマン漂う浅野川大橋から下流の左岸にあり、歴史は明治二年(一八六九)にさかのぼる。」と記載されている。『金沢 歴史と文学と伝統文化に彩られた加賀百万石の城下町』(118457222)(2004年)p.24「主計町」「浅野川に架かる浅野川大橋から中の橋までの川沿いの一画が主計町。町名は、江戸時代に加賀藩士・富田主計 ...
【加賀藩士の履歴書類について】 我が家は宇出津出身で、金沢藩から苗字をもらったと伝えられている。「先祖由緒并一類附帳」というものを拝見するにはどのようにしたらよいか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:16)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:16)
「先祖由緒并一類附帳」は金沢市立玉川図書館近世史料館の加越能文庫に収録されている。「先祖由緒并一類附帳」は『加越能文庫解説目録 上巻』に一覧が掲載されており、目録は以下のページで閲覧できる。【URL】https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/archive.htm上記一覧に涌坂姓は見当たらないが、脇坂姓は2家収録されている。なお、『能都町史 第3巻 歴史編』(11913532)p.343-350によると、宇出津近辺の十村(大庄屋、姓をもらっていた家)に、鵜川村喜三兵衛家(北村姓)、明千寺村愛三郎家(北村姓)、宇出津村秦藤三郎家、宇出津村源五家(姓不明)、鵜川村河合助左衛門家、鵜川村多田六蔵家、宇出津村室谷久八郎家、宇出津村上田彦之丞家がある。
【金沢の由来について】 石川県の金沢のあたりは昔加賀と呼ばれていたが、今は金沢である。金沢の由来は何か。また、いつごろ金沢に変わったのか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:16)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:16)
○「金沢」の文献における初出について・『石川県史 第2編』(118587380)P323「而してその確実に金澤の名稱を発見し得るは、實に天文日記十五年十月廿九日の條に加州金澤坊舎の語あるに始まり・・・」・『加能郷土辞彙』(改訂増補)(119865516)P194「天文日記天文十五年十月廿五日の条に加州金沢坊舎の語があり、天正四年八月廿一日附一向一揆頭目の連署状には『金沢於御堂各被致頂戴』といひ、・・・」・『石川県の地名 日本歴史地名大系17巻』(111271846)P334「地名金沢は「天文日記」天文一五年(一五四六)一〇月二九日条に「金沢坊舎」(金沢御堂)とみえるのが早い例で、金沢御堂廃絶後、城名や城下町の総名に引継がれた。」○芋掘り藤五郎の「金あらい沢」の伝説について・『角川日本地名大辞典17石川県』(11031328)P261「地名の由来は小立野 ...
『暮らしの歳時記 石川編』(118543948)p.202「都市部に多い新盆のお参り」に「金沢では13~16日の新盆を迎える」と書かれている。『加賀能登の年中行事』(118412893)「12、金沢市の歳時習俗」p.261-262「盆行事と節季」に「ウラボンは七月十三日から十六日までの行事で、旧市域では七月、新市域では八月に行う。十三日はボン用意をする(中略)七月十四日から三日間、野田山・卯辰山や寺墓地に家族連れで墓参りをする」と書かれている。
『金沢市史 資料編7 近世5』(119763300) p538「文政二年正月 料理屋株仲間名書」『マンタリテ・金沢 「遊び」からみえるもの』(118368356) p48-51「第1章 名所・行楽地の民衆化と料理屋」p58,62-64「第2章 近世末金沢の庶民の食と料理屋」『稿本金沢市史 風俗編第2』(119564218) p262「第3節 飲食店」『金沢学院大学紀要 文学・美術・社会学編 第9号(』109129438) p291(82)「近世後期城下町金沢における料理屋について」の表1「天保10年の料理屋16軒」『金沢町人の世界 金沢パフォーマンスの原像』(11826084) p167「料理屋」p221「犀川大橋界隈」
【ファブリカという解剖書について】 ファブリカという解剖書がいつごろ日本に入ってきたのか知りたい。江戸時代初期に加賀の前田家が入手したらしい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:16)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:16)
『人体解剖のすべて 解剖学への招待』(111932677)p.77によると、ファブリカは1543年にベルギーのアンドレアス・ヴェサリウスという人が出版した。p.171に「徳川幕府は、三大将軍家光の時代以来、書籍の輸入を長らく制限していました。八代将軍吉宗が、一七二〇(享保五)年にこの制限を緩和したので、ようやく日本にヨーロッパの医学書が広まるようになりました。」との記載あり。ファブリカが日本に入ってきた年は記載されていない。CiNiiによると、1543年の初版本は国際日本文化センター・札幌医科大学・明治大学が所蔵している。【URL】http://ci.nii.ac.jp/books/加賀藩が入手したことに関して、『ブリュッセルのアンドレアス・ヴェサリウス』(112282450)、『ヴェサリウスの生涯 生物化学の創造者』(129101050)、『加賀藩旧蔵洋書総合目録』(11996122 ...
【亀田鶴山の鹿心斎遺稿等の所蔵館について】 亀田鶴山の『鹿心斎遺稿』の所蔵館を知りたい。亀田鶴山(俳号は蘭泉)の俳諧が『としのうち』に見られるが、『としのうち』の所蔵館を知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:15)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:15)
・『鹿心斎遺稿』日本古典籍総合目録データベースで検索、近世史料館「金沢市加越能」「金沢市金陽」に所蔵があると記載されている。【URL】http://base1.nijl.ac.jp/~tkoten/近世史料館のホームページで検索すると以下の記載が見つかった。特091.0-299 鹿心斉遺稿(一名 鶴山遺稿)稼堂文庫 特11.0-2(1) 鹿心斉遺稿 1-5 金陽文庫特11.0-2(2) 鹿心斉遺稿 1-5 金陽文庫特11.0-2(3) 鹿心斉遺稿 1-5 天保6 金陽文庫【URL】https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/archive.htm・『としのうち』日本古典籍総合目録データベースで検索、石川県立図書館「石川県図月明」に所蔵があると記載されている。『月明文庫目録』(119798683)P76で確認できる。「としのうち 写半一冊暮柳舎三世車大編 希也序(享和二年)自跋(後川三回忌追善集 京勝田喜右衛門 野田治兵衛刊の ...
【津田孟昭の湯涌の漢詩について】 津田孟昭が湯涌温泉について詠んだ漢詩があるらしいので、その本文が見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:15)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:15)
『三州遺事』(118596558)に、津田孟昭についてP724『元禄乙亥七月、湯涌温泉ノ行ヲ、詩モテ記ス、スヘテ三十五首、地景ヲヨク寫ケルト也』とあるが、『石川県史 第3編』(118587399)P262に「元禄八年七月涌浦温泉に浴せる紀行の詩三十五首あり、能く其の地景を寫す。」とある。また、『和倉温泉のれきし』(118297020)P15に「江戸時代の史料では、和倉村の漢字表記は和倉と涌浦の二種類あり」、P19に「霧波の中に首出す涌浦の湯 轍士 この句に対して日置謙は「和倉が当代に涌浦と書かれていたことを正しく説明するものであり、海中の埋立地で野立に澡浴していた状も写し得て妙といふべきものである」と述べている」とあることから、津田孟昭が詠んだ漢詩は湯涌温泉ではなく、和倉(涌浦)温泉で記した三十五首であると考えられる。国立国 ...
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