リンク集 RSS/ATOM 記事
ホーム >>
リンク集 >>
RSS/ATOM 記事 (30914)
ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



【前田家伝来の貝桶について】 前田家伝来の貝桶(貝合わせの貝を入れておく容器)の、貝合わせの図柄が全て載っている資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:47)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:47)
例年、ひな祭りの時季に成巽閣で前田家伝来の雛人形や雛道具の展示があるため、著者「成巽閣」で検索。『御雛 一』(119487208)p14『御雛 二』(119379407)p7,23,40 に貝合わせの写真が載っているが、図柄がはっきり分かるのは一部拡大されている写真のみ。全体写真では小さく、個々の図柄までははっきりしない。○「雛人形」で検索してヒットした『名家秘蔵 雛と雛道具』(11014101)p40-41に、成巽閣所蔵の「貝合わせの貝と雛道具の貝」、「貝桶と貝」の写真があるが、これも全ての図案まではわからない。
前回のレファレンス「足利義政の生花について」の続き【URL】https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000289347 (2022年8月26日最終閲覧)撫子の古名、常夏は古今和歌集にも使われており、足利義政の時代より遡る。『日本国語大辞典 第9巻』(112297874)p.1184「常夏」前回のレファレンスで確認した資料を見直し、撫子又はその別名(石竹を含む。)が掲載されていたものは以下のとおり。『日本花道史』(11927207)p.40-41「文明二年奥書の「仙伝書」に於ては(中略)端午 竹 菖蒲 石竹 杜若」『いけばな史論考』(111834193)p.497-511「(付録)巻子本「池坊立花秘伝書」」(永禄6年成立)「端午、竹、菖蒲、石竹」「高不用物(中略)なでしこ」
【ベートーベンの絵画について】 「自然の中を散策するベートーベン」という見出しのついた、ベートーベンがフロックコートを着、ステッキを持って小道を歩く絵が載っている画集が見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:47)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:47)
インターネットで「自然の中を散策するベートーベン」と検索したところ、ユリウス・シュミット(1854-1935)の絵画「孤独な巨匠-自然を散策するベートーヴェン」という記載及び絵画が見つかった。「後ろ手を組み、野を歩く姿」【URL】https://ihatov.cc/blog/archives/2006/10/post_416.htm (2022年12月22日最終閲覧)『ベートーヴェン』(11052263)p.117にJ・シュミト画のベートーヴェンの絵画が掲載されている。
『金沢 もう一面の日本』(118342921)p.154-156「Kanazawa Castle and Ishikawa Gate」、p.156-172「Kenrokuen」『HOW TO SEE KANAZAWA』(119548090)p.2「KENROKU PUBLIC GARDEN」、p.4「KANAZAWA CASTLE」『Kanazawa Japan guidebook』(109087463)p.11「Kenrokuen Garden」、「Kanazawa Castle Park」『introducing KANAZAWA JAPAN』(119362473)p.6-7「Kenroku Garden」、p.8「Kanazawa Castle」『KENROKUEN』(11922442)『金沢』(119452472)p.2(金沢城)、p.3(兼六園)『KANAZAWA JAPAN』(11929191)「Kenrokuen Park」「Ishikawa Gate of Kanazawa Castle」『加賀百万石の城下町への旅』(119985908)p.4-5「寺内町から百万石の城下町へ」『Daimyo Gardens』(419377750)(泉野図書館所蔵)
【高岡城址について】 1870(明治3)年3月、金沢藩は窮民救済と農地増殖のため、古御城、御旅屋跡、桜馬場を民間に払い下げて、開墾する旨、布達したとされている。その後、御旅屋跡、桜馬場は直後に払い下げ手続きに入ったが、古城跡は七尾県が1872年5月に民間払下の落札を決定している。なぜ2年余りにわたり手続きが猶予されたのか、関連資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:46)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:46)
高岡市立博物館の以下のページに「明治3年(1870)、金沢藩は高岡城跡の払い下げ開墾を布達(水堀の埋め立て禁止と原形の保存が条件)しますが、実現はしませんでした。」と書かれている。【URL】https://www.e-tmm.info/siro.htm『高岡古城志』(109172125)p.92に「廃藩置県後、高岡が七尾県に属した頃、県の所管に移されたが、明治五年県が僅かの財源を得るために、此古城址を払下げることにし、全地域を金四千二百五十円で伏木の藤井能三氏に、松杉等立樹凡そ一千九百本を金一千円で高岡の内島六平氏に落札した。」と書かれている。『容膝書屋閑話』p.13に「明治四年七月の廃藩置県後は、県の所管に移りました。翌五年にいたり当時の七尾県当局は、これを民間に開放したばかりでなく、進んで開墾させるためにこれを払下げることにしました。 ...
『日本の金箔は99%が金沢産』(118478474)にシェアについての記載なし。『金沢工業沿革誌料』(119439363) 明治38年発行 p.111に「一箇年輸出スル所大約十五六万円即チ本市物産中其価格ニ於テハ実ニ羽二重ニ次クヘキノ重要工芸品ト謂フヘキナリ」と記載されている。シェアについての記載はなし。『金沢箔の沿革と現況』(119566034) 1966年発行 p.13に「金沢を除く各地では、金箔以外の生産はなく、職人の数も微々たるもので、生産高においても金箔は金沢が全国生産高の92.3%を占めている。その他の洋、銀、アルミ箔は100%金沢で生産されているとみて差支えない。」と記載されている。『加賀金沢の金箔』(118412679) 1972年発行 「はしがき」に「現在においては、全国生産高のうち金箔は90%以上、その素材の上澄と銀箔においては実に百%が金沢産 ...
聞き取りによると、祖父の方は明治生まれで昭和初期に活躍していたとのこと。加賀友禅の記念碑を設置した時に招待されたという。googleで「加賀友禅 記念碑」と検索し、龍国寺に宮崎友禅斎の墓と碑があることがわかった。『石川県史 現代篇5』(11915798)p.477によると、昭和48年5月に加賀染中興の祖宮崎友禅斎の慰霊祭に合わせ業界物故者慰霊碑愛染碑を建立した。北國新聞朝刊 昭和48年5月18日 7面「慰霊碑の除幕も 金沢で加賀友禅まつり」に「ことしは友禅斎の慰霊祭にあわせ、業界関係物故者の慰霊碑「愛染碑」を同境内に建立し除幕、法要を営んだ。(中略)物故者二百三十七人の遺族らが次々焼香してめい福を祈った。」と記されている。『加賀友禅まつり記念帳』(418039605)に昭和28年に開催された加賀友禅の展覧会の目録及び審査員名 ...
【観音院の四万六千日で配る品物について】 『金沢の風習』井上雪/著の中で、観音院の奥様の話として「昔はトウモロコシではなく飴を配っていた」との話が載っている。いつ頃からトウモロコシに変わったのか、また、なぜトウモロコシだったのかわかる資料はあるか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:46)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:46)
江戸時代、文化年間(1704-1717)以降に、江戸から四万六千日のトウキビが伝わってきたものと考えられる。トウモロコシは、元は雷除けの意味だったが、金沢で意味が転じたと思われる。観音院の近くに、「若松飴屋」があったとの記述が残っている。『金沢の風習』(113258549)p.192「浅草は、ほおずき市ですし、こちらは、とうきび市です。昔は飴であったらしいが、いつごろから、とうきびになったものかわかりません。お経に会ったとうきびを頂いて、軒下につるしておくと、一年中豆々と働けて、物負けしないという家内安全の祭りです。」とあり。『日本民俗宗教辞典』(111957818)p.232「四万六千日」の項に、「東京浅草観音」について「江戸時代には、赤い玉蜀黍の実を三角形の紙袋に入れ竹串の先に付けたものが雷除けのお札と ...
【プリマハムの創業について】 1931年9月1日、プリマハム創業者の竹岸政則氏が石川県金沢市にて竹岸ハム商会を創立したとプリマハムの資料に出てくる。この竹岸ハム商会が金沢のどの場所でどういう規模で業務を行っていたのか、わかる資料や内容を教えてほしい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:45)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:45)
利用者より紹介のあった以下のページに竹岸ハム商会の創業時の写真が掲載されている。「竹岸ハム 金沢出張所 TEL(2)1642」と書かれた看板が写されている。【URL】https://www.primaham.co.jp/assets/doc/company/report/2011/prima2011_p10-13.pdf (2022年8月26日最終閲覧)『石川県食肉名鑑』(119572597)に記載なし。国立国会図書館サーチで「竹岸政則」と検索し、以下の文献を参照した。『日本の創業者 近現代起業家人名辞典』(113061196)p.365「プリマハム 竹岸政則」に「(昭和)6年金沢で竹岸ハム商会を創業」と記載されている。『オール大衆』第21巻20号(1968年10月)p.64-65「現代の成功者 その2 新しい世紀を作る食肉王 プリマハム社長 竹岸政則氏」に「竹岸政則氏が金沢の駅前でハム、ソーセージの製造販売をはじめたのは昭和六年九月一日である。(中略)兄弟二人と少年 ...
【安政3年の参勤交代について】 加賀前田家13代斉泰が安政3年の帰国時に高岡、砺波、城端、福光、小俣、二俣、御所村を経由して金沢城に入っている。なぜ通常の倶利伽羅峠越えのルートで津幡から金沢へ帰国しなかったのか。なぜ城端善徳寺を宿泊地にしたのか。参考資料があれば教えてほしい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:45)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:45)
『参勤交代道中記』(118310786)、『加賀百万石と中山道』(118484767)には記載がなかったとのこと。安政3年の参勤交代については、以下のレファレンス事例を参照のこと。「【二又越について】 加賀の参勤交代のルートで、北国街道ではなく二俣を通ったことが書かれた文献はないか。」(金沢市図書館)【URL】https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000219817 (2022年8月26日最終閲覧)「【安政3年の参勤交代の際、13代前田斉泰が二俣に行った理由について】 安政3年4月に江戸を出発した斉泰は、いつもと違うルートで裏街道を通り二俣に寄って、金沢に帰っている。二俣に行った理由が書かれた資料はないか。」(金沢市図書館)【URL】https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000284613 (2022年8月26日最終閲覧)以下、斉泰が城端善徳寺に宿泊した理由に ...
execution time : 0.288 sec