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【和歌の注釈について】 和歌で、「くるるかと 見れば明けぬる 夏の夜を あかずとや啼く やまほととぎす」の歌について調べたい。古今和歌集に載っていたらしい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:30:30)
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・『日本うたことば表現辞典 動物編 3』(118428623)p.400古今和歌集に掲載のことを確認した。以下の資料の注釈、解説等ご覧いただいた。・『古今和歌集全評釈』p.718・『古今和歌集評釈 上』(129461911)p.314・『新日本古典文学大系 5』(11103688)p.62
金沢医療センターホームページ(TOP>病院のご案内>沿革)明治6年 金沢衛戌病院 創設明治32年 現在地に新設昭和12年 金澤陸軍病院となる『金沢市史 資料編11 近代1』p.582「19 明治32年1月10日 観兵式と師団通路、師団兵営を野村に建造し、七連隊門内に高等司令部を設置し衛戌監獄及同病院等も悉く其附近に設けられたれば(後略)」『金沢市史 現代篇 下』p.247「(明治)31年の7月には彦三に金城病院が、12月には金沢衛戌病院がそれぞれ開院された。」『金沢・町物語』(復刻新版)p.235「持て余していた奥村家の邸を軍は気前良く買いとって衛戌病院とした。」
・『金沢市の人口・全市編 その3』p.34~35(年齢・性別ごとに表記あり) ・金沢市ホームページ「いいね金沢」で統計を調べた。(トップ>市政情報>統計データ>過去の国勢調査結果「全市編(その3)従業地・通学地による人口・産業等集計結果 統計表」)【URL】http://www4.city.kanazawa.lg.jp/11018/toukeidatasyu/kakonokokuseityousa.html ・『統計でみる市区町村のすがた2007』(112929353)p.26~27(県庁所在地ごとに表記あり)
・『国史大辞典 14』(111399323)養老律令の項目で、『国史大系第 22巻~24巻』 『日本思想大系 第3巻』(129138686)に掲載との記述あり。・『日本思想大系 第3巻』(129138686)に原文、読み下し文、補注が掲載され、内容的に分かりやすかったため、利用者に提供した。
『加能郷土辞彙』(初版)p.590「得田章光 通称勘解由左衛門。応永3年鹿島郡高畠庄小柴村一分地頭職、同年羽咋郡得田の内半分・代田の内一分並びに土田庄内上村の半分地頭職となった。瀧谷妙成寺蔵応永22年法華経版木は此の章光が願主となって開版したものである。」「妙成寺」について当館の資料を検索し以下の文献を提供した。『年表妙成寺誌』(118404739)『滝谷 妙成寺』(11802654)『石川県姓氏歴史人物大辞典』(118421936)『加越能文庫解説目録 下巻』にて「得田文書」などがあることが分かり、近世史料館にあることを伝えた。『加能古文書』p.311-312、319に得田章光に関する史料が掲載されている。『志賀町史』p.157~、p.183~
・『加能郷土辞彙』(初版)p.811「万子」→p.36「生駒重信」・・・承応3年金沢に生れる。寛文6年父の没後家を継ぎ、遺領のうち300石を賜わった。同11年奥小姓となり、延宝元年旧知1000石となる。同7年馬廻組に列し、元禄16年普請奉行となる。宝永2年5月先筒頭に登り、享保4年4月27日66歳で没した。重信俳諧を好んで万子又は亀巣などと号した。初め檀林を学んだが、後芭蕉に師事して大いに同好を支援した。・『加越能の地名 NO.6』(119994406)p.5・『金沢城郭史料 加賀藩穴生方後藤家文書』(119572819)p.27~29・『俳諧名家列伝』(129466810)p.168・『俳家奇人談・続俳家奇人談』(11091175)p.131~132、326~327
『中国詩人選集 3』(11922733)p.120~『漢魏六朝の詩 上』(113037913)p.199~200『中国歴代漢詩選』(113023444)p.48~49『新釈漢文大系 9 古文真宝(前集) 上』(11006310)p.39~40『漢詩大系 4 古詩源 上』(129587332)p.292~293
①「金沢市立小学校および中学校通学区域一覧表」(119479028)→この資料の中に「校下区分図」H16が収録されている。②「稿本金沢市史 学事編第4」(119562779)p.1186~明治43年の通学区域記載あり。③「金沢市教育委員会五十年史」(119883640)p.708~大正13年以降の小学校通学区域一覧
・「金沢市史 資料編14 民俗」p.424~・「石川県災異誌 1993」・「金沢の迷信」(11801061)p.115~・「越中安政大地震見聞録」(119575884)p.109~ ・「金沢のふしぎな話 1」(118496721)p.100~・「金沢のふしぎな話 2」(109108957)p.243~・「三州奇談」(419279606)p.73・「加賀奇談考」(119679047)p.33、191 ・「金沢市文化財紀要 25-1 金沢の昔話と伝説」p.44、155
【前田家、家臣の人数について】 以前調べた資料には、前田家家臣の人数は、元和1,040人、寛文1,284人とあるが、その人数にはどの程度の家臣までが含まれているか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:30:28)
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以前調べた資料について・『加賀百万石』蔵並省自(クラナミ セイジ)/著(119572087)p.34記載あり。「家中は、元和之侍帳 1,040人、寛文十一年侍帳1,283人(与力以下を除く)」人数が合っているので、この数字と思われる。・『加賀藩初期の侍帳』(119986164)元和之侍帳には惣人数千四拾人(1,040人)と記されている。寛文十一年侍帳は、解説の人数を足すと1,283人になる。それぞれ役柄身分が書いてあるので、この資料を提供した。
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