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企業内で活躍していた家政学士であるヒーブ(HEIB)について、特に日本での活動について知りたい。(早稲田大学図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 12:05:39)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 12:05:39)
(1)本学統合検索システムWINEでの検索"HEIB"で検索すると図書や論文がいくつか見つかるので、まずはそれらの資料を確認するとよい。また、各資料の参考文献一覧から、さらに資料を見つけるのも有効。(2)検索用キーワードの探し方大学契約データベース「ジャパンナレッジLib」で検索すると、日本大百科全書にてHEIBに関する記載が見つかった。まずはこの記載を確認し、あわせて検索に使えるキーワードを探すとよい。例として、片岡まりという人物の名前がある。この名前で検索をすると、日本での活動の一部が見つかった。日本の人事部 HRテクノロジーhttps://jinjibu.jp/hrt/article/detl/techactivities/1609/また、日本ヒーブ協議会のwebサイトに掲載されている「活動内容」の「月例研究会」、「分科会・支部活動」、「ヒーブ講座の開催」 ...
「長屋の桜」ではなく「長屋の花見」とのこと。『落語入門』(渡邉寧久/監修 成美堂出版 2008)p.20-21、『あらすじで読む古典落語の名作』(野口卓/著,柳家小満ん/監修 楽書舘 2004)p.120-121。
『市川市史 第3巻 近代』(市川市史編纂委員会/編集 市川市 1975)p.641に、日出学園の設立年と設立者について記載あり。『日出学園五十年誌』(日出学園 1984)p.13から掲載の「学園史」に創立の経緯について詳しく記載あり。
2000年ごろに千葉県の「市川市東大和田2-16-21」にあった、萩原製罐株式会社という企業について知りたい。①いつ頃からこの場所にあるのか。②この場所にできた時から「株式会社」だったのか。③昭和43年ごろの所在地の表記。④「萩原製缶(株)市川工場」があったのが「市川市東大和田2-16-21」なのか。またここ以外にも「萩原製罐株式会社」はあったのか。⑤いつ頃なくなったのか。(市川市中央図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 11:51:24)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 11:51:24)
①『市川市商工名鑑 1966年版』(市川市役所,市川商工会議所 1966)p.60に、「萩原製缶(株)市川工場 本行徳3848」との記載あり。『市川商工名鑑 1963年版』には記載がないため、1964年から1966年の間ではないかと推測される。なお、『市川市字名集覧』(市川市教育委員会 1973例言)p.41に地番「本行徳3735~3856」は現在の住居表示「東大和田2丁目1~17」とあるため、同じ場所だと考えられる。また、1966年の住宅地図の51図に「萩原製缶KK市川工場」の記載があり、こちらからも同じ場所だと考えられる。 ②①の記載から、株式会社。③『市川市商工名鑑 1966年版』では、p.60より「本行徳3848」、『市川市商工名鑑 1971年版』では、p.126より「東大和田2-16」。④住宅地図では、市川工場の記載は、1966年から1981年まで「市川市東大和田2-16-21」(196 ...
昭和44年9月1日に北方(ボッケ)町1丁目~3丁目は、「市川市住居表示整備実施基準1.(3)発音の難解のもの、長すぎるもの、わずらわしいもの、市内において同名又は類似するもの等は採用しない。」に基づき、読みが「キタカタ」に変更された。昭和49年に北方小学校が創立された時点でも、読みが難解とされ「キタカタ」小学校となったのではないかと推測される。なお、明治期に一時創立された北方小学校は「ボッケ」だった。
『市川商工名鑑 1963年版』(市川市役所 市川商工会議所)p.180-182、『市川市商工名鑑 1966年版』(同)p.152-154、『市川市商工名鑑 1971年版』(同)p.252-254のそれぞれ浴場の項に八幡地区も複数あり、店名・住所が掲載されている。
画廊やオークションなど美術品の仲介業(広くは美術マーケット)が、日本でどのように発達してきたのか知りたい。(早稲田大学図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 11:27:06)
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本学統合検索システムWINEで、キーワード「画廊 歴史」「ギャラリー 歴史」などで検索すると、図書や論文記事がヒットする。資料の詳細画面にて、調べたい内容かどうか確認するとよい。詳細画面の主題に「画廊」や「美術展覧会 -- 歴史」といったものが出てくる場合もあり、これらから再検索する方法も有効。ここから探した資料を実際に見て、画廊やオークションの成り立ち、発展に関する記述がある項目を読み、執筆者の他の著書を探すこともお勧めする。下記に、検索結果の一例を挙げる。以下の資料では、一ギャラリーの歴史にとどまらず、日本の画廊の発展にも触れている。 ◆資生堂ギャラリー七十五年史 : 一九一九~一九九四 / 資生堂企業文化部編. 東京, 資生堂, 1995, ISBN4763095021.https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/permalink/81SOKEI_WUNI ...
臨床検査・検査値について調べるための資料には、以下のようなものがあります。【 】内は当館請求記号です。請求記号が記載されていない資料は、版、巻によって請求記号が異なります。国立国会図書館サーチでタイトルによる検索を行ってください。『資料名』(書誌情報)の後ろに*が付いている資料は、国立国会図書館サーチの書誌詳細画面に目次があります。1. 臨床検査に関する参考図書1.1. 検査項目や検査方法について調べるための資料『臨床検査法提要』(改訂第35版 金原出版 2020.5 【SC231-M119】)*臨床検査全般について、検査方法と検査結果による診断方法をまとめた資料です。検査ごとに検査方法(尿や血液などの採取方法や測定方法)と検査結果の分析方法、検査値から考えられる診断基準などを掲載しています。巻末付 ...
『和ろうそくの世界』(大石孔/[ほか]著 文葉社 2002)p.29~31にハゼの木の実から作る「木ろう」について記載があり、他の植物性のろうについても紹介あり。『キャンドルを楽しむ』(講談社 1986)p.107には、室町後期には、ウルシ、ハゼの実、ヌルデ、ヤブニッケイ等の植物から採取した「木ろう」で和ろうそくが作られるようになったとある。
神田山の開削はなぜ行われたのか。土は日比谷入江の埋立、柳原堤築造に使われたというが、資料を知りたい。(『「水」が教えてくれる東京の微地形の秘密』(実業之日本社 2019)、『地図と愉しむ東京歴史散歩 地形篇』(中央公論新社 2013)は見たとのこと。)(市川市中央図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/13 10:39:52)
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神田山は現在の駿河台のあたり。『日本歴史地名大系13』(平凡社 2002) p.160「駿河台」の項に「江戸城の東にある丘陵。北側に神田川が流れ当初は神田山・神田台とよばれていた」とある。『江戸の都市計画』(鈴木理生/著 筑摩書房 2024) では、江戸建設は「最初から大江戸の姿を目指したのではなく、その時々の必要をみたすために、まず最小限の工事が行なわれ、その結果が熟して新しい必要性が生まれたときに、また建設が追加されるという形のものだった。」(p.177)と解説する。日比谷入江埋立は沖積地不足の解決と、敵船からの防衛のためとし(p.186)、御茶ノ水の掘割りの目的は、平川・小石川の洪水から城と中心市街地を守るためで、揚土は水害を防ぐ土手に利用され、柳原の土手の記述もある(p.190)。p.223には、陸地化の土 ...
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