リンク集 RSS/ATOM 記事
ホーム >>
リンク集 >>
RSS/ATOM 記事 (22970)
ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



【サイパンの戦いにおける日本軍の装備を知りたい】 サイパン島の戦いについて、戦闘時の兵士の服装、武器などの装備品について詳しく掲載されている資料を探している。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:20)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:20)
・サイパン島の戦い『中部太平洋陸軍作戦 1 マリアナ玉砕まで』(129268644)p.374-513「第1章 サイパン島の作戦」に、サイパン島の戦いの全容、「付表第三 サイパン島陸軍地上兵力一覧表」の記載がある。『玉と砕けず 大場大尉・サイパンの戦い』(113211023)p.17-25に「サイパン島守備隊」p.91、p.100に日本兵の小銃等についての記載がある。『サイパンの戦い 「大場栄大尉」を読み解く』(113158374)にサイパンの戦いの全容や、指揮官についての記載がある。『図説玉砕の戦場』(112502170)p.64-78「第4章 サイパン、グアム、テニアンの戦い」に記載がある。上記の資料によると、昭和19年(1944年)6月15日、サイパン島へのアメリカ軍上陸時の日本軍の戦力は、陸軍が第四十三師団、独立混成第四七旅団他28,518名、海軍が第五特別根拠地隊3,111名であったと記 ...
【高源院の不動尊と地蔵尊、馬坂の石碑について】 高源院にある「馬坂不動尊」と「子安地蔵尊」について調べている。また、「大工弥三郎の碑」について調べている。馬坂の由来についても詳しく知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:20)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:20)
観光パンフレット等で石碑の場所などをお調べの上、もっと詳しい情報を知りたいと来館された。下記の2点の資料を提供した。『小立野校下の歴史 原始~現代』(119740790)p.242に「弥三郎供養碑」の記載あり。これによると椿原神社火災の際に御神体を救出しようとして焼死した大工弥三郎を供養するために建立した碑とのことである。p.275に「馬坂の不動明王像」の記載あり。『いし曳』(119456767)p.37-38「馬坂」に、大工弥三郎の石碑について記載あり。提供していないが、下記の資料に質問に該当する内容が記載されている。●高源院について『曹洞宗石川県の寺院紹介 加賀・能登の禅寺を訪ねて』(109203894)p.12に「福母山 高源院」の記載あり。これによると「寛永18年(1641)、前田利家の息女・福姫を弔うために創建。当初は現・大豆田付近に ...
『石川県の歴史 県史17』(109068154)p.242-247に「天保の改革のあと、年寄役長連弘を中心とする黒羽織党とよばれた改革派が安政元(一八五四)年まで政権を担当する」と記載されている。『石川郷土史学会々誌 第44号』(109148854)p.101-115「横井小楠と上田作之丞・黒羽織党について」に記載あり。『北国文華 2003年春 第15号』(179032040)p.110-120「幕末の加賀黒羽織党」に記載あり。『野田山の歴史的研究』(119947489)p.33-35「第4節 黒羽織党」に記載あり。『加賀藩・富山藩の社会経済史研究』(11043624)p.109-133「第5章 加賀藩嘉永期の藩政改革」に、黒羽織党の藩政改革の内容について詳しく記載されている。『加賀藩政改革史の研究』(118412356)p.250-262「第七章 嘉永期藩政の動向」に、長連弘をはじめとする黒羽織党政権の施策について詳しく記載されている ...
【明治天皇の金沢巡幸の際に関わった教員と生徒について】 明治11年に明治天皇が金沢に巡幸され、10月4日には中学師範学校へ訪れているが、当時の教員であったホイットニー(またはウィットネー)氏と、スピーチを担った生徒二名に関して調べている。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:19)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:19)
教員の氏名について、カタカナ表記が曖昧であり、誤りの可能性がある。また、スピーチを担った生徒の氏名は金子重太郎と林文五郎とのことである。 質問者自身で『明治天皇北陸巡幸誌』(118404944)を事前に閲覧しており、別の資料を希望された。●以下の資料を提供した。『石川県史 第4編』(118587405)p.1165-1198に「第四節 神靈還御と鸞輿巡幸」と題して記載あり。その中でp.1184に「公立中學師範學校に入り、教師米人ホイト子―に謁を賜ふ。(中略)化學室にて二人の生徒が英語の對話により電信の原理を講じ、又實驗するを叡覽に供せしに、勅命して邦語により之を再演せしめ給へり」とある。『鳳輦の光 御旛の湿』(118581493)p.56-57に「英語教師米國人ウヰットネーに謁を賜ふ當時校長を缺く因りて縣令御先導化學室に於て生徒金子重太郎・ ...
『20世紀の照像』(118388161)p.20「百間堀と本丸跡・1892年(明治25)」「百間堀と石川門・明治20年代」、p.32「石川橋の建設工事・1911年(明治44)」「百間堀道路の開通式・1911年(明治44)」、p.48「百間堀と少女・1907年(明治40)」
【前田綱紀の時代の桂離宮の造営について】 前田綱紀の時代に前田家の援助で行われた桂離宮の造営工事について知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:19)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:19)
『桂離宮 製作過程の考察』(129295365)p.220-245に、桂離宮の完成は、加賀藩の財力を背景として遂行されたとあり、増築の内容が詳しく記載されている。『桂離宮 隠された三つの謎』(111314308)p.14-15「二,第二の設計者 智忠親王」に、加賀大名前田利常の娘富姫と結婚し、「加賀百万石」といわれる前田家の援助があったと記載されているp.16-38「三,桂離宮の歴史」に、桂離宮の創建、第一期増築、第二期増築、第三期増築の詳しい内容の他、「創建期の復元配置図」「第一期増築後復元配置図」「第二期増築後の復元図」が記載されている。『桂離宮』(129652628)p.29-30「增造の事情」に、前田家からこの山荘增造のための経済的援助があったことや、この時期に增造された建築物や、施工した小川坊城、小堀正春などの記載がある。『わが数奇な ...
『輪島市西保地区』(119991422)p.43-54に「5. 大沢・上大沢の間垣の現状」と題して、間垣の作り方・材料、補修、上大沢での間垣の分担地図等が詳細に記載されている。『西保村史』(118563127)p.263にマガキについて記載あり。『石川ふるさと遺産』(109282234)p.308-309に「間垣で共有空間築く 大沢・上大沢(輪島市)」と題して記載あり。利用者に提供していないが、以下の資料にも間垣の記載がある。『能登の里人ものがたり』(118579136)p.48-54「奇跡の村は「風の都」 輪島市上大沢町・大沢町(旧西保村)」に記載あり。『奥能登万華鏡』(118328234)p.10-11「荒海がはぐくむ垣根[まがき]」に記載あり。『輪島ものがたり ふるさとの風と光と 巻二』(119590030)p.20-21「間垣」に記載あり。『奥能登の自然』(109109319)p.22-27に輪島市上大沢の間垣を含む風景写真が掲載 ...
【加賀地域の経済的豊かさについて】 江戸時代の加賀地域が他地域より経済的に豊かであったことを示す資料(収入比較、統計など)はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:19)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:19)
○石高『経済成長の日本史』(113816695)p.129に「表3-3 国別石高データ,1598-1873年」が収録されている。これによると、1831年天保郷帳における加賀国の石高は483,666石で、全体の中程度である。○人口『地域開発』第9巻第4号「江戸時代の都市人口」p.61-63付表「都市別人口の推計結果」に金沢を含む諸都市の人口の推移が掲載されている(1850年でみると、江戸・大坂・京都に次いで4番目の多さ)。【URL】https://dl.ndl.go.jp/pid/2763677/1/32 (2024年12月19日最終閲覧)○商業活動『城下町金沢』(118412347)p.199「天保六年金沢移入産物」につき、「移入品は多岐にわたり、量・金額もきわめて大きいが、移出品は品別、金額ともに少なく城下町金沢の非生産性、消費的性格をよくあらわしている」と評価されている。『金沢町人の世界』(11826084)p.98「金沢実業人に警 ...
【前田利為の軍人としての態度について】 前田利為が1930年代のロンドン軍縮会議から満州事変に至る過程においてどのような態度を取っていたかがわかる資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:18)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:18)
『前田利為 軍人編』(119366463)p.272-280「ロンドン会議に陸軍委員として」に、前田利為がロンドン軍縮会議で果たした役割や所感などが彼の日記から引用されている。同p.328-340「満洲、上海事変に当面して」に満州事変に対する前田利為の見解が記されている。
【内灘の米騒動について】 1918年8月に富山から始まった米騒動で内灘の女性たちも立ち上がったと聞いている。当時の北国新聞などにそのことが書いていないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:18)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:18)
石川県内の米騒動については以下の資料に記載がある。『風説の碑』(119719465)p.286-291「米騒動の人々」・・・金沢・高浜町・宇出津町・松任町・穴水町『近代石川県地域の研究』(11917682)p.137-178「米騒動」・・・高浜町・羽咋郡堀松村・金沢市・宇出津町・松任町・穴水町・金沢市『加南地方史研究 第50号』(119788972)p.62-66「北陸の米騒動」・・・金沢市・大聖寺町・宇出津町『加南地方史研究 第53号』(119955130)p.36-44「お米と米騒動」・・・金沢市・能美郡湊村・小松町『ふるさと石川歴史館』(118377936)p.412-413「米騒動 金沢へ飛び火」・・・羽咋郡高浜町・羽咋郡堀松村末吉・金沢市・鳳至郡宇出津町・鳳至郡穴水町・石川郡松任町北国新聞の大正7年8月のマイクロフィルムを通覧したが、内灘町の米騒動の記載は見つからなかった。
execution time : 0.254 sec