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参考資料によると、東京府から東京市へと名称変更されたのではなく、それぞれ別の目的で設置された行政区画となります。東京府は、旧江戸市街地及びその近郊を管轄していた江戸府の業務を引き継いで、明治元年(1868)7月17日にはじめて設置されました。東京市は、東京府下の市街地を管理するため、明治22年(1889)5月1日に東京府の管轄地内に設置されました。 なお、昭和18年(1943)7月1日に東京府と東京市が統廃合され、東京府の区域をもってあらたに東京都が発足しました。 ちなみに都民の日の由来は、東京都の前身である東京市が、市政特例体制という東京府庁の管理下に置かれた状態から脱して、完全な自治体として、独立した市役所を開庁した日、すなわち明治31年(1898)10月1日にちなんで、昭和27(1952)年9月、東京都条例に ...
参考資料によると、一般的に諸説伝えられる古い地名の由来は、どの説が正しいと断定するのは難しいといえます。この場合も(1)「木」と付く名前の武家屋敷があった(2)大木が六本あった(3)江戸六方の男達(おとこだて)が住んでいた等の説があります。詳しくは回答プロセスと参考資料をご参照ください。回答プロセス:【資料1】『江戸・町づくし稿』中巻によると、古木の松が六本あったため(『御府内備考』)、「上杉・朽木・高木・青木・片桐・一柳」などの屋敷が六軒あったためで六本樹木があったわけではない、また江戸六方の男達(おとこだて)が住んでいたことから「六方気」が誤って「六本木」となった(『遊歴雑記』)という説を紹介。【資料2】『角川日本地名大辞典』13(東京都)によると「松の大木が六本あった」 ...
現在、東京都中央区にある日本橋が架橋された年については複数の説があるようです。詳しくは回答プロセスと参考資料をご参照ください。回答プロセス:『江戸の橋』(【資料1】)によれば、公式な記録がないため複数の説があるとしています。代表的なのは慶長8(1603)年説、慶長11(1606)年12月8日以前説、慶長17(1612)年以後説などです。『江戸学事典』(【資料3】)、『中央区史』上巻(【資料4】)は慶長8(1603)年説を妥当としています。『東京都江戸東京博物館調査報告書 第16集』(【資料2】)によると、西洋型木橋になったのが明治6(1873)年。現在の石造橋に改修されたのが明治44(1911)年としています。詳しくは参考資料をご参照ください。参考資料:【資料1】『江戸の橋』 鈴木理生/著 三省堂 2006年 請求記号:5150 / 21 /0006 ...
Honda open to re-entering Nissan talks if Japanese rival’s chief leaves
from UK homepage (2025/2/18 9:00:17)
from UK homepage (2025/2/18 9:00:17)
Relations between bosses soured as Honda grew frustrated with Nissan’s restructuring
Germany, Italy, Spain and Poland express reluctance after Britain says it is prepared to commit forces
参考資料によると、かつての角筈一丁目と西大久保一丁目辺りの町名が歌舞伎町と命名されたのは昭和23(1948)年。戦後、娯楽街として歌舞伎を上演する劇場を建設する予定だったため「歌舞伎町」と名付けられましたが、計画はとん挫し現在に至ります。詳しくは回答プロセスと参考資料をご参照ください。回答プロセス:【資料1】『江戸東京学事典』によると、戦後、娯楽街として歌舞伎を上演する劇場を建設する予定だったため名付けられた。【資料2】『角川日本地名大辞典』13(東京都)によると、第二次大戦後の復興計画の際、銀座や浅草のような庶民的な演劇・娯楽センターとして歌舞伎劇場などの建設を意図したことによる。【資料3】『日本歴史地名大系 第13巻 東京都の地名』によると、「歌舞伎座誘致計画の名残」である。参 ...
『東海道五十三次』を描いた江戸時代の浮世絵師、「歌川広重」と「安藤広重」はどちらが正しい呼び名なのか。(東京都江戸東京博物館 図書室)
from レファレンス協同データベース (2025/2/18 8:47:03)
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参考資料によると、かつては本姓の「安藤」と画号の「広重」を併用した「安藤広重」と表記されることがありましたが、現在は「歌川広重」と表記されることが多いようです。詳しくは回答プロセスと参考資料をご参照ください。回答プロセス:【資料1】『もっと知りたい歌川広重 生涯と作品』によると「少々前までは安藤広重と言う呼び名が一般的であったこの絵師、ただし存命中の本人は一度もその本姓と号とを併用したことはなく、歌川派の浮世絵師としてあくまでも歌川広重と署名することから、最近では事典類でも後者のように表記が変わってきている」と書かれている。【資料2】『歌川広重』によると「広重はよく生まれた家の姓から『安藤広重』ともよばれますが、画家としては『歌川広重』とすべきでしょう」とある。天 ...
『仮名手本忠臣蔵』の赤穂義士たちはなぜ揃いの火事装束を着ているのか。実際はどうだったのか。(東京都江戸東京博物館 図書室)
from レファレンス協同データベース (2025/2/18 8:35:24)
from レファレンス協同データベース (2025/2/18 8:35:24)
参考資料によると、実際の討ち入りでは火事装束を揃えたのではなく、黒い小袖を身に着けるよう申し合わせ、各自で装備したと思われます。(備考※1,2に堀部安兵衛の着用したとする装束画像あり。) 『仮名手本忠臣蔵』における火事衣裳については、実際に着用した黒い小袖が火事装束に似ていたので舞台用に派手に演出した等、諸説あります。詳しくは回答プロセスと参考資料をご参照ください。回答プロセス:【資料1】『赤穂事件と四十六士』によると、大石内蔵助が黒小袖を着用するよう命じたことは『江赤見聞記』(【資料11】)にある。『寺坂信行筆記』(【資料12】)を読むと、大石父子はともかく「全員が火事装束を着したというのは疑問」とし、水野監物の家臣東条守拙の『赤城士話』(【資料13】)にあるように「黒小 ...
本館(沖縄国際大学図書館)の所蔵する『中山世鑑』は「影印本」(=複写本)とあとがきに書かれているがオリジナルは何か?この資料の本文はかな混じり文で表記されているが、『中山世鑑』が書かれた当時の文書は漢文表記ではないのか?(沖縄国際大学図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/2/18 8:25:52)
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本館所蔵『中山世鑑』(影印本)のオリジナルは1650年に羽地朝秀が編纂したもので、かな交じりで書かれている。回答プロセス:1,本館所蔵の『中山世鑑』序巻「あとがき」を確認「本書は沖縄県指定文化『重新校正中山世鑑』序の影印本である。」「(原本は)戦前尚家に保管されていたが、今大戦中に米国に持ち去られ昭和28年に返還された。現在沖縄県立博物館に保管されている。」とあるが、県立博物館の収蔵品が1650年に羽地朝秀が編纂したものであるとの記述はない。2,沖縄県立博物館HPで収蔵品を検索、確認検索結果『中山世鑑』発行年などの表記なし。http://www.museums.pref.okinawa.jp/search/museum/search2.php?c=&opt1=0&opt2=0&data1=%C3%E6%BB%B3%C0%A4%B4%D5&data2=&data3=&data4=沖縄県立博物館HP内の常設展についてのお知らせに『中山世鑑』の説明あり。 ...
参考資料によると、ガマの油とは切り傷などに効くといわれた膏薬で、販売する際の刀を使った派手な実演や特徴的な口上で知られました。現在よく知られている「筑波山のガマの油売り」の口上は、【資料1】『江戸の大道芸人 庶民社会の共生』によると上方落語にルーツがあり、恐らく昭和初期に関東に伝わってから「筑波山のガマの油売り」となったようです。よって口上も関西版は「伊吹山」、関東版は「筑波山」となります。口上の内容など、詳しくは回答プロセスと参考資料をご参照ください。回答プロセス:薬としてのガマの油の発祥については不明だが、広く世に知られるようになったのは江戸時代以降とみられる。【資料2】『江戸行商百姿』に江戸時代のガマの油売りの姿が確認でき、薬箱と幟を持っているが、刀を使って ...
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