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『日本書紀』天武天皇7 年(678 年)10 月の条に「重服(じゅうぶく)」(父母の喪)の記載あり。喪とは死の穢れに対して、忌み慎んでいる状態で喪には忌と服がある。忌は厳重な慎みの状態で、服は忌に比べていくらか軽い状態である。養老律令(757 年)喪葬令には、服1 年の期間が天皇・父母・夫・本主、祖父母・養父母は5 カ月、曾祖父母・外曾父母・妻・兄弟姉妹・夫の父母・嫡子は3 カ月、さらに血縁が遠くなるにしたがって、1 カ月、7 日と短期間になっており、これがその後、適用されてきた。江戸時代の1664 年に定められた服忌令(1693 年改正、1736 年追加あり)によると忌中の慣例は門戸を閉じ(中略)、賀せず、弔せず、音楽をなさず、嫁娶せず、兄弟財を分かたずをもって法とし、父母、祖父母などの服喪期間は13 カ月、武士と庶民を対 ...
松島海岸の小高い場所にあった旅館「白鷗楼(はくおうろう)」の四阿(あずまや)。建物自体はもうないので、おおよその場所を資料等で提示した。回答プロセス: 蔵書検索システムで「松島」と「アインシュタイン」に関する資料を検索。ヒットした『新松島ものがたり』『アインシュタインの旅行日記』などを調べたところ、お月見のことは書かれていなかったが、アインシュタインが松島を訪れた日付は1922(大正11)年12 月3 日であることが確認できた。 次にインターネットで「松島 アインシュタイン」をキーワードに検索すると、跡見学園女子大学の紀要に関連する記述のある論文を発見。引用されていた河北新報の新聞記事から、アインシュタインがお月見をしたのは「白鷗楼」であることがわかった。 該当の新聞記事を市民図書館 ...
『仙台・泉の散歩手帖』p75 に古内・上谷刈の地図があり、道路神社のことが記されている。住所は仙台市泉区上谷刈3丁目17(Google マップより)。また、秀衡街道と道路神社の項p89に由来や現況について次の記述がある。「前略~二ツ谷から古道を北上し、約十分歩いた所に道路神社がある。この神社は言い伝えによると昔、古街道に塚を築くとき測量に用いた縄を祀ったものとのことであるが、道六神又は道陸神ともいわれているから、旅の安全を祈願して道祖神を祀ったものであろう。神社の前は住宅やマンションが建ち並び、神社も新築され境内の石仏八基も一か所に整然とまとめられている~後略」。 その他『仙台・泉の散歩手帖』p93、『泉区の歴史探し』p10 にも、わずかだが記述がある。回答プロセス: 蔵書検索システム ...
種類によって、川にも海にも生息している。『総合百科事典ポプラディア 4』p198に「河川や海岸などの水辺にすみ、数頭の群れでくらす。水中を泳いで魚やザリガニなどをとらえて食べる。ほとんどの種が陸でも活動する」との記載があった。また『カワウソ』p54には「ひとくちに水辺といっても、川の上流部に住むものもいれば、湖や湿地、水田にいるもの、さらには海岸にいるものなど、実にさまざまな場所に住むことが知られています。」とある。 生息地域や種類については、『カワウソ』p52に「熱帯から寒帯まで、地球上のさまざまな環境に合わせてそれぞれ進化した動物なので、種類によってだいぶ姿かたちや容貌が違います。」ともある。回答プロセス: 図鑑からカワウソの項目を調べ、動物(480)、ほ乳類(489)の書架から直 ...
陸奥国分寺は741(天平13)年、聖武天皇が国家鎮護のために発した国分寺建立の詔によって建立された。その詔では、国分寺を造る場所について、造塔の寺は国の華であるから人里から遠すぎず近すぎず人々が集まりやすい所を選ぶことと命じている。 国府と国分寺・国分尼寺は近い場所に造られることが多かったようだが、陸奥国分寺は国府である多賀城から約10kmも離れている。国府から離れた場所に造営した理由としては、多賀城には仙台平野の北端部に多賀城廃寺と呼ばれる付属の寺院跡が南東約1.2kmにすでにあったことが関係しているのではないかと推測されている。 そこで多賀城から離れ、集落が広く展開しており、仙台平野の中央に位置する場所として造営地に適していると選ばれたのが、若林区木ノ下であった。木ノ下地区 ...
この部分の名称は「小口印刷」である。 小口とは、本の背以外の三方の断面のことで、背の反対側を小口という。上の小口を「天」または「あたま」といい、下の小口を「地」または「けした」という。 明治期前半の書物は、活字印刷されていても製本は和綴じで背は存在せず、小口を正面にして並べられた。背を正面に向けるようになったのは、明治期後半になってからである。 小口を外方に向けておく習慣があったため、小口に汚れや変色を防ぐための加工や装飾が自然に施されるようになった。小口装飾には、金つけ・色染め・色みがき・バラがけ・マーブル・つめかけ・小口印刷などがある。厚い辞書や六法全書・便覧などには、内容の区分を外から検索しやすくするために小口の一部を切り込み、指で開きやすくしていたが、現 ...
『宮城県百科事典』p872「ばんざんのでんせつ」の項に、「昔、弘法大師がこの山の姿がレンゲの葉に似ているのを見て、霊場にしようとした。99 谷まで開いたが、最後の1 谷をテングの群れに邪魔されて果たせず、紀州高野山に去って金剛峯寺を開いたという。のち、瑞巌寺の雲居禅師が、ここに大梅寺を建てようとしたが、やはりテングどもの邪魔に遭った。それをこの山に住む万二・万三郎の兄弟が、禅師のためにテングを追い払った。禅師は兄弟を山の鎮護として祭った。この兄弟は弓矢の名人で、兄の万二は二口峠の磐司に、弟の万三郎は綱木の蕃山に住み、一体の山谷を駆け巡って猟をしていた。また時には山賊を働いていたが、禅師の徳にうたれて弟子となって山賊の足を洗った。蕃山の頂上に雲居禅師の廟、常寂光塔があり、 ...
河北新報1999 年12 月16 日付朝刊に「焼き芋の「ピー」は仙台だけ?」という見出しの記事があり、これによれば仙台の焼き芋屋は「ピー」という蒸気音を鳴らしながら売り、関東では「♪石焼~き芋」と声を出して売り歩くのが普通で「ピー」は皆無であるという。関西や中国地方は「ピー」と売り声の併用が一般的で、東北は「ピー」だけが多いようだ、と記載があった。 同紙2017 年3 月4 日付朝刊の記事には「全国的には拡声器で「石焼~き芋」と流すのが主流でも、宮城は昔から「ピー」。定かではないが仙台発祥との説もある。」と記載があった。また、『ニューニューせんだいノート』p51 には「仙台の焼き芋屋は、ほかの県と違って音だけなんですよ。ピーっという音がすると、焼き芋屋が来たという合図。ほかの県だと、『石焼 ...
戦前、川内にあった仙台第二師団兵営炊事場前で残飯の流れ来る堀を残飯沼と称したのが名前の由来。当時はフィギュアスケート発祥地の五色沼とともにスケートができる沼であった。『宮城県の昭和史 下 近代百年の記録』によると、戦前当時は川内にある扇坂を上がったところにあったと記載されている。なお、「仙臺市全図」(大正元年発行)などの地図を参照したが扇坂付近には残飯沼という名前の沼は記載されておらず、戦後発行の『復刻JTB仙台市街図昭和24年版』にも記載がなかった。回答プロセス: 国立国会図書館デジタルコレクションで「残飯沼」を検索すると、該当すると思われる仙台の残飯沼についてと思われる記載が、雑誌「臨床研究1(1)」、『お玉杓子の頃』、『愉快な数学教室:プラス・マイナス50年 新数 ...
1911(明治44)年11 月に旧制二高グラウンドで「第1 回東北六県中等学校野球大会」を開催。この当時、朝日新聞が野球害悪論を掲載していたため、旧制二高の野球部員であった三鬼隆らが学生野球の健全さをアピールしようと試合前に両チームがホームベースを挟んで挨拶することを考案し、その場で行った。これが高校野球の試合前挨拶のルーツであるとされる。その後、旧制二高は京都で開かれた旧制高校の全国大会に出場し、この大会で同校が試合前挨拶を提案し実現したことによって、甲子園大会にも採用されるなど全国に広まり、アマチュア野球の日本独特のスタイルとして定着した。回答プロセス: 「高校野球 試合前あいさつ」をキーワードにオンラインデータベースを調査すると、朝日新聞記事の「野球の試合前挨拶、発祥の ...
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