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【時計師について】 江戸時代の石川県の旧藩における藩政日記や日録と云った藩の記録、分限帳、諸職人の記録などから、職人としての時計師の存在やその事績について、教えてほしい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:40)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:40)
〇藩の記録、分限帳『加賀藩御細工所の研究 1』(119617509)に諸記録、分限帳の翻刻が収録されている。底本及びその他の関連史料については、近世史料館ホームページに掲載されている『加越能文庫解説目録』を参照のこと。【URL】https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/archive.htm〇諸職人の記録金工の御用職人であった水野源六家の史料が『金沢金工師水野源六家史料』(109072587)として翻刻・紹介されているが、時計に関する記述は見つけられなかった。〇職人としての時計師の存在やその事績『からくり師大野弁吉とその時代』(118492482)本康 宏史/著 p.18-22「時刻制度(時鐘法)の改正」に、遠藤高璟らによる時刻改正の沿革がまとめられている。その中に「正時版」という時計を制作した「金沢竪町住 時計師與右衛門」「御時計師治助」の名がみえ ...
【金沢城への出仕方法について】 武士が仕事のため金沢城に出仕(登城)する際、馬で行ったのか、徒歩で行ったのか。どこまで馬で入れたのか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:40)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:40)
〇登城方法についてまず一般的な方法を調べるため、レファレンス協同データベースで同様の事例がないか検索したところ、以下のものが見つかった。・大名の江戸城登城はどんな様子だったか 。(江戸東京博物館)【URL】http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000024880 ・江戸城への大名登城のルートについて知りたい。(近畿大学中央図書館)【URL】http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000088914 上記に挙げられていた参考文献『図説江戸城その歴史としくみ』(112968010)p.8に「登城の際、馬や乗り物から下りるところが下馬所で、城内で輿や駕籠に乗る資格のない者はここから徒歩になり、連れて入れる従者の数も制限された」と記されている。同図版「『徳川盛世録』に描かれた登城風景」には、徒歩・駕籠・馬で登城する武士や、その従 ...
【珠洲の十村について】 「能登国十村等由緒」、「安政四年御改作所書上御扶持人十村等由緒」という資料が見たい。珠洲郡飯田村の十村、北村彦太郎家について調べたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:40)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:40)
「能登国十村等由緒」、「安政四年御改作所書上御扶持人十村等由緒」は、いずれも加越能文庫に収録されている。『加越能文庫解説目録 下巻』p.320に解説あり。『加越能近世史研究必携』p.131「十村一覧」に「北村彦太郎」の名が散見される(文政~天保頃の人物)。『加賀藩農政史考』(119564380)p.63「文政七年申七月現在十村氏名」に「三崎組主付北村彦太郎」「若山組当分主付北村彦太郎」と記されている。『珠洲市史 第6巻』p.175「珠洲郡十村組変遷表」に「飯田村三郎右衛門」(寛政9年)、「三崎〔組〕飯田村清三郎」(文政4年)、「直〔組〕飯田村 喜三右衛門」の名がみえる。北村彦太郎との関係は不明である。
【梅鉢清水について】 梅鉢清水の古い写真が載っている資料はないか。(梅鉢清水の傍にあった松の写真が見たい。)(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:40)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:40)
『石川県の地名』p.396によると、梅鉢清水は現在の金沢市大和町にあった清水で、明治4年(1871)に「梅鉢清水町」が正式町名となった。『加能郷土辞彙』(初版)p.83及び『亀の尾の記』p.50-51にも概要が説明されている。『金沢町絵図』p.470に梅鉢清水の絵地図が掲載されている。『金沢市詳細図 明治38年』に「梅鉢清水」の町名と「金沢機関区 梅鉢揚水所」の記載があるが、泉の形状は記されていない。『ながどへい』(11918264)p.6及び『文化と歴史と夢のある街』(109071964)p.89に梅鉢清水の傍に建てられた給水塔(地上水タンク)の写真が掲載されている。『北國新聞縮刷版 平成9年8月号』(119885911)p.1040、平成9年8月23日朝刊22面に「「梅鉢清水」の横額市民芸術村に帰る」という記事が掲載されている。額の揮毫者は画人の小松砂丘である。ダイワボウ ...
○寺町『ふるさと写真館』(118505956)p.45「松月寺の大桜」(明治30年頃、大正6年頃、大正13年頃)、p.124-125「野町広小路界隈」(金沢市野田寺町5丁目(現在のつば甚前付近)から眺めた野町広小路、金沢市広小路から寺町を望む)『金沢のいまむかし 写真と地図でみる』(118498145)p.20-21「寺町台地より市街地中心方向のまちの姿」(昭和8年、望楼付きの木造三階建ての建物)『写真集明治大正昭和金沢』(109152230)p.15「寺町の松月寺大桜付近」(大正期、大正末-昭和初期)○飛梅町『ふるさと写真館』p.56-57「金沢第二中学校」(明治頃)『北陸鉄道の歩み』(119561898)p.30「市内電車開通前の石引町」(大正6年)、「同市内電車開通後のもの」『石川百年』(109204668)p.13「大正初期の金沢市出羽町」『写真集 明治大正昭和 金沢』p.8-9「石引町」(市電開通前・後)○石引町『 ...
・『金沢市史 通史編3 近代』p518~519「大正6年(1917)、金沢初のカフェーブラジルが、やはり香林坊に開店している。(中略)純喫茶店は昭和に入って定着した。片町のミドリヤ、カナリヤ、尾張町の石黒ファーマシーなどが古く、6年に香林坊交差点の明治製菓(明菓)が開店」・『金沢の百年 大正・昭和編』(市史年表)( 109089889)p53「大正8年(1919)11.3 石浦町にカフェー・ブラジルが開店した。金沢最初のカフェー」・『20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜』(改編版)(118388152)p133香林坊交差点の写真解説に「金沢におけるカフェーの草分けのブラジル(1919年〈大正8〉開店)」・『金沢商工人名録 昭和3年版』(119503114)p40~41カフエ・サンライズ 大正12年創業カフエー・ブラジル 大正8年創業カフエ・パリー 大正13年創業カフェエー・ミカド 昭和2年創業 ...
【狂言の野村家について】 野村萬斎の先祖が金沢出身と聞いたことがあるが、そのことについて詳しく書かれた文献はないか。江戸時代には金沢のどの辺りに住んでいたのか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:39)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:39)
『かなざわ偉人物語 5』(119870338)p148-『能楽史話』(129417074)p396-397『演劇百科大事典 第4巻』(11825266)p407-408『能・狂言事典』(113108828)p441『能楽大事典』(113192053)p703-『六世野村万蔵 狂言の道』(112202825)p167「萬斎聞書」の章に「私は加賀は金沢、桶町の産であります。」と記述あり。『かなざわ偉人物語 5』p150「明治十六年(一八八三)、五世野村万造(六世野村万蔵の父)は二十一歳の時、金沢の桶町(今の尾張町)から、(中略)上京した。」と記述あり。『角川日本地名大辞典 17』(118552562)p207桶町(おけちょう)は、現在の彦三町1・2丁目、尾張町2丁目『金沢町名帳』p316「新町」の項に「御家中日用才許・狂言方役者・記録方并居町組合頭 野村万蔵」の名前がみえる。野村万蔵の居住地は『金沢町絵図』p226に記載されている。それによると、現在の尾張町2 ...
調査過程・『金沢商工人名録 昭和3年版』(119503114)P36で創業明治12年であることを確認した。→創業者は大友佐一とわかり、県立図書館の石川県関係人物文献検索を確認した。『石川県人名事典 現代篇3』(118311694)P55によると、明治31年から駅弁当屋になると記載あり。・『金沢老舗繁盛記』(119621969)P9、『金沢の老舗』(11841303)P52、『老舗のおかみ 金沢・加賀・能登』(118393134)P34に創業1830年、加賀藩の御膳所(ごぜんどころ、ごぜんしょ)を永く勤めていたと記載あり。・『老舗百年』(11909605)P59には「大友儀左衛門は加賀藩御料理頭を八十石で勤めて」いたとある。・『包丁侍舟木伝内 加賀百万石のお抱え料理人』(113313570)P31に大友儀左衛門が安政5年(1858)11月18日御料理頭に就任したとある。(出典:諸頭系譜下P905)・『加能郷土辞彙』(初 ...
【金沢カレーについて】 金沢カレーの発祥について書かれた資料はないか。また、代表的な金沢カレーの店がどの辺りにあるのかを知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:39)
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北國新聞記事データーベースから検索。北國新聞の2009年1月6日から1月10日 ふるさとから挑戦第二話厨房の鬼②によると・1961年にチャンピオンカレーの創業者田中吉和がのちに「金沢カレー」と呼ばれる独特のカレーライスを始めたとの記載あり。・その他、会社組織の創業や、後に「金沢カレー」と呼ばれるカレー店の経緯等についても比較的詳しく触れている。同記事で記載されている。「金沢カレー」の店舗については以下のとおり。カレーのチャンピオン 全国に43店舗ゴ―ゴーカレー 全国67店舗 海外6店舗(アメリカとブラジル)カレーの市民アルバ 関西・関東中心 6店舗ターバンカレー 北信越・関西に4店舗『石川あるある』(118570865)p.15「カレーはやっぱり「金沢カレー」に限る」『金沢の法則』(118574327)p.088「「金沢カレー」が全国ど ...
『夢二 美の巡礼者』(119706411)p.3「岸たまき(戸籍名は「他万喜」)、金沢市味噌蔵町下中丁3番地で、明治15年7月28日に生まれている。父は加賀藩士の出、岸六郎右衛門である」『全仕事・竹久夢二の世界』(119706387)p.8「たまきは、金沢市味噌蔵町(現大手町)に生まれ、代々加賀藩に仕えた士族の娘であった」『お葉というモデルがいた』(111728691)p.96「早稲田鶴巻町の絵はがき屋「つるや」の女主人、富山県出身の岸たまき(戸籍上は他万喜)である」『竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔,生誕130年永久保存版』(113466120)p.24-34「夢二の想出」(岸たまきの回想録)『日本女性の歴史 12 大正の女性群像』(11011195)p.114「岸たまき(戸籍名他万喜)は石川県士族の裁判官の次女」小林文庫の中に岸たまきの略歴に関する資料は見つからなかった。
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