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【山川庄太郎について】 竪町で酒造業を営み、雉の香炉を寄贈したことで有名な山川庄太郎家の経歴(とくに2代目)が知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:34)
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山川庄太郎の祖父は米出屋甚兵衛といい、天保期頃の人物ではないかとのこと。2代目は幕末-明治期の人物と思われるが、『金沢市史 資料編11 近代1』所収の「商工業名簿」(明治28年)に名前なし。石川県関係人物文献検索で「山川甚兵衛」の名前あり。出典として「山川家の沿革」『石川県指定有形文化財旧山川家住宅移築修理工事報告書』(109111335)p.5-6が挙げられていた。家系図及び詳細な経歴等については『山川美術財団記録誌』(119470372)を参照のこと。初代:山川甚兵衛 文化13年(1816)-明治10年(1877)、割出屋から独立、米出屋を称す。竪町で米仲買商と質屋を営む。二代:山川甚平 嘉永5年(1852)?-明治23年(1890)、冨沢家次男、酒造業を営む。三代:山川庄太郎 明治9年(1876)-昭和36年(1861)、酒造業の傍ら米穀取引所や加州銀行などの重役、金沢市 ...
【石川県金沢病院富山分院跡の出土遺物について】 石川県金沢病院富山分院跡から「病院」銘の入った徳利が出土された。このことに関する石川県側の資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:34)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:34)
金沢病院は、金沢医学館の後身、金沢大学医学部の前身の組織に当たる。沿革については、『石川県金沢病院沿革』(11916191)、『金沢大学医学部百年史』(119566384)、『金沢大学医学部創立百五十周年記念誌』(109164025)が詳しい。金沢病院の初期の備品については、『金沢大学医学部百年史』p.156-158に医療器械等の記載があるが、徳利は見当たらない。送付いただいた徳利の写真を見ると、素焼に緑色の釉薬がかけられ、陶磁器ではないと判断される。石川・富山近辺で類似のものして、越中瀬戸、越中丸山がある(『世界陶磁全集 9』(11822593)p.196-197)。『金沢大学医学部創立百五十周年記念誌』p.87により、金沢大学医学部キャンパスの発掘調査が行われていることがわかった。『金沢大学文化財学研究 2』(119957046)p.34-38に「金沢病院賄」などと記さ ...
石川県関係人物文献検索に「北村宗甫」なし。ただし、「宗甫」で検索すると、「北村三郎右衛門宗甫」がヒットし、通称が「三郎右衛門」であることがわかった。『石川県史 第3編』(118412721)p.355『加能郷土辞彙』(初版)p.233「北村三郎右衛門」『白山万句』(11917019)p.306-307『国文学 解釈と鑑賞 第66巻11号』(170227522)「連歌作者層の拡大」鶴崎 裕雄/著 p.104「北村宗甫は、加賀藩の「先祖由緒并一類附帳」(金沢市立図書館加越能文庫)によると、前田利家の尾張時代から仕え、越前府中で百石の知行を得、以後、千二十石まで加増され、前田利長の代で養子に家督を譲り、出家して宗甫を名乗ったとある」
【参勤交代の金沢城下のルートについて】 参勤交代の行列が金沢城下のどの道を通過したかが書かれた資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:34)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:34)
『参勤交代道中記』(118310786)p.48「初入国の時は、城下金沢に一里半も遠い森下から行列を建てて入場した」『加賀百万石と中山道の旅』(118484767)p.80「金沢城を発駕するときは、約2キロほど馬上の人となり、城下と郡部の境になる「松門」という所から駕籠に召された」「松門」については、『加能郷土辞彙』(初版)p.781に「藩政の時金沢上口・下口の町端路傍に松樹一株があつて、之を松門と称した。上口の松門は泉新町国造神社の向かう町家の前に植ゑ、下口の松門は春日町と大樋町の境にあつた。これは或時代に於ける町地と郡地との境界で、藩侯の参勤する時、これより内は供廻の行列を立て、外では行粧を崩す例であつた」と説明されている。『太梁公日記 第1』(109068870)p.67に「町端より尾坂門迄ミセ一ハイ、アキ所もなく大勢罷出候 ...
【宇留地茂右衛門の宗門帳について】 『石川のキリシタン』p.123で紹介されている、(宇留地)茂右衛門が記載された宗門帳が見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:34)
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宗門帳について、『石川のキリシタン』(109140622)p.123「宇留地茂右エ門のこと」に以下のように記述されている。「昭和40年、羽咋郡志賀町からこの茂右エ門に関する数枚の文書が発見された。この文書は二種類に分かれていて、一つのものは天和2年(1683年)6月につくられた宗門帳で、他は同年8月茂右エ門家財闕所に関するものである。(中略)この茂右エ門に関する文書が筆写手許にある以外に西福寺に一、二枚あるやにきいていたが目にする機会なきま々今年春、西福寺は焼失し、うしなわれた」宗門帳のうち茂右エ門に関する部分は同p.124-125に翻刻されている。志賀町の古文書を収録した『志賀町史 資料編第2巻』(119563589)、『石川考古学研究会々誌 第7号 石川県羽咋郡旧福野潟周辺総合調査報告書』(119547960)、穴水の古文書を収録した『能 ...
【算用場について】 算用場・勘定所の記載がある金沢城下地図があるか。(千葉在住の為)あれば、その本を買いたい。もしくは、地図のコピーが欲しい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:33)
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『金沢・北陸の城下町 城下町古地図散歩 1』(119952792)p.14・付録地図『猪山直之日記 加賀藩御算用者』(113097976)巻頭『城下町金沢の人々 よみがえる江戸時代のくらし』(119661472)p.23・25・28上記3冊の地図に「御算用場」の記載あり(金沢城の北側)。「勘定所」の記載なし。・県立図書館のホームページから大型絵図・石川県史のバナー→町絵図一覧→2延宝金沢図(絵図をクリック)で閲覧可能。
【吉村屋について】 市制百周年記念で出された本の中に、橋場町にあった吉村屋、木倉屋、ト一亭などについて記されたものはないか。(吉村屋は「日本髪」(化粧品)店とのこと。)(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:33)
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金沢市が市制百周年の際に出した本に『金沢市制100周年記念事業報告書』(119344591)、『金沢 市制百周年を記念して』(11930345)がある。いずれにも吉村屋等は紹介されていない。『金沢老舗繁盛記』(119621969)は金沢老舗百年会が発行したもので、木倉屋が収録されているが、吉村屋とト一亭はない。『石川県下商工便覧』(118542593)には、「薬舗 吉村又三」、「ろうそく・びんつけ 吉村久兵衛」、「インキびんつけ 木倉谷長右衛門」が収録されている。金沢市制百周年に出されたものではないが、この資料を加工したものである可能性がある。『老舗百年』(11909605)は金沢商工会議所が創立百周年記念事業として刊行したもので、木倉やとト一亭が掲載されているが、吉村屋はなし。吉村屋、木倉屋について記された文献は以下の通り。<吉村屋> ...
『ちまき』芳賀文子/著(111402330)p.50によると、ヒモ用の植物として(1)イ(灯心草)、(2)スゲ、(3)稲藁および芯、(4)その他が挙げられている。『昔の金沢』氏家栄太郎/著(119564227)p.55「粽」、『稿本金沢市史 風俗編第1』(119564209)p.175「粽」ではいずれも「菅」を用いると記されている。『日本国語大辞典 第12巻』(第2版)(112311919)p.647に「みごなわ」(「みご」はのぎへんに皆)の語あり。使用例として伊藤永之介「鶯」が挙げられている。『日本の文学 79』(119737786)に伊藤永之介「鶯」が収録されている。p.424に「子供たちが家で綯ってくる実子縄」と記されている。
ダイヤグラムは、「金沢板橋間駅々里程表」を指す。以下の資料に掲載されている。原本は近世史料館(加越能文庫 特16.78-47)に所蔵あり。『中山道板橋宿と加賀藩下屋敷』(109112000)p.12『道が人をつなぐ-北国街道の400年-』(109153040)p.28『中山道 街道開設400年記念』(119776720)p.30『参勤交代道中記 加賀藩史料を読む』(118310820)p.143
【紫錦台の由来について】 むかし小立野台は紫錦台と言われたことがあると『金商70年史』に書いてあった。なぜ紫錦台と言われたのか由来を知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:33)
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『金商70年史』(119565672)p.106に「新校舎が建てられた小立野台地は、古くから「紫錦台」とも称されていたので、校友会々誌も「紫錦台」と名づけられていた」と書かれている。校友会誌『紫錦台』(しきんたい)は、石川県立図書館に昭和5年のものが所蔵されている。小立野公民館ホームページ「町会紹介」の中に、「紫錦会」という町会のページが見つかった。これによると、町会名の紫錦は小立野台の愛称で小立野飛梅町にあった旧金沢二中の校歌から採ったこと、命名されたのは初代町会長高瀬文三氏の任期、大正12年(1923)から昭和10年(1935)の間と推定されることが記されている。この文章の出典は園崎善一『小立野校下の歴史』(119740807)p.113である。【URL】http://www.spacelan.ne.jp/~kodatu-k/tiiki.html#sikinnkai『金沢二中錦丘高校校史』p.333に「石川 ...
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