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【キゴ山放牧場について】 キゴ山放牧場が開設された経緯について書かれた資料はないか。とくに馬が連れてこられた経緯と、その後の飼育状況(頭数)などが知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:32)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:32)
○キゴ山放牧場開設の経緯について『金沢市史 現代篇 上』p.386「11.市営放牧場」によると、その経緯は以下のとおり。昭和30年頃‐ 市は採草地や放牧場の設置を奨励助成していた。戸室新保町や菱池町などに6カ所、30ヘクタールを設置し相応の成績をおさめた。昭和35年 市畜産振興の拠点、山間地開発のきっかけにしようと、キゴ山のふもと小豆沢町地内に40ヘクタールの市営放牧場の開設をはかった。(昭和40年10月完成)一方、『金沢の百年 大正・昭和編』(市史年表)( 109089889)p.452によると、昭和38年8月23日に、キゴ山山ろくの金沢市放牧場(20ヘクタール)が完成、牛の放牧を開始した、とある。同日の北国新聞に、「キゴ山ろくの市営放牧場は追い込み舎の完成もなり、いよいよきょうから育成牛の放牧がはじまります。」と書かれている。 ...
【香林坊橋の変遷について】 近代以降の香林坊橋の変遷について、とくに香林坊橋が暗渠化されていく過程がわかる資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:32)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:32)
香林坊橋は、かつて鞍月用水に架けられていた橋で、現在は廃橋となっている(『金沢市史 現代編 続編』p.550)。香林坊橋の変遷は、香林坊地区の開発(道路拡張、市電開通・廃線)の影響を受けている。その年表は以下のとおり。・明治26年(1893)11月13日 架替中の香林坊橋が完工し、木橋より石橋になった。・大正8年(1919)7月13日 市内電車の全線が開通した。(香林坊を含む)・昭和3年(1928)4月4日 香林坊道路拡張のため、市は加州銀行の12坪3合余を買収することとした。・昭和33年(1958)7月1日 片町商店街近代化事業の端緒として、柳瀬たんす店、ねづやがん具店、三納室内装飾品店の共同ビルディングの建築が始まった。建築中、3店は香林坊の鞍月用水わきの空地に合同仮店を建てた。・昭和41年(1966)4月2日 片町・香林坊商店街の近代化工事完成祝賀 ...
【日本野鳥の会石川支部について】 (1) 日本野鳥の会石川支部の発足当初の会員数が知りたい。(2) 石川県で見られる野鳥の数(できるだけ最近のもの)が知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:32)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:32)
(1) 日本野鳥の会石川支部の会員数について『石川の野鳥 第4号』(1980年11月)(109040233)彙報欄に「今春石川支部発会式で高野、松田、木村先生らと36人の出席者が撮した記念写真」とあり、少なくとも39名程度の会員数であった。ただし、同3号(1980年6月)「就任のご挨拶」(石川支部長松田衛)に「石川支部が発足するに当たりまして趣旨の不徹底或はその他の理由はいろいろありましょうが約100名に余る同志との長いお付合いからお別れすることになりました」とある。もとの石川野鳥の会には百数十名の会員がいたものと推測される。(2) 石川県で見られる野鳥の数について『新版 石川の動植物』(平成11年3月)(119660134)では406種、『石川野鳥年鑑 2013』(2014年12月)(109207973)では453種を数える。個体数については統計がなく、『新版 石川の動植物』では ...
○中崎與四右衛門銅像について『金石町誌』(11801960)p.243「中崎與四右衛門翁銅像 金石町字味噌屋町に在り。大正十一年の建設なり。日和山燈台高地の裾にして附近に秋葉神社・忠魂碑・水族館(今廃館)・大潮湯・料亭等あり(後略)」とある。現在の金沢市金石西2丁目に該当する。同p.244に碑文の翻刻が掲載されている(『石川県産業功労碑集』(11913013)p.116にも掲載あり)。近世史料館所蔵「旧上金石町役場文書」に、中崎與四右衛門の葬儀及び銅像建設に関する書類が収録されている。○中崎與四右衛門墓について同碑文より、中崎與四右衛門は大正4年8月に没したことがわかった。『金沢の百年 大正・昭和編』(市史年表)( 109089889)によると、亡くなった日は大正4年8月5日である。大正4年8月6日付の北国新聞記事に、中崎與四右衛門の死亡広告及 ...
(1) 『陶器全集 巻上 九谷篇』(国立国会図書館デジタルコレクション)p.65「松山窯 嘉永の初め大聖寺藩は江沼郡松山村(今の勅使村字松山)の人、山本彦右衛門に命じて、松山村に陶窯を築かしめ、粟生屋源右衛門・松屋菊三郎等を聘して九谷村の旧地及び吸坂村・勅使村に原料を採り、主として藩の贈答用品を作らしめた。(中略)時人此窯を松山の御上窯と云つた。」(2) 『定本九谷』(119565420)p.302(文章は(1)と同じ)(3) 『藩政期の九谷諸窯展』(118570847)図版101「松山窯出土品」(4) 『加賀市史 通史 上巻』(119562966)p.718(文意は(1)、(2)とほぼ同じ)(5) 『九谷焼』(11916991)p.13(文意は(1)、(2)とほぼ同じ)(6) 『九谷焼330年』(11918033)p.33「藩政期主な窯の分布」(松山窯の位置)、p.55「主な窯の興亡と九谷焼の推移」(松山窯の活動期間)(7) 『「九谷を魅る」展』(1197864 ...
〇キリコの定義について『広辞苑』第6版(112852866)によると、キリコには「①四角な物の、かどかどを切り落した形。②切籠灯籠(きりこどうろう)の略。」の2つの意味がある。②については、さらに「枠を切籠の形に組み、四方の角に造花をつけ、紙または布を細く切って飾り垂らした灯籠。盂蘭盆会(うらぼんえ)などに用いる。」と定義されている。切籠灯籠という言葉自体は一般名詞であり、必ずしも金沢に限定されない。〇金沢の独自性について『加賀能登の年中行事』(118412893)P261に「キリコは金沢地方独特の献灯」であると記されている。『金沢市文化財紀要 280 野田山・加賀八家墓所調査報告書』(109165695)P137でも「お盆の切籠進上は金沢独特の慣行である」と記されている。ここでいう金沢独特とは、キリコに進上者の名前を書いて他 ...
〇亀坂・『金沢町絵図』p.282 地図上で、上石引町と小立野新町の間に「小名かめ坂」と記されている。・『城下町金沢の人々』(109168730)所収「安政頃金沢町絵図」では、小立野上石引町と小立野新町の間に「カメ坂」と記されている。・『金沢市文化財紀要 289 金沢市歴史のまちしるべ案内』(109185642)p.177「加賀藩初期、この付近は深い谷であったが、戸室石をはこぶため埋めて次第に坂の勾配をゆるくした。」の記述あり。地図上でも示している。・『小立野校下の歴史』(109068646)p.173 「小立野3丁目、旧小立野新町の通路(県道野田・上野町線)にある坂」「加賀藩初期、この付近は深い谷であったが、戸室石をはこぶため埋めて次第に坂の勾配をゆるくした。」と記述あり。上記4冊は、全て同じ箇所を示しているが、下記の2冊は、その脇の急 ...
情報の確実な現代から過去へ遡る形で文献を探索した。結果は以下の通り。『金沢の老舗』(118413003)、『老舗百年』(11909605)に「平木屋」なし。『リヴ FLASH UP 100人選』(119795959)p.54-56「平木屋旗店」によると、同店は分家で、本家は片町で同じ染物業をしているとのこと。インターネットで検索したところ、以下の2家が見つかった。・「染元 平木屋」・・・金沢市片町2丁目31-38(旧町名:上伝馬町5-6)、創業宝暦年間【URL】http://www.hirakiya.info/・「平木屋旗店」・・・金沢市菊川1-12-1(旧町名:川上新町2丁目38)【URL】http://hirakiyahataten.com/昭和38年の『金沢市詳細図』(118407249の当該番地にそれぞれ「平木染物店」が所在している。昭和5年度の『家屋ノ賃貸価格ニ関スル下調書』では、分家の「平木屋旗店」所在地(川上新町2丁目38)の家屋所有者は平木 ...
【纏の由来および金沢の纏と全国の纏の違いについて】 纏がいつ頃から使われ出したのか。纏の由来を知りたい。また、金沢の纏は金箔が貼られていて、他の地域と違うらしいがなぜか。纏の分布範囲も知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:31)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:31)
『加賀鳶と梯子登りのあゆみ』(119467500)によると〇加賀藩の火消の歴史・元禄8年(1695)には火消班があった。・享保2年(1717)幕命を好機とし、江戸屋敷防火体制を強化した。これが加賀鳶の始まりとされる。このとき、組ごとに1本纏があったことが記録されている。・明治2年(1869)消防制度の改革があり、江戸にいた加賀鳶が金沢に来たことで、加賀鳶の歴史が金沢に受け継がれたと考えられている。しかし、江戸末期金沢ではしご登りが神社に奉納された記録があり、定かではない。〇加賀藩纏について・纏の形は、銀色諌鼓の形。大纏は太鼓に剣、小纏は太鼓に扇。(巻頭にカラーの図あり)・纏は豊臣秀吉から拝領したとの伝承がある。・明治初期は同じ銀塗太鼓の形だが明治後半の消防組織等一覧(p46~47)では、現在の纏の形になっている ...
【『加賀藩史料』収載の幕臣について】 『加賀藩史料 第6編』p.996に名前の出てくる、橘宗仙院、丹羽正弥、松平石見の3名について調べたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:31)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:31)
〇橘宗仙院 橘元孝(もとたか)『寛政重修諸家譜 第20』(129089053)、p.363宝永6年10月23日家を継ぎ(700石)、寄合(医)となる。享保3年9月28日奥医に列し、12月18日法眼に叙す。19年9月15日御匙となり、12月18日法印に叙す。延享4年4月28日死去す。〇丹羽正弥『寛政重修諸家譜』に名前なし。〇松平石見 松平忠一(ただかず)『寛政重修諸家譜 第1』(129088860)p.151宝永2年7月12日遺跡(1,000石)を継ぎ、寄合に列す。正徳元年6月7日御使番となり、11日布衣を着することを許さる。享保2年2月15日仰せを承りて、山陰山陽の国々を巡視す。8年4月6日禁裏附にに移り、8月20日従五位下石見守に叙任す。元文4年7月11日西城の御留守居に進み、延享元年正月11日御旗奉行に移る。寛延2年6月26日務めを辞し、3年5月4日死す。享年78。
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