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かわら版は、江戸時代から明治にかけて出版された庶民向けの情報印刷物です。 「かわら版」という呼称は幕末になってからで、読売や摺物と呼ばれることが多かったようです。幕府の出版統制に反して、時事的な情報を即時に人々に提供したもので、製作者が記載されていない場合が多く、大火、外国船の来航、大地震などの記事があります。多色刷りのものも見られますが、一般的には粗末な木版の摺物のことを指します。 名称の由来は、半乾きの瓦に文字を刻したものが使われたからとする説のほか、瓦に文字を刻して摺れば文字の部分が掘り込まれてネガフィルムのようになるから瓦を使ってはいないとする説もあります。詳しくは参考資料をご参照ください。参考資料:『かわら版物語-江戸時代マスコミの歴史-』(小野秀雄著 ...
江戸時代を経て、今日までのこるはきものの中に、「雪駄」があります。雪駄も草履も区別のないもののように考えがちですが、正式には草履の裏底に革をはったかたちのものが雪駄です。雪の日、水気が湿り通らないように考え出されたといい、ゆえに「雪踏」とも書かれ、雪駄(という語)につながっています。雪の日の茶会で露地入りするのに千利休が創始したという説がありますが、これには異説もあります。詳しくは参考資料をご参照ください。参考資料:民俗民芸双書24『かぶりもの・きもの・はきもの』(宮本馨太郎著 岩崎美術社 1985年 3808/8/24), 参考資料:ものと人間の文化史8『はきもの』(潮田鉄雄著 法政大学出版局 1985年 3832/3/85), 参考資料:『雪踏をめぐる人びと』(畑中敏之著 かもがわ出版 1998年 3832/5/98), 参考資料: ...
記述がある資料は見つからなかった。調査を通じてわかった「航空図」「航空路誌」を紹介し、航空図書館を案内する。備考欄に追記あり。(2025/02/05)回答プロセス:雑誌『翼の王国』には路線図があるだけで、便名・時間等の記述はなし。その他、浦和所蔵航空関係資料および埼玉資料にあたったが、記述は見つからなかった。インターネット《Google》で検索した結果、日本航空機操縦士協会刊行の資料「航空図」に該当しそうなものがいくつかあったが、会員頒布らしい。図書館での所蔵は確認できなかった。県立文書館に調査依頼をする。該当する資料はなしという回答だった。県庁の交通安全課に問い合わせる。県は空路には関わりを持っておらず、資料についてもわからないとのこと。国土交通省航空局に問い合わせをする。質問 ...
蕎麦をのせる蒸籠の形にはなぜ四角いものと丸いものがあるのか?なぜ長方形のものと正方形のものがあるのか?(東京都江戸東京博物館 図書室)
from レファレンス協同データベース (2025/2/18 10:22:30)
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蒸籠。読みは「せいろ」、正しくは「せいろう」です。『蕎麦の事典』(新島繁編著・柴田書店・3838/159/99)によれば、蒸籠は「もりせいろ」と「ざるせいろ」に大別され、もりせいろは長方形、ざるせいろは角と丸があり、角は正方形とあります。『蕎麦辞典』(植原路郎著・東京堂出版・ 5963/10/96)には、原型は正方形(江戸時代に書かれた『守貞謾稿』の挿図などをみると確かに正方形)だったが、明治四十年代に入ってから、面積を大きくみせるためか、長方形のものが出はじめたとあります。ちなみに、円型せいろは明治時代からあったとあります。詳しくは参考資料をご参照ください。参考資料:『蕎麦の事典』(新島繁編著 柴田書店 1999年 3838/159/99), 参考資料:『蕎麦辞典』(植原路郎著 東京堂出版 1996年 5963/10/96), 参考資料: ...
家康の9男義直(尾張藩祖)は大阪城西丸生まれ、10男頼宣(紀伊藩祖)は伏見城生まれ、11男頼房(水戸藩祖)は伏見城生まれとあります。詳しくは参考資料をご参照ください。参考資料:『日本人名大事典』(平凡社), 参考資料:『国史大辞典』(吉川弘文館), 参考資料:『徳川御三家展』香川県歴史博物館編 香川県歴史博物館 2000年 M82/KA-6/12-S00, 参考資料:『歴史読本 第54巻第6号,840(2009.6) 徳川一族将軍家御三家御三卿実記』新人物往来社 2009年, 参考資料:『歴史読本 第43巻第4号,692(1998.4) 徳川御三家 尾張・紀伊・水戸家将軍家との闘争史』新人物往来社 1998年, 参考資料:『歴史読本 第31巻第8号(1986.5) 徳川御三家のすべて』新人物往来社 1986年, 参考資料:『徳川・松平一族の事典』工藤寛正/編 東京堂出版 2009年 2883/53/0009 p.262,284,301, 備考:※1 御 ...
回答プロセス2~6の内容を回答。回答プロセス:1.堀辰雄の生没年を確認■Goodleで検索・生没年は「1904年~1953年」2.R49 ブラウジング■『日本医療史事典』当館請求記号 R498/Nic・事項名索引に"結核”あり・1889年から2011年までの結核に関する医療史が掲載されている。40年代から50年代がピークとわかる。3.R351 統計ブラウジング■『日本長期統計総覧』5・第24章 保険医療 - 感染症 24-28 病院の種類別病院数(明治43年-平成16年)に結核療養所の数値あり。4.国史大辞典 5■『国史大辞典 5』 当館該当資料 R210/Kok/5・"けっかくよぼうかい"の項目に、結核が日本に広まり、令旨の基づき予防会が設立された経緯が簡単に述べられている。5.新聞データベース■聞蔵IIビジュアル For libraries・1879~1999縮刷版・キーワード「結核・施設」でヒットあり6 ...
宝暦・明和(1751-1771)のころには、江戸では、一串5文で、団子の数は5つであったといいますが、明和5年に4文銭が鋳造されると、その影響で一串4文、数は4つになったといいます。詳しくは参考資料をご参照ください。参考資料:『江戸物価事典』(展望社 1979年), 参考資料:『東京都公文書館だより 第8号』(東京都公文書館編 東京都公文書館 2006年), 参考資料:『三田村鳶魚 江戸生活事典』(青蛙房 1959年), 参考資料:『定本江戸商売図絵』(三谷一馬著 立風書房 1986年), (3843/79/86 p.113に4つ刺し団子の絵あり)備考:江戸東京博物館デジタルアーカイブス「東都名所 高輪二十六夜待遊興之図」(歌川広重画)に団子屋の屋台が描かれている。 https://www.edohakuarchives.jp/detail-4534.html (最終アクセス日:2025/2/18)
「江戸」はいつ頃から「江戸」と呼ばれるようになったのか。「江戸氏」とは関係があるのか。(東京都江戸東京博物館 図書室)
from レファレンス協同データベース (2025/2/18 10:09:43)
from レファレンス協同データベース (2025/2/18 10:09:43)
参考資料によると、現存する史料からは「江戸」と呼ばれ始めた正確な年代は不明ですが、武蔵平氏の一流秩父氏が12世紀前半に江戸地域に進出し、その地名から「江戸氏」を名乗ったと考えられるので、少なくともそれ以前にはすでに「江戸」という地名が存在したと思われます。詳しくは回答プロセスと参考資料をご参照ください。回答プロセス:【資料1】『国史大辞典』第2巻によると、「江戸」は『吾妻鏡』治承4(1180)年8月26日条(備考※1)に江戸太郎重長という武将の名として登場するのが初見。地名としての「江戸」が史料に登場するのは、【資料2】【資料3】の通り。【資料2】『東京都の不思議事典』上巻によると、弘長元(1262)年、江戸長重譲状「武蔵国豊嶋郡江戸郷之内前嶋村」(関興寺文書)(備考※2)、【資料3】『大田 ...
【資料1】『日本国語大辞典』は「『江所(えど)』説あるいは『江の門戸』説が有力である。」としながら、次の諸説を紹介しています。(1)江に臨む所の意から。(2)江の津の意。(3)豊島入江の水門の意。(4)戸は、港、泊の略語。(5)戸は戸口の義。(6)荏(えごま)の多く生えた地であったので、エド(荏土)と言った。また、もと荏原郡に属したか。荏原も荏の生いしげったさまの意。(7)アイヌ語で濁った沼の意。【資料2】『江戸東京歴史読本』によると次の諸説を紹介しています。(1)川の海に臨んだ江の戸(入り口)、あるいは入り江のある所などの意味で、江戸の「門戸」説。(2)土地柄や地勢に関連した古くからの呼称と考えられ、『古今要覧稿』には「江所(江に臨む所)」とあることから「江所」説。(3)江の湊説。(4) ...
参考資料によると、現在、東京都中央区に架かっている日本橋は、明治44(1911)年に架け替えられたものです。何代目かについては諸説ありますが、すべての架け替え記録が残っていないため正確な回数は不明です。詳しくは回答プロセスと参考資料をご参照ください。回答プロセス:『東京都江戸東京博物館調査報告書 第16集 』(【資料1】)は【資料2】~【資料4】を参考に架橋関連の年表をまとめており、「再架橋」「改架」と記述しているのは慶長8(1603)年から明治44年(1911)の間に16回。『江戸の橋』(【資料5】)によると、架け替えについて江戸時代の記録が残っているだけで12回としている。『復元・江戸の町』(【資料6】)によると、明治44(1911)年までに「20回程」、『東京の橋100選+100』(【資料7】)は「18回架け替えられ ...
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