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Insurers brace for losses of up to $20bn from California wildfires
from UK homepage (2025/1/10 0:43:52)
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JPMorgan analysts double estimates as blazes continue to rage
広報なりたで連載していたゆかりの人物で、「本多元俊」(長沼の医師)が掲載されていた。掲載されていた広報なりたの記事をコピーしたい。また、本多元俊について書かれている資料を探している。(成田市立図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:33)
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広報なりた平成13(2001)年9月1日号の「成田ゆかりの人物伝(14)【川辺音治郎】」の記事に、「音治郎が師と仰いだ長沼の本多玄俊医師、またその師の大原幽学の先祖株組合をたたえ、…」との記載があった。本多元俊の著書『我が家の歴史,翁の逸話』があり、提供した。また、大原幽学の弟子であることが判明したため、大原幽学関連の資料を提供した。『成田市域における大原幽学の研究』p.11-p.18「六 何時頃幽学は成田へ来たか」「七 長沼組学頭本多元俊」「八 長沼周辺の教化と門人たち」の項目に本多元俊についての記述がある。『成田市史,中世・近世編』「三 大原幽学と成田」p.821-p.824「成田での幽学」の項目に本多元俊の記述がある。また、『成田市史,近世編史料集 3』p.44-p.49「大原幽学」の項目に、「〔一八五〕は…長 ...
『家紋でたどるあなたの家系,続』p.312に十二曜の家紋の図柄とそれを使用した姓氏として、「寺西〔蜂須賀藩家臣成立書〕。」との記載がある。回答プロセス:家紋が掲載されている資料を1冊ずつあたり、探した。また、Googleの完全一致検索で、「家紋」AND「”十二曜”」と検索したところ、Googleブックスの検索結果で『家紋でたどるあなたの家系,続』の目次ページがヒットした。参考資料:『家紋でたどるあなたの家系,続』 千鹿野茂/編 続群書類従完成会 1998.11 288.6, 4-7971-0732-4
明治19年に東京師範学校の生徒が銚子まで歩いて長途遠足をしたと記録があり、これは日本で初めての修学旅行と言われている。『大日本教育会雑誌(30)』p.46-p.63「東京師範學校生徒長途遠足」(『東京茗渓会雑誌(39)』p.26-p.33「東京師範學校生徒長途遠足報告」にも同内様の記述あり。)には、その途中2月19日に、一部の生徒と先生が、現成田市の新妻、荒海、西大須賀にあったと思われる3つの小学校に立ち寄ったと記録があり、その所在地を調べている。明治19年当時の新妻小学校、荒海小学校、西大須賀小学校の所
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:33)
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西大須賀小学校については、『心,滑河小学校閉校記念誌』p.14「滑河小学校沿革」の項目に「明治8年1月24日 西大須賀昌福寺内に第10番小学西大須賀学校として設立」と記載がある。昌福寺は現在も西大須賀にあり、成田警察署滑川駐在所近くに学校跡地の石碑がある。荒海小学校については『成田の地名と歴史』p.68「大字の歩み 荒海」の項目に、「1882年、荒海小学校が設立され、1908年に久住尋常高等小学校の荒海分教場となった。」と記載があり、同ページ上部の地図に「荒海共同利用施設(久住尋常高等小学校荒海分教場跡)」と記載があり、現在の荒海共同利用施設に荒海小学校があったことがわかる。新妻小学校については、『成田市史,近代編史料集 2 教育1』p.164「中郷地区」の項目に「中郷尋常小学校沿革誌」があり、「明治二 ...
『外国人よろず相談,事例と回答120 改訂』p.18-p.21「通名と住民基本台帳カード」によれば、通称名(通名)について「実社会において、本名と同様に、あるいは本名以上に通用している名前です。」とあり、「外国人登録証は本名を登録しますが、通称名として長く日本名を名乗っており、それが日常用いられるものであることを確認できるときは行政運用上外国人登録証の氏名欄の横に括弧書きで併記する取扱いが行われていました。」と説明がある。回答プロセス:参考資料室の法律関係の棚を探した。参考資料:『外国人よろず相談,事例と回答120 改訂』 東京都外国人相談研究会‖著 日本加除出版 2013.3 329.9, 978-4-8178-4059-2
「農林業センサス,2015年第1巻12,千葉県統計書」 p.12(用語の解説)によれば、耕作放棄地とは「以前耕作していた土地で、過去1年以上作物を作付け(栽培)せず、この数年の間に再び作付け(栽培)する考えのない土地」とされている。同書のp.357-p.369の「耕作放棄地」の項目に、千葉県の市区町村別の耕作放棄地の面積が掲載されている。回答プロセス:「千葉県統計年鑑」には耕作放棄地についての統計は掲載されていなかった。そこで、農林業についての詳しい統計である「農林業センサス」の統計を調べた。参考資料:『農林業センサス 2015年第1巻12』 農林統計協会 2017.11 610.59, 978-4-541-04211-8
1969(昭和44)年まで「成田新映画劇場」と「成田映画劇場」の2館が隣接していたとのことだが、それぞれ現在のどの地点にあったのか、正確な場所が知りたい。(成田市立図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:32)
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『千葉県成田市動態図鑑,昭和42年度版』によれば、当該所在地は、成田新映画劇場が「成田市成田853番地」、成田映画劇場は「成田市成田857番地」と表記されている。現在この表記が変更され「成田市花崎町」となり、853番地及び857番地は枝番が付され、いくつかの土地に分筆されていることが確認できた。回答プロセス:両映画館は1969(昭和44)年3月末で営業を終了したとあるため、当館所蔵資料の成田市住宅地図で同年頃の地図を確認した。また最新年度の成田市住宅地図と比較し、現在の所在地を確認した。参考資料:『千葉県成田市動態図鑑,昭和42年度版』 新日本都市協会 1967 291.35, 参考資料:『ゼンリン住宅地図千葉県成田市,1,』 ゼンリン 2020 A 291.35, 978-4-432-49865-9
「平成27年国勢調査」で、その時点で成田市に住んでいる人が、5年前に住んでいた場所(5年前の常住地)の統計が示されている。5年前の常住地は、今住んでいる場所と同じ(現在地)および、それ以外の場所(6区分)で示されている。成田市の統計を見ると、調査時点で成田市の常住者は131,190人で、5年前の常住地は、現住所が89,663人、国内が28,442人(内訳は、成田市の現住所以外が11,652人、千葉県内他市町村が7,936人、他都道府県が8,854人)、国外が723人である。転入前の都道府県や市町村が特定できるような、詳しい統計は探すことができなかった。回答プロセス:成田市の統計書類を調べたが、質問にあるような統計は探せなかった。そこで、国が5年ごとに行っている国勢調査の項目を確認すると、各々の市町村に住んでいる人の5年前 ...
成田に埴生(ハニュウ)という地名があった。茂原にも同様に埴生という地名があるが、この二つの地名に関連があるか知りたい。(成田市立図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:32)
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二つの地名の関連についてはわからなかったが、以下の文献について確認した。 『姓氏家系大辞典,第3巻上』p.4821-p.4823「埴生」を見ると「和名抄、駿河国安倍郡に埴生郷を収め、反布と註す。次に上総国に埴生郡あり、和名抄・六郷に分つ、ハブ也。郡内に埴生郡を収む。又、埴生庄・起る。次に下総国にも埴生郡ありて、和名抄に波牟布と註し、後に埴主・興り、東鑑等に見ゆ。」との記載がある。 『日本古代地名事典』p.176「はぶ[埴生]」に、「『和名抄』下総国に「埴生郡」で見えるが、『万・四三九二』天平勝宝七年(七五五)に「埴生郡」で初見し、千葉県成田市の一帯をいう。「はにふ(埴生)の意で、土器の材料の埴土が多くあったことによる」」との記載がある。また『成田の地名と歴史,大字別地域の事典』p.359「埴生郡 ...
龍角寺は文献などによれば、国の重要文化財である薬師如来座像(白鳳仏)で有名なお寺である。『日本歴史地名体系,12千葉県の地名』p.360「龍角寺 現 栄町龍角寺」の項目があり「天竺山寂光院と号し、天台宗。本尊薬師如来。寺伝によると和銅ニ年(七〇九)竜女が現れ、金の薬師如来像を安置、龍閣寺と称したのに始まると伝える。」と記載がある。その建立者については、『龍のきた道,下総國龍角寺・龍腹寺・龍尾寺縁起集成』p.10-p.25「龍角寺縁起」に「−龍女化来志天建立当寺中金堂三十三間安置−」、p.28-p.36「龍角寺略縁起」に「下総国埴生郡天竺山龍角寺ハ人王四十三代元明天皇和銅二年己酉の春偶々天龍女化来して当寺を建立せり」とある。また栄町が作成した、龍角寺のパンフレット『龍角寺,天竺山寂光院(天台宗)』の「 ...
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