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1969(昭和44)年まで「成田新映画劇場」と「成田映画劇場」の2館が隣接していたとのことだが、それぞれ現在のどの地点にあったのか、正確な場所が知りたい。(成田市立図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:32)
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『千葉県成田市動態図鑑,昭和42年度版』によれば、当該所在地は、成田新映画劇場が「成田市成田853番地」、成田映画劇場は「成田市成田857番地」と表記されている。現在この表記が変更され「成田市花崎町」となり、853番地及び857番地は枝番が付され、いくつかの土地に分筆されていることが確認できた。回答プロセス:両映画館は1969(昭和44)年3月末で営業を終了したとあるため、当館所蔵資料の成田市住宅地図で同年頃の地図を確認した。また最新年度の成田市住宅地図と比較し、現在の所在地を確認した。参考資料:『千葉県成田市動態図鑑,昭和42年度版』 新日本都市協会 1967 291.35, 参考資料:『ゼンリン住宅地図千葉県成田市,1,』 ゼンリン 2020 A 291.35, 978-4-432-49865-9
「平成27年国勢調査」で、その時点で成田市に住んでいる人が、5年前に住んでいた場所(5年前の常住地)の統計が示されている。5年前の常住地は、今住んでいる場所と同じ(現在地)および、それ以外の場所(6区分)で示されている。成田市の統計を見ると、調査時点で成田市の常住者は131,190人で、5年前の常住地は、現住所が89,663人、国内が28,442人(内訳は、成田市の現住所以外が11,652人、千葉県内他市町村が7,936人、他都道府県が8,854人)、国外が723人である。転入前の都道府県や市町村が特定できるような、詳しい統計は探すことができなかった。回答プロセス:成田市の統計書類を調べたが、質問にあるような統計は探せなかった。そこで、国が5年ごとに行っている国勢調査の項目を確認すると、各々の市町村に住んでいる人の5年前 ...
成田に埴生(ハニュウ)という地名があった。茂原にも同様に埴生という地名があるが、この二つの地名に関連があるか知りたい。(成田市立図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:32)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:32)
二つの地名の関連についてはわからなかったが、以下の文献について確認した。 『姓氏家系大辞典,第3巻上』p.4821-p.4823「埴生」を見ると「和名抄、駿河国安倍郡に埴生郷を収め、反布と註す。次に上総国に埴生郡あり、和名抄・六郷に分つ、ハブ也。郡内に埴生郡を収む。又、埴生庄・起る。次に下総国にも埴生郡ありて、和名抄に波牟布と註し、後に埴主・興り、東鑑等に見ゆ。」との記載がある。 『日本古代地名事典』p.176「はぶ[埴生]」に、「『和名抄』下総国に「埴生郡」で見えるが、『万・四三九二』天平勝宝七年(七五五)に「埴生郡」で初見し、千葉県成田市の一帯をいう。「はにふ(埴生)の意で、土器の材料の埴土が多くあったことによる」」との記載がある。また『成田の地名と歴史,大字別地域の事典』p.359「埴生郡 ...
龍角寺は文献などによれば、国の重要文化財である薬師如来座像(白鳳仏)で有名なお寺である。『日本歴史地名体系,12千葉県の地名』p.360「龍角寺 現 栄町龍角寺」の項目があり「天竺山寂光院と号し、天台宗。本尊薬師如来。寺伝によると和銅ニ年(七〇九)竜女が現れ、金の薬師如来像を安置、龍閣寺と称したのに始まると伝える。」と記載がある。その建立者については、『龍のきた道,下総國龍角寺・龍腹寺・龍尾寺縁起集成』p.10-p.25「龍角寺縁起」に「−龍女化来志天建立当寺中金堂三十三間安置−」、p.28-p.36「龍角寺略縁起」に「下総国埴生郡天竺山龍角寺ハ人王四十三代元明天皇和銅二年己酉の春偶々天龍女化来して当寺を建立せり」とある。また栄町が作成した、龍角寺のパンフレット『龍角寺,天竺山寂光院(天台宗)』の「 ...
フランスの歌で「カルマニョール」という曲があるが、その歌詞を原文と日本語訳で知りたい。できれば、歌の背景についての解説があるとよい。(成田市立図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:31)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:31)
『世界軍歌全集 歌詞で読むナショナリズムとイデオロギーの時代』のp.24-p.25に、「カルマニョールの歌」として、原文と日本語訳が並記されている。民衆の中から生まれた流行歌であり、作者は不明。チュイルリー宮襲撃事件のあと歌われ始めたということが分かっている。パリの民衆は、この歌を口ずさみながら輪になって踊ったため、カルマニョール輪舞と呼ばれたとある。なお、歌詞は無数存在するとも記載されている。回答プロセス:インターネットで「カルマニョール」で検索すると、18世紀後半のフランス革命から歌われている革命歌であることが分かった。当館の蔵書検索で、全文=革命歌で検索すると、『世界軍歌全集 歌詞で読むナショナリズムとイデオロギーの時代』がヒットし、確認したところ「カルマニョールの歌 ...
1964(昭和39)年パラリンピック東京大会のポスターをデザインした、成田とも縁があるらしい「高橋春人」という人物の作品や略歴などが分かる資料があるか。(成田市立図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:31)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:31)
『ほろびの街 東京戦災記録スケッチ集』のp.109に、パラリンピック東京大会のポスターが、海外用と国内用の2種類(モノクロで掲載)収録されている。また、高橋氏が戦時中から昭和30年代までにデザインしたポスターや、戦中戦後の東京の様子をスケッチした作品なども、多数収録されている。巻末で、高橋氏の履歴が確認でき、旧:下総町(現:成田市)生まれとの記述がある。参考資料:『ほろびの街 東京戦災記録スケッチ集 』 高橋/春人‖著 PHPエディターズ・グループ 2019 213.606, 978-4-909417-36-7
『環境法判例百選(別冊ジュリスト171)』のp.92-p.93に、「成田新幹線事件ー新幹線工事実施計画の認可と抗告訴訟」(最高裁昭和53年12月8日判決)として、事実の概要、判旨のほか解説が掲載されている。『判例辞典』のp.836-p.838に、「成田新幹線訴訟」について、概要、判旨のほか、判例の意義と問題点についての解説があり、「大規模公共事業と地域住民の生活との間にしばしば生ずる法的紛争の一つ」であり、原告の訴えが斥けられた訴訟。「運輸大臣の日本鉄道建設公団に対する工事実施計画の認可処分が取り消し訴訟の対象にならないとする最初の判決」との記述がある。回答プロセス:データベース「D1ーLaw.com」の、法律判例文献情報検索で「成田新幹線訴訟」と入力すると、『環境法判例百選(別冊ジュリスト171)』に、判 ...
【ひがし茶屋街の越中八尾おわら流しについて】 ひがし茶屋街で越中八尾おわら流しが行われている背景を知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:24)
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質問者はネット記事で『「おわら風の盆」の踊りは若柳流の若柳吉三郎氏が振り付けたものであり、ひがし茶屋街の芸妓たちが稽古で振り付けを教えたことから「越中八尾おわら流し」を行っている』ことを知り、関連資料を希望されていた。北國新聞データベースを検索したところ、質問者が読まれたネット記事の出典と思われる以下の関連記事を確認した。『北国新聞縮刷版 No.401(平成11年8月号)』(118430630)p.988「「おわら再興」、洗練された響きで全国区へ」(1999年8月22日/朝刊26頁)『北国新聞縮刷版 No.455(平成16年2月号)』(118451612)p.227「八尾町のおわら流しが里帰り」(2004年2月6日/朝刊19頁)自館の図書検索(キーワード「おわら風の盆」「若柳吉三郎」等)により、以下の図書2冊で若柳吉三郎氏による振り付けの詳しい経緯を確認した。た ...
●藤岡作太郎の兄弟に関して記載のある資料『藤岡作太郎日記 明治四十一年』(109140972)p.99-136に人名索引が記載されている。その中でp.127に「藤岡幸二」の氏名があり、「作太郎の弟」とある。『藤岡作太郎日記 明治四十二年・明治四十三年』(109157880)巻末に人名索引の記載があり、その中でp.33に「藤岡幸二」がある。『藤岡東圃追憶録』(119563720)p.118-120に「惡筆の辯 藤岡幸二」の記載あり。●兄弟についての記載はないが、藤岡作太郎に関連する資料『石川近代文学全集 12』(11826150)p.185-221に藤岡東圃の著作が記載されている。また、p.332-339に「藤井紫影 「藤岡東圃」傳記」の記載あり。p.390-397には「評論・紀行の人々」と題し記載があり、その中でp.393-396に藤岡東圃について記載している。『こども石川県史 人物編』(119873330)p.170に「藤 ...
【金沢市の社会館について】 石川県の学童疎開で、金沢市が「社会館」という場所で疎開者の受け入れを行っていたことがわかった。社会館は現存しているか、また戦時中に社会館があった場所が現在のどこにあたるかが知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:34:24)
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質問者からは一例として石川県石川郡額村にあったとの情報提供があったことから、まず額村での学童疎開の場所が書かれた文献を調べた。1.石川県及び額村での学童疎開の受入れ先について当時の新聞記事等を確認したところ、「社会館」で受け入れたという記載は見つけられず、寺院での受入れが主のように見受けられる。・『学童疎開の記録 1』(111555900)p.141「表1 集団疎開先と疎開実施日」から、石川県では大阪市都島区の学童を昭和19年9月15-17日に受け入れたことがわかる。p.511 大阪府大阪市都島区の各学校の疎開先を一覧で確認することができる。なお額村は、桜宮校の疎開先として割り当てられている。・『学童疎開の記録 4』(111555938)p.321「新聞に見る学童疎開 昭和19年9月5日北国毎日新聞」記事内に各市町村ごとに受入れ先の記 ...
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