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【斎藤三九郎について】 斎藤弥九郎の弟、斎藤三九郎について書かれた資料(とくに明治以降の足跡が書かれたもの)が見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:38)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:38)
石川県関係人物文献検索により、『金沢市教育史稿』に記載があることがわかった。『金沢市教育史稿』(118290979)p.497また『加能郷土辞彙』(改訂増補)p.351にも経歴が記載されている。幕末以降については、横山隆章(加賀八家の一人、通称三左衛門)の家臣となったが、故あって禁錮となり、廃藩置県に至り罪を許されたとある。近世史料館所蔵の「先祖由緒并一類附帳」に斎藤三九郎の履歴及び親族関係が記載されている。明治3年当時の居宅は、横山元家中の住む銀杏町(現在の桜町・暁町)にあった。三九郎には「寅男」という倅がいたと書かれているが、その後の詳細については確認できなかった。『氷見市立博物館年報 第25号』(119975080)p.110-119「斎藤弥九郎の弟・三九郎について」小谷超/著に、上記由緒帳の翻刻が掲載されている。また ...
【金沢市の寄附に関する条例について】 金沢市の寄附に関する条例(金沢市の寄附採納ではなく、金沢市内における一般人の寄附行為に関するもの)が見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:37)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:37)
質問者からの情報提供によると、条例の名称は「金沢市金銭物品等の寄附募集に関する条例」といい、最高裁判例に載っているとのこと。D1-Law(法情報総合データベース)で検索したところ、最高裁判例昭和40年(あ)第2483号に同条例の名称が掲載されていた。金沢市の例規検索で同名の条例はヒットせず。「金沢市建築基準条例」及び「金沢市特別用途地区建築条例」の附則において、同条例を改正する条例(平成4年3月27日条例第4号)が引用されている。『金沢市公報 平成4年1月~12月』(119412065)p.28に「金銭物品等の寄附募集に関する条例を改正する条例」が掲載されており、元の条例が昭和26年条例第41号であることがわかった。『金沢市公報 昭和25年1月~26年12月』(129695652)p.315-318に「金銭物品等の寄附募集に関する条例」が掲載されていた。
【暉天女について】 法華経の教典にのっていた、「暉天女」についてくわしく知りたい。(読みは、カガヤキ か ヒカリ か不明)(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:37)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:37)
『仏説観普賢菩薩行法経 法華経』「顔色紅の如くにして、暉天女に過ぎたるあり。」の記載あり。(アマゾンの内容紹介より)【URL】http://www.amazon.co.jp/dp/B00E4WSVCO/『新国訳大蔵経 法華部2』(112959343)p.575「顔色紅輝にして、天女に過ぎたる有り。」との記載あり。書き下し文の解釈の違いと思われる。
『ふるさと人物伝』(118527452)p.382「長谷川準也」に、長谷川準也は1897年に私邸を兼六園に編入した際の疑惑で失脚したこと、長谷川邸跡は戦前期までさまざまな集会の会場となっていたこと、現在は梅林になっていることが記載されている。『金沢の百年 明治編』(市史年表) (119871415)p.10に「長谷川準也が広坂の上に自宅を構えて宅地内に各種の桑苗を植え桑園を研究、また宇治から茶実を取りよせて栽培した」とあるのが初見である(年月は不明)。この出典は『長谷川準也君』(11903081)「談叢」p.7「明治三年の頃広坂の高即ち今の兵器支廠の向の公園内俗に長谷川邸跡という処へ自宅を構へ」及びp.9「翁は後広坂の高の金澤神社の地続きに転居した」と思われる。『兼六園全史』p.20に「明治五年五月には、兼六園を期間を限定しないで広く開放 ...
・ヘルスセンター内のサニーランドの門『20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜』(改編版)(118388152)p.229『石川富山昭和あのとき アルバム編』(118564625)p.156 閉園時の写真・ヘルスセンター開業『北国新聞縮刷版 平成17年11月号』(118469770)p.261 平成17年11月6日の21面・いしかわ動物園『いしかわ動物園10年のあゆみ』(109107510)p.4・ヘルスセンターのDVD『昭和モダンの金沢 加賀能登』(118563833) の付録DVD「成長から成熟へ 夢の国 金沢ヘルスセンター 昭和40年」
【義経の松について】 大野川の「みなと橋」のたもとにあった義経の松について詳細が知りたい(どこかに移設された、もう枯れていてない等)。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:37)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:37)
Googleマップのストリートビューで現在の状況を確認したところ、たしかに「義経の松(2代目)」という看板がかかっているのが確認できたが、松自体は存在しなかった。「義経の松」に関する記載として、『石川県石川郡誌』(「石川県石川郡自治協会」昭和2年刊の復刻) p.556に「神木。大野橋の東詰に一株の黒松あり、樹齢三百年を経たりといふ。其の地は当町日吉神社の境外地なるに因り、之を神木と称す。伝説に、源義経奥州に潜行する時、此の樹下に憩ひたりといへども、付会なるべし。藩主前田氏粟崎地方に鷹狩りの時、此の処に少憩し、船に乗りて発向したるが故に、手づから此の樹を植ゑて標となせりともいふ。」と説明されている。大野町公民館に問い合わせたところ、義経の松はヤマト醤油の方が維持管理をしてきたとのこと ...
【おさよ伝説について】 金沢の遊女で五箇山に流されたといわれる、おさよ伝説のストーリーが書かれた資料を紹介してほしい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:37)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:37)
『日本の伝説 12 加賀・能登の伝説』(11826161)p.143-147「お小夜と麦屋節」・・・お小夜伝説を概説したもの(いちばんわかりやすい)。『地域と文化 第2号』(180419614)所収、田中喜男「歴史と伝説の間-能越飛の小夜伝説-」・・・各地に残るお小夜伝説を収集し、史実と対比したもの。『加能民俗研究 第35号』(119867421)所収、前田佐智子「能登・越中のお小夜-伝説の背景-」・・・お小夜伝説に関する先行研究をまとめたもの。『加越能文庫「元禄三年御預遊女調理一件」について』(119853613)・・・お小夜伝説のもとになった記録を紹介したもの。『輪島のお小夜』(119559924)、『野菊の露-能登麦屋節考-』(11025894)・・・お小夜伝説をもとにした小説。
【十村棟取について】 十村棟取はどのような役職か教えてほしい。天明5年(1785)に放生津の松屋武兵衛が十村棟取に任命された文書が残っている。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:36)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:36)
『加賀藩農政史考』(119564380)の「十村」の項目に「十村棟取」という役名は載っていない。類似の役名として、「諸郡御用棟取」(同p.65)、「組主附」(同p.95)がある。『金沢市文化財紀要 49 旧十村役亀田家調査報告書』(11915800)、『十村岡部家文書目録』(11930270)、『同 二集』(10911685)等の目録にも載っていない。十村の中の長については、『近世北陸農業史』(11918497)p.51に「無組御扶持人十村は、御扶持人のうち配下の村を有しない十村で、郡内十村首座として、十村の監督指導にあたり、また他郡御用にもあたるなど最高位の十村であった。」とある。『藩法集 6 金沢藩 続』(119565251)所収「河合録」p.777に「諸郡御用棟取 無組御扶持人之内役所切申付候義も有之、又ハ御加増願候刻相願被仰付候事も有之」とある。また、「無組御扶持人ハ其郡 ...
【渡辺太余文(園亭萎文)について】 加賀の園亭萎文(明治~大正)の本名、渡辺太余文の名前の読み方を教えてほしい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:36)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:36)
『石川百年史』(118290950)に名前が挙げられているが、読みなし。園亭萎文の略歴については、『郷史談叢』(11902881)第四輯p.63-65「園亭萎文と其著せる俳書」に詳しい。「姓は渡辺通称は太余文幼名を百々作といふ金沢の酒肆柄崎屋太平の第三子」とある。名前の読みは書かれていない。その他、『北陸の俳壇史』(119570091)p.161-162、『石川県俳壇明治百年誌』(118282577)p.53、『石川県史 現代篇2』(119871710)p.1116に略歴が掲載されているが、名前の読みなし。『金沢の百年 大正・昭和編』(市史年表)( 109089889)により、没年が大正3年5月28日と判明した。翌日の北國新聞に掲載された園亭萎文の訃報記事によると、太余文は「たよもん」と読む。
【前多兵作商店について】 昭和22年頃、高岡町下藪ノ内にあった前多平作商店(前田兵作とも、璽光尊事件の場所)の正確な場所が知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:36)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:36)
前多平作商店は繊維問屋であったというが、『金沢商工人名録 昭和3年版』(119503114)及び『石川県商工要覧 昭和27年度版』(119514029)に記載なし。石川新聞昭和22年1月9日の記事に「金沢市高岡町下藪ノ内三番地にいるじ光尊」、同14日の記事に「松ヶ枝町学校横の本部」とある。『金沢市住居表示新旧対照表 86-4』(11917852)によると、高岡町下藪ノ内三番地は現在の金沢市高岡町6-1~15、7-17~24(つる幸~松ヶ枝緑地辺り)に相当する。<追記>『松ヶ枝の広場』(118290727)p.84-85「武蔵町と松ヶ枝公民館」に「松ヶ枝公民館は其の当時個人の所有でしたが、この家へ爾光尊という女の方が当時の横綱・双葉山並に呉(原文ママ、碁)の名人呉清源を連れて乗込ました」と書かれている。
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