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【妙成寺の墓について】 妙成寺には寿福院(千代、前田利常の生母)ともう一人前田家の一族の墓があったと思うが、誰の墓だったか知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:36)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:36)
『金栄山妙成寺誌』(119325246)の表紙の絵図に「寿福院殿御墓」と「造妙院殿御墓」と記されている。「造妙院」は『加能郷土辞彙』(改訂増補)に記載なし。『金栄山妙成寺誌』図版p.30に「浩妙院墓」の写真が掲載されている。浩妙院は同p.78によると、「亀鶴姫、三代前田利常息女」のことである。『加能郷土辞彙』(改訂増補)p.832に略歴あり。
【北大路魯山人の書について】 北大路魯山人の書「万里白雲弧月円」(あるいは「万里無雲弧月円」)の出典が知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:35)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:35)
世田谷美術館ホームページ「ミュージアム コレクション」によると、「萬里白雲弧月円」の書が世田谷美術館の塩田コレクションに収録されていることがわかった。【URL】http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/collection_list.html?id=col00034『塩田コレクション 北大路魯山人』(小林文庫、180488872)p.101に「127 短冊『萬里云々』」、付録「塩田コレクション 北大路魯山人 新収蔵作品」p.15に「157 掛軸『萬里無雲弧月圓』」の写真が収録されている(「白」と「無」は字のくずし方が似ている)。出典は記されていない。『禅林句集』(112903007)p.147に「萬里無雲弧月圓」(万里雲無く弧月円なり)が収録されている。出典は(類聚17)と記されている。国立国会図書館デジタルコレクション『禅林類聚 17』によると、「萬里無雲弧月圓」は禅僧、丹霞淳(虚堂智愚)の七 ...
【専売公社工場の解体時期について】 玉川こども図書館にある時計台が移動された時期、工場が解体された時期を知りたい。昭和47年と50年代二つの説があるようだ。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:35)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:35)
『北陸専売事業60年の歩み』(日本専売公社金沢地方局)(11913574)・昭和47年10月2日 新金沢工場開業・ 〃 9月29日 旧金沢地方局解散式実施・旧工場跡は玉川図書館と県立玉川公園になり、旧工場の赤レンガの一部が図書館に利用保存された『金沢市立図書館六十年誌』(金沢市立図書館)(119465579)・昭和50年12月市議会において、専売公社跡地を図書館にする計画があるが、県と専売公社との間で土地譲受の交渉が遅れており、県から譲渡を受ける市は結論を出せない・昭和51年11月頃 新図書館建設計画 整備基本方針策定・昭和52年10月13日 新図書館起工式以上の事から、47年10月以降52年10月までに解体されたことが判った。『金沢の百年 昭和続編』(市史年表) (119320651)でこの期間の出来事を調査昭和48年8月30日 「玉川町の旧専売公社金沢工場の外側取り ...
ジュネーブ条約は以下の4つの条約からなる。(『ジュネーブ条約一覧表』、129342607)第一条約:戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約第二条約:海上にある軍隊の傷者、病者及び難船者の状態の改善に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約第三条約:捕虜の待遇に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約第四条約:戦時における文民の保護に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約上記条文は『国際条約集 2015年版』(113510309)に収録されている。また、防衛省のホームページ(ホーム > 所管法令等 > 関係条約等 > 防衛関係条約等)等でも閲覧できる。旧のジュネーブ条約(赤十字条約)は国立国会図書館デジタルコレクションの『条約彙纂 第2巻 第1部』等 ...
『石動半七の生涯』(119563918)『壁面の美を求めて』(129742565)『石川県商工要覧』(119514038)「商工名鑑」p.1に記載あり。
『金沢市史 現代篇 下』(119562680)p.788-「明治期における劇場」、p.870-「大正・昭和時代の劇場」は、いずれも映画専門館と寄席が除かれている。『金沢大学教育学部紀要 第11号 人文・社会科学編』(11922208)所収、「四世嵐冠十郎および明治の加賀歌舞伎-劇場と地方諸優について-」藤田福夫/著 p.15に記された明治、大正期の寄席の一覧は以下のとおり。明治期:夷座(後、宮比座。香林坊大神宮境内、明治中期) いろは座(下新町) 新富座(後一九席となる。同席は下新町より尾張町に移る。最も後まで存した。) 小福座(香林坊) 福栄座(香林坊) 松栄座(石屋小路) 宝座(大工町) 住吉座(住吉市場の中) 小石座(中石引町) 松ヶ枝館(松ヶ枝町) 堂井席(御小人町) 春日座(森山町) 弥生座(横安江町)大正期:八千代座(新道) 神明館(野町)『石川郷土史学会々誌 ...
【山川庄太郎について】 竪町で酒造業を営み、雉の香炉を寄贈したことで有名な山川庄太郎家の経歴(とくに2代目)が知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:34)
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山川庄太郎の祖父は米出屋甚兵衛といい、天保期頃の人物ではないかとのこと。2代目は幕末-明治期の人物と思われるが、『金沢市史 資料編11 近代1』所収の「商工業名簿」(明治28年)に名前なし。石川県関係人物文献検索で「山川甚兵衛」の名前あり。出典として「山川家の沿革」『石川県指定有形文化財旧山川家住宅移築修理工事報告書』(109111335)p.5-6が挙げられていた。家系図及び詳細な経歴等については『山川美術財団記録誌』(119470372)を参照のこと。初代:山川甚兵衛 文化13年(1816)-明治10年(1877)、割出屋から独立、米出屋を称す。竪町で米仲買商と質屋を営む。二代:山川甚平 嘉永5年(1852)?-明治23年(1890)、冨沢家次男、酒造業を営む。三代:山川庄太郎 明治9年(1876)-昭和36年(1861)、酒造業の傍ら米穀取引所や加州銀行などの重役、金沢市 ...
【石川県金沢病院富山分院跡の出土遺物について】 石川県金沢病院富山分院跡から「病院」銘の入った徳利が出土された。このことに関する石川県側の資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:34)
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金沢病院は、金沢医学館の後身、金沢大学医学部の前身の組織に当たる。沿革については、『石川県金沢病院沿革』(11916191)、『金沢大学医学部百年史』(119566384)、『金沢大学医学部創立百五十周年記念誌』(109164025)が詳しい。金沢病院の初期の備品については、『金沢大学医学部百年史』p.156-158に医療器械等の記載があるが、徳利は見当たらない。送付いただいた徳利の写真を見ると、素焼に緑色の釉薬がかけられ、陶磁器ではないと判断される。石川・富山近辺で類似のものして、越中瀬戸、越中丸山がある(『世界陶磁全集 9』(11822593)p.196-197)。『金沢大学医学部創立百五十周年記念誌』p.87により、金沢大学医学部キャンパスの発掘調査が行われていることがわかった。『金沢大学文化財学研究 2』(119957046)p.34-38に「金沢病院賄」などと記さ ...
石川県関係人物文献検索に「北村宗甫」なし。ただし、「宗甫」で検索すると、「北村三郎右衛門宗甫」がヒットし、通称が「三郎右衛門」であることがわかった。『石川県史 第3編』(118412721)p.355『加能郷土辞彙』(初版)p.233「北村三郎右衛門」『白山万句』(11917019)p.306-307『国文学 解釈と鑑賞 第66巻11号』(170227522)「連歌作者層の拡大」鶴崎 裕雄/著 p.104「北村宗甫は、加賀藩の「先祖由緒并一類附帳」(金沢市立図書館加越能文庫)によると、前田利家の尾張時代から仕え、越前府中で百石の知行を得、以後、千二十石まで加増され、前田利長の代で養子に家督を譲り、出家して宗甫を名乗ったとある」
【参勤交代の金沢城下のルートについて】 参勤交代の行列が金沢城下のどの道を通過したかが書かれた資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:34)
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『参勤交代道中記』(118310786)p.48「初入国の時は、城下金沢に一里半も遠い森下から行列を建てて入場した」『加賀百万石と中山道の旅』(118484767)p.80「金沢城を発駕するときは、約2キロほど馬上の人となり、城下と郡部の境になる「松門」という所から駕籠に召された」「松門」については、『加能郷土辞彙』(初版)p.781に「藩政の時金沢上口・下口の町端路傍に松樹一株があつて、之を松門と称した。上口の松門は泉新町国造神社の向かう町家の前に植ゑ、下口の松門は春日町と大樋町の境にあつた。これは或時代に於ける町地と郡地との境界で、藩侯の参勤する時、これより内は供廻の行列を立て、外では行粧を崩す例であつた」と説明されている。『太梁公日記 第1』(109068870)p.67に「町端より尾坂門迄ミセ一ハイ、アキ所もなく大勢罷出候 ...
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