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笠木山は載っていたが、登山道入口までの資料は見つからなかった。次の資料を参考にした。・『「自然歩道」利用ガイド』 広島県 1983年広島県のホームページの中国自然歩道のコース図を紹介した。回答プロセス:山野や自然歩道の資料をあたる。道路地図や広島県のホームページで自然歩道に関する資料をあたる。参考資料:『「自然歩道」利用ガイド』. 広島県, 1983年., (当館請求記号 H290ヒ, 当館資料番号 202014338)備考:次の資料を調査したが回答につながらなかった。『馬乗山』 中学校理科研究グループ 1990年『ちゅうごく山歩き』vol.3. 松島宏/著 中国新聞社 2015年『やまの』 福山市文化財協会 1990年『広島県の山』改訂版 瀬尾幸雄/著(ほか) 山と渓谷社 2008年『広島県道路地図』4版 昭文社 2020年『コースガイド100』 啓文社 2018年『コースガ ...
次の資料を紹介した。・『歴史民俗資料館資料目録』9 神辺町教育委員会 1991年 p.26・『黄山詩鈔』 重政黄山/著 重政黄山頌徳碑建設委員会 1958年 碑文・『広島県町村会五十年史』 広島県村会 1971年 p.1206・『備後神辺』 楠務/著 中国観光地誌社 1968年 p.45重政雄造は、1873年(明治6年)神辺川南に生まれた。1919年(大正8年)川南村村長となり、1929年(昭和4年)川南村、川北村が合併し神辺町政を施く際には初代神辺町長となった。1940年(昭和15年)には3代目神辺町長となった。1944年(昭和19年)公務を引退、1959年(昭和34年)に87歳で没した。菅茶山研究の第一人者でもあり、漢学、漢詩、書道に長じ、黄山と号した。回答プロセス:戦前神辺について記述のある資料からあたった。号の黄山から検索した。参考資料:『歴史民俗資料館資料目録 ...
事前調査の資料によると、1595年(文禄4年)から1957年(慶長2年)の間に時安の吉岡家、山野の世良家に滞在したとある。時安への滞在については、次の資料に記述があった。・『物語 水野勝成』 福山市文化財協会 1967年 p.41 「神石郡久留美村にたどり、吉岡太郎左衛門正弘の邸に足を止め、2・3年をすごした」と記述あり。・『戦国武将 水野勝成』 森本繫/著 佐々木印刷出版部 1978年 p.94 ・『放浪武者 水野勝成』 森本繫/著 洋泉社 2015年 p.136回答プロセス:水野勝成についての資料をあたる。事前調査事項:『備後備中における水野勝成-時安・山野・成羽-』 山野民俗資料保存会/著 福山城築城400年記念事業実行委員会 2022年 を見て調査に来館。参考資料:『物語 水野勝成』.福山市文化財協会,1967年.p.41, (当館請求記号 K289ミ, 当館資料番号 2048 ...
次の資料に記述あり。・ 『びんごばぁ』備後福山地方の方言辞典 高橋孝一/著 キングパーツ株式会社 2018年 p. 112 「にょ」にアクセントがある場合は、寝ましょうという意味。 「ょぉ」にアクセントがある場合は、寝ようという意味。 (勧誘のときアクセントが前、意思表示のときアクセントは後)次の資料には「ニヨウ」で記述あり。・『広島の方言とその語源』 田淵実夫/著 鼎出版 1977年 p. 147 うめく、うなるという意味。 安芸郡を中心に県南地方で使われている方言である。 古語でニヨブというのがあり、この語源が変化してニヨウとなった。ニヨブは「寝呼ぶ」のなまりだといわれ ている。回答プロセス:広島や福山の方言集などをあたる。参考資料:高橋孝一. 『びんごばぁ』備後福山地方の方言辞典. キングパーツ株式会社, 2018年. ...
次の資料に記載があった。・『まぼろしの瀬戸内海』 村上正名/著 新人物往来社 1972年 p.185-188・『鞆今昔物語』 表精/著 表精 1974年 p.251-252・『日本の島事典』上巻新版 三交社 2022年 p.694・『沼名前神社由来記』 安倍書店 1985年 p.93・『走島の記録』 福山市立走島中学校 1979年 p130-131 「走島の記録」走島の歴史年表に、初代太郎兵衛義光から歴代の人物と出来事の記載がある。福山市図書館デジタルアーカイブより・『福山市広報』第364号 福山市 1977年(昭和52年)・『福山市広報』第414号 福山市 1979年(昭和54年) 「福山市広報」第414号によると、村上太郎兵衛は鯛網の創始者で、因島から鞆に来ていた時、走島への移住を願い出た。1623年庄屋として渡った太郎兵衛は、走島の開発に乗りだし、香川県方面で行われていた漁法を手本に沖しばり網に ...
「水野勝成公寿碑」は1646年(慶安元年)京都大徳寺瑞源院に建立、1958年(昭和33年)に福山に移された。詳細は郷土-927の事例にあり。徳永市長の碑文は「水野勝成公寿碑移転記念碑々文」として、移転時に設置されたものである。・『水野勝成公略伝』 水野勝成公報徳会 1958年 p.28に掲載あり。・『水野勝成公寿碑』 児島書店 2023年 p.7に掲載あり。回答プロセス:水野勝成についての資料をあたる。参考資料:『水野勝成公略伝』.水野水野勝成公報徳会,1958年.p.28, (当館請求記号 H289ミ, 当館資料番号 203834122)参考資料:『水野勝成公寿碑』. 児島書店, 2023年.p.7, (当館請求記号 K215ミ, 当館資料番号 206832842)備考:次の資料を調査したが回答にはつながらなかった。・『福山開祖・水野勝成』 平井隆夫/著 新人物往来社 1992年・『広島県史』近世資料編 ...
次の資料に記載があった。・『鞆今昔物語』 表精/著 表精 1974年 p.251~252 ・『漁村社会の史的展開』中巻 益田庄三/著 行路社 1986年 p. 407~410・『歴史紀行鞆の浦』 森本繁/著 芦田川文庫 1986年 p. 107~112・『広島県文化百選』2 中国新聞社 1984年 p. 28~29・『鞆の大恩人 森下博』 福山市鞆の浦歴史民俗資料館 2014年 p. 20~21・『走島の記録』 福山市立走島中学校 1979年 p. 25~26パンフレット・『潮待ちの館資料館だより』 第21号 福山市鞆の浦歴史民俗資料館 1998年 p. 6~7・『潮待ちの館資料館だより』 第41号 福山市鞆の浦歴史民俗資料館 2008年 p. 4~5福山市図書館デジタルアーカイブより・『福山市広報』 第364号 1977年(昭和52年)4月10日 p. 3・『福山市広報』 第414号 1979年(昭和54年)4月25日 p. 1 ・『福山市政だより』 第68号 1957年(昭和32年)4 ...
松永にある天保島(天保山)がかつて塩田だったのか、塩田でなかった場合何に使われていたかが知りたい。また天保島が埋立地かどうかが知りたい(福山市中央図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/10/3 14:08:34)
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次のとおり回答した。成り立ちについて ・『ふくやま歴史散歩』 福山市市役所市長公室秘書広報課 2011年 p. 63 「松永の入川② 歴史をみつめ大きく変化」 「文化元年(1804年)から、塩釜の燃料に順次石炭を使い始めると、入川は石炭運搬船が行き交うようになりまし た。燃えかすの石炭がら捨て場は、そのたい積によって天保年間(1830~1844年)に独立した島となり、天保山と 呼ばれました。」 ※福山市図書館デジタルアーカイブに掲載の『ふくやま歴史散歩 西部エリア2』からも閲覧可能。 ・『松永塩業史・文化史の研究』 石井亮吉/著 日本専売公社 1973年 p. 254 「天保二年には(中略)また、天保山と言う無人島が、その頃に出来た。それは、石炭がらの捨て場であり、 満潮の時には海面に数尺頭をのぞかしていた。塩田を干拓しよう ...
「朽助のいる谷間」を執筆したころの井伏鱒二の写真が見たい。また舞台となっている四川ダム(大谷池)の写真も見たい(福山市中央図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/10/3 14:07:08)
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「朽助のいる谷間」は1929年(昭和4年)に雑誌『創作月刊』にて発表、1930年(昭和5年)に新潮社から出版されているため、次の資料の写真を紹介した。・『井伏鱒二』(新潮日本文学アルバム) 新潮社 1994年 p. 40-45 p.40 1928年(昭和3年)、荻窪駅構内の井伏 p.41 1926年(昭和元年)ごろ、荻窪の自宅の裏にて画家の鈴木信太郎と井伏 p.43 1927年(昭和2年)、新居にて井伏と節代夫人 1930年(昭和5年)、自宅の裏で井伏と節代夫人 p.44 大谷池の写真・『井伏鱒二の世界』(アサヒグラフ別冊) 朝日新聞社 1992年 p. 20-21、75 p.20 1927年(昭和2年)、新居を建てるために土地を探して中央線阿佐ヶ谷駅から荻窪まで歩いた際の井伏 p.21 1928年(昭和3年)、荻窪駅構内の井伏 p.21 1929年(昭和4年)、荻窪の自宅裏にて井伏 p.75 大谷池の写真(カラー)・『井伏文 ...
次の資料を紹介した。・『山南村誌』 村田露月/著 山南村誌刊行会 1957年 p. 154,155・『沼隈郡誌』 名著出版 1972年. p. 273 備後表製織の機数の表に「浮藺」、「浮藺座」が確認できた。・『広島県史』近世1(通史3) 広島県 1981年 p.594,595・『福山市史』中巻 国書刊行会 1983年 p. 217 表機の数として記述があったが、表機の詳細については見当たらなかった。国立国会図書館デジタルコレクションより・10コマ 『通商月報(150)』 府立大阪商品陳列所 1908年8月 書誌ID:000000015361 「米国太平洋沿岸に於ける花筵業」に「浮藺」の語句があり、記述から模様など加工を施したものかと 推測される。回答プロセス:福山藩の名産であった備後表の関係資料にあたる。詳細不明のため、生産地であった『山南村誌』、『沼隈郡誌』等をあたる。参考資料 ...
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