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【長氏屋敷図について】 『写真図説金沢の500年』p.58に掲載されている「3万3000石長氏屋敷」という図版の出典が知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:41)
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『稿本金沢市史 市街編第2』(119564183)p.410-411間に「国老長氏の邸宅」というタイトルで同図版が掲載されている。『金沢市文化財紀要 298 石川県金沢市長家上屋敷跡調査報告書』(109212679)表紙にも同図版が掲載されている。これはp.32「第5章 長家上屋敷関連文書・絵図の記録保存」の第8表「長家上屋敷関連文書・絵図の記録保存絵図一覧」No.9「長氏邸絵図」(四井芦雪写)を指すと思われ、穴水町歴史民俗資料館が保管している。『長家史料目録』(11900889)p.116にも「長氏邸絵図」(四井芦雪写)と記されている。
【米丸村、西蚊爪村の先祖調査について】 明治初期に金沢の米丸村に住んでいた中岸家、西蚊爪村に住んでいた門谷家を調査している。江戸時代の米丸村、西蚊爪村の居住者が分かる史料や、村の様子が分かる地誌などの資料はないか。また、中岸家は足軽であったとのことなので、藩士の名簿類があれば教えてほしい。金沢の苗字に関する資料も探している。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:41)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:41)
(1) 中岸家について利用者から提供された情報は以下のとおり。a.中岸家は加賀藩の足軽であった。b.明治初期の戸籍謄本によると「米丸村字中4-62番地」が本籍地で、中岸源右エ門、中岸徳三郎という人物が先祖である。c.昭和に入り、中岸金男という人物が千日町に転居して中岸鉄工所という会社を経営している。a.藩士(足軽)の名簿『加賀藩組分侍帳』、『石川県史 第2編』、『加賀藩士人別帳』は閲覧済みとのこと。『加越能文庫解説目録 上巻』所収の「先祖由緒并一類附帳」に中岸姓なし。b.本籍地『角川日本地名大辞典 17 石川県』p.955「米丸村」によると、「米丸村大字中」は現在の金沢市中村町に相当する。p.650「中村町」に「もとは米丸村大字中」とある。『金沢市住居表示新旧対照表 5』(119117853)p.1356によると、旧の中村町4丁目62 ...
『加賀藩史料 編外備考』p.78「礼(ミチ」「慰(ヤス)」『加能郷土辞彙』(改訂増補)p.838「礼(ミチ)・初め睦・度。安政元年11月朔日金沢に生まる。母は久徳氏。文久2年7月会津侯松平容保に婚約したが、明治4年約を解き、6年2月21日華族榊原政敬に嫁した。32年12月2日没、享年46」「慰(ヤス)・初め斐。元治元年2月8日金沢に生まる。母は久徳氏。明治13年11月11日有栖川宮威仁親王妃となる」『加賀前田家の母と姫』皆森 礼子/著(109107136) p.250「礼姫は初め睦、度。文久2年(1861)会津藩主松平容保と婚約、容保は京都守護職となり、幕末の勤皇と幕府の争いの中に巻き込まれ、そのなかに姫は捨て置かれ、明治4年(1871)にやっと婚約が解消された。同6年2月子爵榊原政敬に嫁ぐ」、p.252「慰姫は井波の瑞泉寺へ預けられ、後、富山新湊の豪商、宮林彦九郎 ...
【時計師について】 江戸時代の石川県の旧藩における藩政日記や日録と云った藩の記録、分限帳、諸職人の記録などから、職人としての時計師の存在やその事績について、教えてほしい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:40)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:40)
〇藩の記録、分限帳『加賀藩御細工所の研究 1』(119617509)に諸記録、分限帳の翻刻が収録されている。底本及びその他の関連史料については、近世史料館ホームページに掲載されている『加越能文庫解説目録』を参照のこと。【URL】https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/archive.htm〇諸職人の記録金工の御用職人であった水野源六家の史料が『金沢金工師水野源六家史料』(109072587)として翻刻・紹介されているが、時計に関する記述は見つけられなかった。〇職人としての時計師の存在やその事績『からくり師大野弁吉とその時代』(118492482)本康 宏史/著 p.18-22「時刻制度(時鐘法)の改正」に、遠藤高璟らによる時刻改正の沿革がまとめられている。その中に「正時版」という時計を制作した「金沢竪町住 時計師與右衛門」「御時計師治助」の名がみえ ...
【金沢城への出仕方法について】 武士が仕事のため金沢城に出仕(登城)する際、馬で行ったのか、徒歩で行ったのか。どこまで馬で入れたのか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:40)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:40)
〇登城方法についてまず一般的な方法を調べるため、レファレンス協同データベースで同様の事例がないか検索したところ、以下のものが見つかった。・大名の江戸城登城はどんな様子だったか 。(江戸東京博物館)【URL】http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000024880 ・江戸城への大名登城のルートについて知りたい。(近畿大学中央図書館)【URL】http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000088914 上記に挙げられていた参考文献『図説江戸城その歴史としくみ』(112968010)p.8に「登城の際、馬や乗り物から下りるところが下馬所で、城内で輿や駕籠に乗る資格のない者はここから徒歩になり、連れて入れる従者の数も制限された」と記されている。同図版「『徳川盛世録』に描かれた登城風景」には、徒歩・駕籠・馬で登城する武士や、その従 ...
【珠洲の十村について】 「能登国十村等由緒」、「安政四年御改作所書上御扶持人十村等由緒」という資料が見たい。珠洲郡飯田村の十村、北村彦太郎家について調べたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:40)
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「能登国十村等由緒」、「安政四年御改作所書上御扶持人十村等由緒」は、いずれも加越能文庫に収録されている。『加越能文庫解説目録 下巻』p.320に解説あり。『加越能近世史研究必携』p.131「十村一覧」に「北村彦太郎」の名が散見される(文政~天保頃の人物)。『加賀藩農政史考』(119564380)p.63「文政七年申七月現在十村氏名」に「三崎組主付北村彦太郎」「若山組当分主付北村彦太郎」と記されている。『珠洲市史 第6巻』p.175「珠洲郡十村組変遷表」に「飯田村三郎右衛門」(寛政9年)、「三崎〔組〕飯田村清三郎」(文政4年)、「直〔組〕飯田村 喜三右衛門」の名がみえる。北村彦太郎との関係は不明である。
【梅鉢清水について】 梅鉢清水の古い写真が載っている資料はないか。(梅鉢清水の傍にあった松の写真が見たい。)(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:40)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:40)
『石川県の地名』p.396によると、梅鉢清水は現在の金沢市大和町にあった清水で、明治4年(1871)に「梅鉢清水町」が正式町名となった。『加能郷土辞彙』(初版)p.83及び『亀の尾の記』p.50-51にも概要が説明されている。『金沢町絵図』p.470に梅鉢清水の絵地図が掲載されている。『金沢市詳細図 明治38年』に「梅鉢清水」の町名と「金沢機関区 梅鉢揚水所」の記載があるが、泉の形状は記されていない。『ながどへい』(11918264)p.6及び『文化と歴史と夢のある街』(109071964)p.89に梅鉢清水の傍に建てられた給水塔(地上水タンク)の写真が掲載されている。『北國新聞縮刷版 平成9年8月号』(119885911)p.1040、平成9年8月23日朝刊22面に「「梅鉢清水」の横額市民芸術村に帰る」という記事が掲載されている。額の揮毫者は画人の小松砂丘である。ダイワボウ ...
○寺町『ふるさと写真館』(118505956)p.45「松月寺の大桜」(明治30年頃、大正6年頃、大正13年頃)、p.124-125「野町広小路界隈」(金沢市野田寺町5丁目(現在のつば甚前付近)から眺めた野町広小路、金沢市広小路から寺町を望む)『金沢のいまむかし 写真と地図でみる』(118498145)p.20-21「寺町台地より市街地中心方向のまちの姿」(昭和8年、望楼付きの木造三階建ての建物)『写真集明治大正昭和金沢』(109152230)p.15「寺町の松月寺大桜付近」(大正期、大正末-昭和初期)○飛梅町『ふるさと写真館』p.56-57「金沢第二中学校」(明治頃)『北陸鉄道の歩み』(119561898)p.30「市内電車開通前の石引町」(大正6年)、「同市内電車開通後のもの」『石川百年』(109204668)p.13「大正初期の金沢市出羽町」『写真集 明治大正昭和 金沢』p.8-9「石引町」(市電開通前・後)○石引町『 ...
・『金沢市史 通史編3 近代』p518~519「大正6年(1917)、金沢初のカフェーブラジルが、やはり香林坊に開店している。(中略)純喫茶店は昭和に入って定着した。片町のミドリヤ、カナリヤ、尾張町の石黒ファーマシーなどが古く、6年に香林坊交差点の明治製菓(明菓)が開店」・『金沢の百年 大正・昭和編』(市史年表)( 109089889)p53「大正8年(1919)11.3 石浦町にカフェー・ブラジルが開店した。金沢最初のカフェー」・『20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜』(改編版)(118388152)p133香林坊交差点の写真解説に「金沢におけるカフェーの草分けのブラジル(1919年〈大正8〉開店)」・『金沢商工人名録 昭和3年版』(119503114)p40~41カフエ・サンライズ 大正12年創業カフエー・ブラジル 大正8年創業カフエ・パリー 大正13年創業カフェエー・ミカド 昭和2年創業 ...
【狂言の野村家について】 野村萬斎の先祖が金沢出身と聞いたことがあるが、そのことについて詳しく書かれた文献はないか。江戸時代には金沢のどの辺りに住んでいたのか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:39)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:39)
『かなざわ偉人物語 5』(119870338)p148-『能楽史話』(129417074)p396-397『演劇百科大事典 第4巻』(11825266)p407-408『能・狂言事典』(113108828)p441『能楽大事典』(113192053)p703-『六世野村万蔵 狂言の道』(112202825)p167「萬斎聞書」の章に「私は加賀は金沢、桶町の産であります。」と記述あり。『かなざわ偉人物語 5』p150「明治十六年(一八八三)、五世野村万造(六世野村万蔵の父)は二十一歳の時、金沢の桶町(今の尾張町)から、(中略)上京した。」と記述あり。『角川日本地名大辞典 17』(118552562)p207桶町(おけちょう)は、現在の彦三町1・2丁目、尾張町2丁目『金沢町名帳』p316「新町」の項に「御家中日用才許・狂言方役者・記録方并居町組合頭 野村万蔵」の名前がみえる。野村万蔵の居住地は『金沢町絵図』p226に記載されている。それによると、現在の尾張町2 ...
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