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広島に原爆が投下された8月6日の午前8時15分は、広島県庁の勤務時間内だったのか。昭和20年当時の始業時刻が知りたい。(広島県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/5 16:21:20)
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次の資料に関連の記述が見付かりました。『広島原爆戦災誌 第3巻 第二編各説 第二章広島市内主要官公庁・事業所の被爆状況』広島市役所/編集、広島市役所、1971【H26.1/H73/3ア】 p.20-70 広島県庁 p.28 「(略)常に全庁員の三分の一が防衛要員として日夜勤務していたが、八月五日の夜は二回の空襲警報発令により、ほとんどの庁員が出勤していた。六日朝、警報解除になってからも、郡部から通勤していた職員は、そのまま平常勤務につき、また一般職員も午前八時に出勤し、(略)」『広島県庁処務細則 昭和10年1月19日訓秘第8号』広島県/編、1935【H31/H73-31】 p.55-56 官廳執務時間(大正十一年七月四日閣令第六號) p.56 「官廳ノ執務時間ハ休日及休暇日ヲ除キ左ノ通トス(略)七月二十一日ヨリ八月三十一日迄 午前八時ヨリ午十二時迄」 ...
1 備後の刀鍛冶、正家(三原)と助国(国分寺)について2 国分寺(福山市神辺町下御領)に関連する野間・能間という言葉について(広島県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/5 16:21:20)
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1 備後の刀鍛冶の正家(三原)と助国(国分寺)について<正家、助国>『広島県史 中世』広島県/編、広島県、1984【H21/H73-3/3ア】 p.759-764 刀鍛冶とその作風 p.760-763 三原鍛冶 p.760 「正和ごろの三原正家を祖とし、(略)南北朝期までを古三原といい、正家(略)などの名前が知られ、(略)」 p.763 「備後鍛冶で三原物とならぶのが芦田郡物である。国分寺物ともいう。鎌倉末期、備後国分寺に助国がおり、古三原と共通する作風を示したといわれる。」『芸備史』下尾善太/著、歴史図書社、1980(「列伝体芸備史」(下尾善太 1916年刊)の改題復刻)【H28/Sh54aア】 p.114-119 刀匠 p.117 助國 p.118 正家『広島県文化財ニュース 第31号~第60号』広島県文化財協会/編、1966~1974【H70/H735/31-60】 42号(1969.9) p.15-16 広島県の刀匠の系列 大田千太郎/著 ...
昭和40年代に鷹匠町(現在の広島市中区十日市町)にあった「広島アリーナ」について次の5点が知りたい。1 正式名称2 竣工年月と竣工時の所在地の表記3 同じ場所の現在の表記4 途中で名称が変わった場合にはその時期と変更後の名称5 いつ解体され、跡地には何ができたのか(広島県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/5 16:21:20)
from レファレンス協同データベース (2024/3/5 16:21:20)
1 正式名称 関連資料を調査しましたが、「正式名称」と明記されている資料は見当たりませんでした。 参考までに、主な表記を御紹介します。 この他、2~5の御質問で紹介する資料に記載されている名称も御確認ください。 「広島県史 年表(別編1)」広島県/編集、広島県、1984【H21/H73-3/27ア】 p.728-733 1954(昭和29)〔甲午〕 p.732 「社会・文化 10-8 アイス・スケート場広島アリーナ,アイス・ショー団を招き開場披露。」 「広島スポーツ100年」金桝晴海/著、中国新聞社、1979【H78/Ka53ア】 p.225-226 スケートの国体初参加 p.225 「[昭和]二十九年には鷹匠町に広島アリーナが開場、(略)」 「広島スポーツ史」広島県体育協会、1984【H78/ケタイ84】 p.492-498 スケート アイスホッケー p.493 「昭和29年 10月、広島市鷹匠町にヒロシマアリーナがオ ...
次の資料に関連する記載がありました。『日本の民謡 西日本編』長田暁二、千藤幸蔵/編著、社会思想社、1998【B767.5/98オ/2】 p.313-315 田原坂 p.315 「(略)この唄にある二十歳の美少年三宅伝八郎(略)」『日本民謡辞典』仲井幸二郎/[ほか]編、東京堂出版、1976【R388.9/N34】 p.216-217 田原坂 たばるざか p.216 「(略)この唄にうたわれている二十歳の美少年三宅伝八郎である。」『日本民謡事典 3 関西・中国・四国・九州』竹内勉/編著、朝倉書店、2018【R388.9/118タ/3 p.684-686 田原坂 p.685 「⑥薩摩軍北部方面軍総大将村田新八の子とする説や、田原坂で薩摩軍が敗れたことを急報した人吉藩士三宅伝八郎とする説がある。薩摩軍の若い人、でいいであろう。」『日本民謡事典』長田暁二/編著、千藤幸蔵/編著、全音楽譜出版社、2012【R767.5/112オ ...
広島県の風習であると思われる「大工見舞い」について知りたい。また、普請の際の「御蔵米」について書かれた資料を知りたい。(広島県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/5 16:21:19)
from レファレンス協同データベース (2024/3/5 16:21:19)
事前調査事項以外に、「大工見舞い」について書かれた資料は見当たりませんでした。普請の際の「御蔵米」に関する資料は次のとおりです。参考資料1 『蒲刈町誌 民俗編』蒲刈町誌編集委員会、蒲刈町教育委員会/編集、蒲刈町、1995【H21.33/カマカ95/3ア】 p.151-164 普請 p154-155 お祝 p.155 写真「御蔵米と縄」が掲載されています。 p.155 「(略) 今頃は「御蔵米何俵 誰々」と板へ書いてよく見える所へうち付けて置く。」 その他にも、「御蔵米」が散見されます。参考資料2 『下蒲刈町史 民俗編』下蒲刈町史編纂委員会、呉市史編さん委員会/編集、呉市役所、2005【H21.33/シモカ104/2ア】 p.94-95 普請 p.94 柱立て 「お祝いは地蔵では御蔵米を付けた。(略)下島でも昔は御蔵米を贈っていたが今頃は米俵をみることはなく、(略)」次の資料には普請 ...
村上則宗について記述がある資料は次のとおりです。参考資料1 『沼隈郡誌』広島県沼隈郡役所/編纂、復刻、名著出版、1972【H291.53/N99bア】 p.911-936 人物 p.914-917 村上太才治 「走島代々の庄屋を村上太才治といふ、(略)其先は淸和源氏頼淸流村上にて、川中島合戦に有名なる村上信濃守義淸より出づと稱し、義淸の感狀を持傳ふ、然れ共地方の奮記には常石城村上志摩守則宗男太郎兵衛走島に移住すと記す、而して則宗はもと田島に居りしものにて其先は能島村上か又は因島村上かなるべし。」参考資料2 『福山志料 上巻』菅茶山/著、芸備郷土誌刊行会、1980【H21.52/Ka43a/1】(復刻原本:明治43年 福山志料発行事務所刊) 福山志料卷之八 人物 p.15-16 村上景廣(略)則宗(略) p.16 「(略)又村上志摩則宗外常石ニアリ(略)」参考資料3 ...
関連する資料は次のとおりです。『広島県人名事典 芸備先哲伝』玉井源作/著、歴史図書社、1976【H28/Ta77aア】 p.499-500 三谷宗鎭 p.500 「六世は義一といひ、永く京都府廳に奉職せしが、晩年廣島に歸り、亦茶事をなせり、かく代々茶道を以て世に知らる、されば廣島の地、今猶此の三谷流の茶道をなす人多し。(茶人系傳)」『藝備偉人傳 上巻』[坂本箕山/著]、[出版者不明]、[1907]【H28/Sa32-2】 p.103-110 廣島に於ける茶道千家流の由來 p.109 「三谷義一は(略)六世の孫にして長く京都府廳に奉職せりと雖も茶事は常に懐に忘れず」『元凱十著』小鷹狩元凱/著、弘洲雨屋、1930【H08.1/Ko91】 廣島蒙求次編 p.27 茶事の権威(其七七) 「三谷義一は南翠と號す、南川宗鎮第六世の孫なり、(略)南翠は永く明治の一小官吏たりしが、晩年に至り私に ...
『広島県立図書館五十年史』広島県立図書館/編、広島県立図書館、2002【H09/ケトシ102ア】 資料編 p.2-3 移動図書館車みのり号の歴史 みのり号1、2、3、5号車(4号車は存在しない)の建設・更新・停止時期、後続車であるトゥモロウ号の巡回開始時期が記載されています。 p.33-37 広島県立図書館50年の歩み略年表 p.33 「[年 月 日]昭和29.10.12 [事項]移動図書館車みのり号命名式,11月16日から巡回開始(略)」 p.36 「[年 月 日]平成7.3 [事項]移動図書館廃止」「沿革」(広島県立図書館ホームページ)https://www2.hplibra.pref.hiroshima.jp/pid94/pid317 [最終確認日:令和6年2月15日] 「昭和29年10月 移動図書館活動開始(平成7年3月廃止)県立図書館車「みのり号」11月16日より運行開始(平成11年10月廃止)」 「平成11年10月 新図書館車「トゥモロ ...
尾道出身の画家、楠瓊州(くすのきけいしゅう)の記念碑建立委員会があることを知った。記念碑が現存しているなら場所を知りたい。(広島県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/5 16:18:29)
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記念碑の場所について記載のある資料は見当たりませんでした。なお、次の資料に関連の記載があります。『日本経済新聞縮刷版 昭和56年10月号』日本経済新聞社、[1981]【R071/N77-2/56-10】 昭和56年10月29日(木曜日) 24面 下條恭兵「わき出る楠瓊州ファン 没後20余年、見直された清貧の文人画家」 「折しも今年は、瓊州の二十七回忌に当たる。そこでこのほど、瓊州を愛する者が集まって「楠瓊州記念碑建立委員会」なるものをつくった。来る三十三回忌までに、適当な土地を選んで記念碑を建立し、生前は世に認められなかった優れた文人画家を顕彰しようというのである。」この他、次の資料を確認しましたが、楠瓊州の記念碑に関する記述は見当たりませんでした。『20世紀日本人名事典 [1]』日外アソシエーツ株式会社/編集、日外ア ...
岐阜城落城について、永禄7(1564)年落城説と、永禄10(1567)年落城説、それぞれ根拠になる資料は何か?(岐阜市立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/5 15:19:07)
from レファレンス協同データベース (2024/3/5 15:19:07)
【永禄7年説】(従来の通説)▼『信長記』、▼『総(惣)見記』、▼『織田家譜』(該当資料不詳。『寛政重修諸家譜』、『系図纂要』には織田家の記載はない。)▼『豊鑑(とよかがみ)』、▼『美濃諸旧記』→『美濃国諸旧記』か。▼『土岐累代記』、▼『堂洞軍記』、▼『美濃明細記』、▼『美濃盛衰録』、▼『岐陽故事』、▼『新撰美濃誌』、▼『道家祖看記』、▼『続群書類従 第二十九輯下』「永禄以来大事記」、▼『立政寺大年譜』、▼『村かがみ(村鑑)』、▼『梶田文書』(永禄9年10月20日 篠田新左衛門宛)、▼『南方播磨守由緒』、▼『横山文書』、▼『常在寺文書』(永禄7年9月15日「常在寺領寄進状」)【永禄10年説】(大正4年 土岐琴川氏の発表した自説)▽『信長公記』(首巻「明る年」、巻の一「去年」)、 ...
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