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道内で公営住宅が始まったきっかけを知りたい。道、市町村を問わず、いくつか事例が分かる資料がほしい。(夕張市などの産炭地では、炭鉱住宅を自治体が買い上げて公営住宅とするようなことが考えられるがどうか)(北海道立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/27 11:36:23)
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『新北海道史』や、道内主要市及び、質問者が推察していた夕張市の市史(札幌市、旭川市、函館市、小樽市)、並びに、北海道の住宅史に関する資料に当たり、関連する記述が見られたものを紹介した。現在、法律での区分上の「公営住宅」は、昭和26年7月に公布された公営住宅法に基づき整備されたものを指すと思われる。この法律は、終戦後の引き揚げや復員で深刻化した住宅不足に対応するために制定されたものとのこと。(『新北海道史』(回答資料1))ただ、戦前から住宅不足は大きな問題として捉えられており、公営住宅法公布以前から自治体による住宅提供は行われていたようである。例えば大正期、区政時代の札幌区、函館区、旭川区、小樽市では、区・市営住宅の建築、提供が行われていた旨の記述が各市史に見られる ...
『京浜在住三河人名鑑』(大正10年)P104に「深見坦郎」の項あり。“君は碧海軍矢作の人にして明治十六年を以て産る”とあり。国立国会図書館デジタルコレクションで、ログインなしで閲覧することができる。回答プロセス:①人名事典を探す→『美術家人名事典 古今・日本の物故画家3500人』(日外アソシエーツ 2009年)→記載なし②国立国会図書館サーチで検索する。著書に『能楽具装精華』(桧書店 1933年)があることがわかる。③Web NDL Authoritiesで「深見坦郎」を検索。生年はわからなかった。④国立国会図書館デジタルコレクションで「深見坦郎」を検索。検索結果から『京浜在住三河人名鑑』を見つける。事前調査事項:・深見担郎は日本画家である・『美術家索引 日本・東洋編』(日外アソシエーツ 1991年)は確認済。参考資料:日 ...
札幌の市史及び、手稲町史を調査。 →名簿に当たるものは見つからず。『手稲町誌 上巻』(回答資料1)に上手稲町、下手稲町、山口村及び各字の成り立ちが書かれており、その中で人名及びどこの地域から入植したなどが書かれている。p.115にある「上手稲移住者の住居の図」は活字化したものが『新札幌市史 第2巻 通史』(回答資料2)p.113「手稲村入植図」として載っている。『手稲町誌』(回答資料3)p.30~31に参考資料として仙台藩片倉邦憲旧臣の中で手稲村に移住した人の氏名が載っている。回答プロセス:(参考資料) 1 北海道への移住 山口県∥編集 山口県 2010.3 334.5/HO 2 徳島県人の北海道移住 徳島県立文書館∥編 徳島県立文書館 1999.2 334.5/TO 3 山口開基百年史 手稲山口開基百年記念実行委員会∥編 手稲山口開基百年記念実行委員会 1 ...
年中行事(分類:386)の資料から、クリスマスに関する資料を調査。以下の3点に北海道でのクリスマスの普及についての記述あり。・『北海道の年中行事』(回答資料1)p.207~208明治期はキリスト教系の学校も設立され、クリスマスはこうした学校行事などを通してしだいに広まっていった。一般の家々では、昭和20年代から取り入れられた新しい行事。クリスマスが現在のように盛んになったのは、昭和30年代から40年代にかけて。・『北海道子ども歳時記』(回答資料2)p.55~58札幌のクリスマスと題して、以下の事が書かれている。昔から外国の人たちがたくさんいた札幌では、明治時代からクリスマスが行われていたよう。キリスト教信者を中心に行われていたクリスマスも大正時代になると、大きなお店やデパートなどにクリスマス ...
以下について知りたい。1 (札幌市北区)屯田にある屯田兵の忠魂碑(ちゅうこんひ)について書かれた資料。2 その寄贈者である大迫尚敏(おおさこ・なおはる)について書かれた資料。(北海道立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/27 11:31:03)
from レファレンス協同データベース (2024/12/27 11:31:03)
1 札幌市内の忠魂碑について調査『さっぽろ文庫 45 札幌の碑』(回答資料1)には屯田町にある忠魂碑の紹介が載っているが、大迫尚敏についての記述はなし。「大迫尚敏 忠魂碑」でGoogle検索すると、札幌市中央図書館が公開している「新札幌市史デジタルアーカイブ」 がヒットし、『新札幌市史』第3巻「第7篇 近代都市札幌の形成」に「3 忠魂碑・記念碑」という章があることがわかる。この資料によると、大迫尚敏の揮毫による忠魂碑の除幕式が大正4年9月に月寒干城台公園であったことがわかる。改めて『さっぽろ文庫 45 札幌の碑』の豊平区(月寒)の項を確認すると、月寒公園内に月寒「忠魂碑」があり、碑文にも「忠魂碑 陸軍大将子爵大迫尚敏書」と記されていることがわかる。日露戦争で没した旧豊平町出身兵士のための忠魂碑 ...
年代から、釧路の写真集から調査。昭和40年代で該当するものは1点。『ふるさと釧路』(回答資料1)p.93「春採湖畔貯炭所付近(昭和40年代)」他、年代の近いものを紹介。同じ資料よりp.39「春採湖(昭和27年)」p.167「旧釧路鉱業所周辺(昭和25年頃)」p.224「春採公園(昭和39年)」『くしろ写真帳』(回答資料2)p.146~147「釧路臨港鉄道春採駅とその周辺」(1955年撮影)回答プロセス:(参考資料) 1 目で見る釧路・根室の100年 高嶋 弘志∥監修 郷土出版社 2003.7 212/ME 2 釧路・根室の昭和 いき出版 2019.11 212/KU 3 写真集明治大正昭和釧路 鳥居 良四郎∥編 国書刊行会 2021.5 212.6/SH 4 目で見る釧路の歴史 釧路市審議室市史編さん事務局∥編 釧路市 1992.8 212.6/KU 5 写真集明治大正昭和釧路 鳥居 良四郎∥編 国書刊行会 1985 212.6/TO(使用ツール)国会デジタ ...
北海道の書道史を調べているが、明治31年7月27日付「北海道毎日新聞」2面に「石橋二洲が来札」との記事があり、そこに、札幌の「東京庵」で「文墨会」という書画会が開催される、とある。ついては、「東京庵」という会場は何処にあるか、「文墨会」というのが会員制のようだが他にどんな活動をしていたのか知りたい。(北海道立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/27 11:28:39)
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東京庵については「南二条西四丁目」にあった割烹と判明。「文墨会」については不明。『札幌の歴史 53号』(回答資料1)に掲載されている「札幌書道前史-書画会から近代書道へ」(橋場 ゆみこ p.44~p.56)に、札幌書画会の変遷について記述あり。表1「明治期に行われた主な書画会および書画展覧会」があり、明治31年7月の文墨会も名前が記載されている。備考欄には「谷七太郎等地元名士の発起、石橋二洲の揮毫」とある。「名望家による書画展覧会」「同好の士が所蔵する品を持ち寄る書画会」についても説明があり、札幌書画会などは創設年や開催頻度について記述があるが、「文墨会」については記述なし。なお、『札幌の歴史』は新札幌市史編さんに伴う研究成果の発表や『新札幌市史』のPR等を目的として創刊された雑誌。そ ...
消失前(木造)の松前城天守の実測図が載っている資料について知りたい。●その質問の出典や情報源、調査済み事項など大岡實建築研究所のホームページに「文部省に居た真田君という人の実測の図面がありました」やその実測図が完成はしていないとの記載がある。また、同ページに再建時(コンクリート)時の設計図面はある。国宝・重要文化財(建造物)実測図集には載っていなかった。(北海道立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/27 11:26:31)
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文化財(分類:709.2)の松前城(福山城)の資料を調査。『史跡福山城保存管理計画書 平成7年度発掘調査概要報告』(回答資料1)のp.21~22に文部省国宝保存修理課真田末太郎技師についての記述あり。・昭和21年11月来町して天守閣の原寸採録と、修理個所の調査を行った・昭和22年文部省国宝保存修理課長大岡実博士が来町現況を調査し・昭和24年5月に工事事務所を設置、文部省より真田末太郎技師が技術指導をすることになり・福山城焼失後、昭和24年6月末修理に着工。工事は文部省真田末太郎技師が監督『重要文化財福山城(松前城)本丸御門保存修理工事報告書』(回答資料2)にも同様の記述あり。(p.18)『松前町史 通説編 第2巻』(回答資料3)第11章第2節1 史跡福山城保存管理計画で同様の記述あり。(p.1615)調査済みの「大岡實 ...
以下について知りたい。1 札幌の時計台に関してまとまった資料(北海道の辞典、報告書など)2 戦前の北海道の建物の写真集(写真が掲載されている資料)(北海道立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/27 11:24:28)
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1 時計台関連資料について時計台の正式名称は「旧札幌農学校演武場」である。(参考:時計台公式サイト「知る」のページhttp://sapporoshi-tokeidai.jp/know/walking.php)当館の蔵書検索でも、「時計台」のほか「旧札幌農学校演武場」でも検索するとさらに資料を見つけることができる。時計台について1冊にまとまった資料としては『さっぽろ文庫 6 時計台』(回答資料1)、『時計台今昔写真帳』(回答資料14)、『時計台建立80周年記念誌』(回答資料13)、『時計台ものがたり』(回答資料15)等、報告書では『重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)保存修理工事報告書』(回答資料12)がある。現在の北海道大学の演武場であった建物のため、北海道大学に多くの資料が保管されている。原資料については北海道大学の北方資料データベースで詳し ...
さっぽろ文庫53『札幌と書』p.277や『新札幌市史』機関誌53号の『札幌の歴史』(平成19年8月)の「札幌書道前史」p.51に、「書家日下部鳴鶴が来札、比田井天来が随行」という記述がある。この記述の根拠として山形屋の宿帳「後楽幀」に掲載があるようだが、「後楽幀」の所蔵先を知りたい。●その質問の出典や情報源、調査済み事項など書家日下部鳴鶴の来札は、井原録之助『鳴鶴先生叢話』や明治32年8月の「函館毎日新聞」や「北海道毎日新聞」に掲載されていて調べたが「鳴鶴に比田井天来が随行」との記載はなかった。(北
from レファレンス協同データベース (2024/12/27 11:22:14)
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●「後楽幀」について当館所蔵資料では、所在を確認できず。札幌市公文書館、並びに札幌市図書館で「山形屋」や「山形屋旅館」をキーワードに所蔵検索を行うと、山形屋旅館に関する資料を複数所蔵していることが確認できるため、紹介する。その他、山形屋について書かれた資料を紹介(回答資料1~3)●比田井天来の随行について『比田井天来』「比田井天来年譜 附小琴」(回答資料5)に、「明治三十二年(二十八才) 日下部鳴鶴に随つて北海道を巡遊する」とあり。ほぼ同じ文が、「比田井天来年譜」(回答資料6)や、『比田井天来伝』「比田井天来年譜」(回答資料4)にも掲載されている。加えて、当館作成の目録「北海道地方新聞所在目録」を紹介し、「函館毎日新聞」や「北海道毎日新聞」以外の新聞の検索も勧める。回答 ...
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