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『港区の文化財 第3集』p.97に、昭和28年7月20日の日本開国百年記念祭挙行の時、東京都民から米国ロードアイランド州ニューポート市に対し、石灯籠1基を贈った答礼として、親善のしるしに東京都に贈られたもの、とあり。除幕は1960年(昭和35年)5月20日。ニューポート市は、1853年および1854年に日本の開港のため米国代表として江戸湾を訪れたペルリ提督の出生地であり、また当時日本訪問の出港地であった。(2019年3月更新)回答プロセス:芝公園について詳しい『港区の文化財 第3集』を確認した。参考資料:港区の文化財第3集港区教育委員会社会教育課/編港区, (p.97)
光輪閣については、支配人であった川添浩史の伝記『キャンティ物語』に詳しい。p.67によると、1946年、川添浩史は高松宮邸を転用した迎賓館「光輪閣」の支配人、及び高松宮の国際関係特別秘書官に任じられた。p.69によると、「光輪閣」という名称は高松宮の幼名「光宮(てるみや)」と、場所が高輪にあることからつけられた。貿易庁(後に通産省に吸収)の管轄下にあり、GHQの高官や海外からの使節を迎えるという名目であったが、実質の目的は終戦後、窮迫した皇族の家計や財産を守る、ということにあった。 『港区史 上巻』p.152によると、芝高輪西台町(現在の高輪1-14)にあった。熊本藩中屋敷であった場所で、明治になって皇族が住むようになり高輪御殿と呼ばれた。後に東宮御所となったが、関東大震災で消失した。 1927年( ...
『汐留・品川・櫻木町駅百年史』p.164に、初代から27代までの駅長名が掲載されている。初代駅長は高井尚三。開業当時の様子は『日本鉄道創設史話』に詳しい。『明治鉄道錦絵』や『古写真にみる日本の鉄道』にも、当時の錦絵や写真などが多数掲載されている。制服については『日本国有鉄道百年写真史』p.58に詳しい図がある。(2019年3月更新)参考資料:汐留・品川・桜木町駅百年史東京南鉄道管理局汐留駅品川駅桜木町駅, (p.164)参考資料:日本鉄道創設史話石井 満/著法政大学出版局, 参考資料:明治鉄道錦絵天坊 裕彦/編集交通協力会, 参考資料:古写真にみる日本の鉄道三宅 俊彦/[編]著新人物往来社, 参考資料:日本国有鉄道百年写真史日本国有鉄道/[編]日本国有鉄道, (p.58)
『没後100年 勝海舟展』p.124-127の年譜によると、勝海舟の赤坂の住居は3箇所あった。①弘化3年(1846年) 本所から赤坂田町に転居②安政6年(1859) 氷川町へ転居 『港区の文化財 第5集』p.37に「氷川町盛徳寺の東隣」とある。『写された港区 四』p.134に「元氷川坂下の東南角(現赤坂6-10-39)」とある。『赤坂繪圖 萬延二年(一八六一年)』に、「勝麟太郎」(盛徳寺、氷川明神の隣り)とある。③明治5年(1872) 静岡より帰京、赤坂氷川に居す『港区の文化財 第5集』p.37に赤坂6丁目6-14とある。「勝安芳邸跡碑」の写真と碑文もある。『写された港区 四』p.138に写真がある。『港区近代沿革図集 赤坂・青山』p.77、明治9年の地図に「勝安房」とある。(2019年7月更新)参考資料:没後100年 勝海舟展東京都江戸東京博物館東京都, (p.124 ...
所蔵している住宅地図で最も古いものは、1957年(昭和32年)のもの(南部のみ)。その次に古いのが1959年(昭和34年)のもので、南部北部ともに所蔵がある。その他にも、戦前の港区(芝区・麻布区・赤坂区)を知る地図として、火災保険特殊地図なども所蔵している。(2019年3月更新)参考資料:東京都全住宅案内図帳 複製昭和32年住宅協会/編住宅協会, 参考資料:東京都全住宅案内図帳 複製昭和34年東京住宅協会/編東京住宅協会, 参考資料:東京都全住宅案内図帳 複製昭和34年東京住宅協会/編東京住宅協会,
『港区史 下巻』P.1426-1427に、「引揚援護」について書かれている。昭和24年1月当時、都営引揚者の寮は、港区内に6施設あった。「赤坂寮」は、昭和20年12月15日開設、木造二建、収容人員168人、所在地赤坂一ツ木町36とある。『赤坂青山町連合会 創立50周年記念誌』P.134「元近衛歩兵第三連隊跡」の写真に、引揚者住宅が写っている。読売新聞DB[ヨミダス歴史館]に、以下の記事があった。1948年12月19日朝刊「戦災者寮焼く」赤坂一ツ木町56元近衛三連隊跡戦災者共同住宅一ツ木寮2号館、(中略)木造2階建て約150坪を全焼。1961年2月2日朝刊「戦災者住宅(赤坂一ツ木)焼く」港区赤坂一ツ木町36戦災者住宅一つ木寮4号館1階から出火、同木造2階建て一むね約300㎡を全焼。同住宅は(中略)終戦後兵舎を改造したもので6むね並んでいるが、前にも ...
関東大震災直後、日本橋魚河岸から芝浦に、魚市場が移転した経緯について知りたい。その当時の芝浦の魚市場の様子の写真が見たい。(港区立三田図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/3/14 0:30:06)
from レファレンス協同データベース (2025/3/14 0:30:06)
『「築地」と「いちば」』p.114によると、日本橋魚河岸は、関東大震災(1923年(大正12)9月1日)で全焼し、震災後の戒厳令のもとで立ち入り禁止となった。旧市場の復旧を許されなかった日本橋魚市場組合は、応急措置として芝浦埋立地(私有地2千坪)を借り、9月17日テント張りの市場を急造した、とある。『日本橋魚河岸物語』p.327によると、芝浦臨時市場の場所は、芝浦二号地とある。埋め立て地なので、「草をむしり切る作業から始まった」とある。また、p.329、p.330に写真がある。朝日新聞「聞蔵」(1923年9月21日朝刊 1ページ11段)では「震災後、芝浦グラウンド横に仮市場を設けた」とある。『東京百年史 第4巻』p.1274に「芝浦日出町の2000坪を臨時市場敷地として」との記載がある。『竹芝 明治40年〜平成元年』p.127に写真がある ...
『東京社会辞彙』p.740に「湖月楼」の説明があった。「維新の頃、旧唐津藩士多賀右金治氏」が、「狐穴」と名づけて開店し、その後「湖月」となったとある。住所は芝区烏森4、電話は新橋493。『東京名所図会 芝区之部』p.30に「湖月楼 同町四番地に在り。戸主 多賀ふみ」「料理は芝区で一番」などとあり、庭園についても記載されている。『明治の港区』p.137に「料理の有名店」の一軒として取り上げられている。「湖月」芝区烏森町。(出典は『東洋大都会』p.121)。『芝区誌』p.1623「新橋二丁目」の項に「今はないが湖月楼、扇芳亭等著名な料亭も多かった」とある。烏森は現在の町名で新橋二丁目。『東京地籍図 港区編第2巻』に、湖月楼のあった土地の所有者が「多賀 一」とある。「多賀ふみ」の近親者か。 朝日新聞データベース ...
「開拓使仮学校跡」の碑は、地下鉄御成門駅エレベータ乗り場近くの交差点脇にある。住所は芝公園3-2。『増上寺旧境内地区歴史的建造物等調査報告書』裏表紙の地図に「開拓使仮学校跡」がある。p.82-83に、仮学校についての記述がある。『写された港区 一(芝地区編)』p.88-89に、石碑と仮学校の写真がある。『港区近代沿革図集 新橋・愛宕・虎ノ門・芝公園・芝大門・浜松町・海岸』p.77の、1876年(明治9)の地図に「開拓使学校」がある。(2019年3月更新)回答プロセス:新聞記事ファイル4 「芝公園界隈」に石碑の記事あり。芝公園3-2にあることがわかる。『港区の文化財 第3集』p.12に1871年(明治4)北海道開拓使の東京出張所が芝増上寺方丈跡に移り、その翌年、仮学校も移したとある。参考資料:港区の文化財第3集港 ...
President demands bloc removes duty on US whiskey
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