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『増補港区近代沿革図集 麻布・六本木』p.56、1862(文久2)年の地図に「笄橋」が見える。p.210-213に由来について、様々な説が載っている。『港区の文化財 第4集 麻布』p.38に、笄橋の場所は現在の西麻布四丁目3番10号先とある。『麻布區史』p.907によると、(関東大)震災前後頃までは残っていたが、今は川が暗渠となり橋は無い。『港区史 上巻』p.440によると、もとは源経基が都へ逃れる途中で刀の笄を与えて川を通過したことから経基橋といったが、子孫である源頼義が先祖の名をはばかって1063(康平6)年に現在の名に改めた、という説がある。『麻布の名所今昔』p.16、『東京名所図会 赤坂区・麻布区之部』p.215-216にも掲載がある。また、『東京名所図会 赤坂区・麻布区之部』p.223に笄橋の図、『増補写された港区 三(麻布地区編)』p ...
『角川日本地名大辞典 13』p.53,994-1010と『日本歴史地名大系 13』p.393によると、赤坂は江戸城西南方の赤坂御門から、溜池谷西に広がる台地にかけての称で、明治11年府内15区の1区名として採用された。東は外堀に限り、西は青山、南は麻布、北は四ツ谷に接している地域をさす。中世以前には見られなかった地名で、起源には諸説ある。①迎賓館赤坂離宮の付近をアカネグサ(茜草)が生えている為赤根山といい、そこへ昇る坂を赤坂といったとされている。江戸期以来紀伊邸があるため紀伊国坂といわれている坂である。②付近が赤土で、諸国の赤坂もみな赤土であるからという説。③赤坂6丁目にあった松平安芸守下屋敷の山が赤土であったからという説。④染物屋甚三が付近の坂に赤い染絹を干したからという説などがある。『港区史』 ...
芝家具の歴史については『芝家具の百年史』に詳しい。『港区史 下巻』p.356-357「和洋家具」の項に概略がある。p.415-422「愛宕下における洋家具集団地の発達」によると、洋家具業がいつごろ起こったかは明らかではないが、明治中頃には旧芝区内で作られていた洋家具は芝家具と呼ばれるようになったという。『港郷土資料館だより』第46号p.7に「芝の家具製作の歴史」がある。木彫については、前掲『芝家具の百年史』p.590-596に、芝の彫刻屋・象嵌屋について書かれている。『後久(ごきゅう)洋家具店製作家具図面集』には、木材から家具の部品を削りだすために使用した実物大の図面等が収録されており、店主・後久重太郎についても写真、年表とともに記載されている。店は芝・田村町にあった。『港区立港郷土資料館研究紀要 8』 ...
『空白の昭和史 第1巻』p.54-67に、「港区一帯の被害」として1945年9月11日に撮影された写真や、p.40-42に米国大使館、虎の門周辺の写真の掲載がある。そのほか、『目で見る港区の100年』p.118,120-121に大門と新橋、『東京大空襲』p.122-131に三田と高輪、『写された港区 一』p.47に虎ノ門附近の写真がある。また、赤坂地区は『写された港区 四』p.60-61,170、『戦乱と港区』p.154-155,200-201,212-213、『平和を創り、守るために』p.12などに掲載がある。(2019年3月更新)参考資料:空白の昭和史第1巻空白の昭和史刊行委員会/企画・編集エムティ出版, (p.3,40-42,54-67)参考資料:目で見る港区の100年郷土出版社, (p.118,120-121)参考資料:東京大空襲NHKスペシャル取材班/著新潮社, (p.122-131)参考資料:写された港区一(芝地区編)港区教育委員会/編港区, (p.47)参 ...
『芝區誌』p.1393-1394に、霊仙院殿(千代姫、家光の長女、尾張右兵衛督光友の簾中)の位牌殿として、尾張家より造立とある。 『増上寺旧境内地区歴史的建造物等調査報告書]』p.137に、「創立または開祖没年」は1697(元禄10)年とある。 『芝増上寺境内地の歴史的景観』p.52,p.80に、1698(元禄11)年、霊仙院(家光女、尾張光友室)の墓所、位牌殿の別当として創立されたとある。『増上寺史』p.380に、「霊仙院殿は元禄11年(1694)逝去」とあるのは1698年の間違いと思われる。また、1817(文化14)年に逝去した、家斉将軍長女である清湛院の位牌も相殿されたとある。 『港区の文化財 第3集』p.5江戸時代の地図に、増上寺北側「松蓮社」とある。(2019年3月更新)回答プロセス:『増上寺旧境内地区歴史的建造物等調査報告書]』p.137に、 ...
『資料 東京都の学童疎開』によると、昭和17年(1942)以降、国内の大都市圏を中心に大規模な空襲が頻発し、「防空法中改正法」によって行政は強制疎開を命じることができるようになった。まず、縁故疎開が勧奨されたが、疎開先の手配や費用は保護者の負担だった。東京都は地方に縁故がない父兄の要望に答えるため、臨海学校や養護学校等の施設を戦時疎開学園として、希望者を収容した。麻布区の仙石原戦時疎開学園・赤坂区の沼津戦時疎開学園がそれにあたる。昭和19年(1944)「学童疎開促進要綱」と「帝都学童集団疎開実施要領」の閣議決定により、学童集団疎開が各区で始まる。芝区は栃木県塩原温泉・鬼怒川温泉等の地域へ、麻布区は栃木県佐野市・足利市の地域へ、赤坂区は調布市や小平市等の多摩地域へ集団疎開した。 ...
三田上水については、『江戸の上水と三田用水』に詳しい。『港区史 上巻』p.891-894によると、三田上水は三田芝浦付近の飲料水として、1664年に玉川上水の笹塚取水口から水を引き入れて建設された。1722年に上水廃止例によって廃止された。主な支流として細川上水、白金上水があった。1724年、旧三田上水より灌漑用に用水を引くことが許され、三田用水と称された。『港区近代沿革図集 高輪・白金・港南・台場』p.248-249に三田上水についての記載と地図がある。『武蔵野・江戸を潤した多摩川』 p.172-197によると、三田用水は付近の大名屋敷の庭園の池などに引き込まれていた。また、明治になって工業用水として、ビールの原料や水車に利用された。駒場農学校に分水され、近代農学の発展に貢献した。『図解・武蔵野の水路』p.174-183に ...
毎年8月頃発行される『港区行政資料集』(港区)に、人口に関する数値が掲載される。人口はその年の1月1日時点のもの、外国人住民数は前年度末の数値が掲載されている。また、港区ホームページにも同じデータがある。月更新のためこのデータが最も新しい。「港区→区政情報→統計データ→人口・世帯数(住民基本台帳に基づく)」(2019年3月更新)回答プロセス:港区の人口統計が掲載されている『港区行政資料集』を確認した。港区の人口統計が掲載されている港区ホームページを確認した。参考資料:港区行政資料集平成30年度(2018年度)版港区企画経営部企画課/編港区, (p.3-22)
『まち探訪ガイドブック』p.42に、「港区のおもな坂」88ヶ所の一覧がある。『観光マップみなと 坂と史跡のまち』に、地図と「港区の坂」86ヶ所の由来が掲載されている。『増補 写された港区』に、各地区の坂について写真と説明がある。『港区の文化財 第1集〜第14集分類索引』p.56に、89ヶ所の坂の一覧がある。『東京の坂』巻末「東京の坂547」港区に、坂の傾斜・道幅の表がある。(2019年3月更新)参考資料:まち探訪ガイドブック俵 元昭/監修港区産業・地域振興支援部地域振興課, (p.42)参考資料:観光マップみなと港区商工課/編港区, 参考資料:写された港区一(芝地区編)港区教育委員会/編港区, 参考資料:写された港区二(高輪地区編)港区教育委員会/編港区, 参考資料:写された港区三(麻布地区編)港区教育委員会/編港 ...
『増補写された港区(芝地区編)』p.53によると、 「芝切通し」は、愛宕山の南端部が増上寺方向へ延びる丘陵部分を切り開いて道路としたところで、現在の芝公園3丁目1番と虎ノ門3丁目22番の間、西から北東へ下る正則学園前の坂にあった。p.58に、明治初期の「時の鐘」の写真がある。「時の鐘」については、『江戸の時刻と時の鐘』p.38-41に詳しい。「切通坂」は増上寺と青松寺の間にある坂で、時の鐘のあった切通坂傍の丘上は、増上寺の所有とされていた。1619(元和5)年、長谷川豊前という人物が西久保八幡宮に時の鐘を建立した。1674(延宝2)年、増上寺の願いにより芝切通しに移され、「御霊屋時鐘」と名付けられた。またp.116-121に、鐘の管理・運営に関する記述がある。 『増補港区近代沿革図集 新橋・芝公園・芝大門・浜 ...
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