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明暦の大火は1657年。『増上寺旧境内地区歴史的建造物等調査報告書』p.19に、「増上寺内でも学寮94宇、坊中15院、恭敬院が類焼した」とある。P.24に「火災とのたたかい・類焼しなかった増上寺御霊屋」の項目がある。P.39に「大規模火災時には、坊中も幕府から援助をうけている例が多い」とある。注釈に「類焼記録より:明暦3酉年正月19日、丸山本妙寺出火、山内焼失学寮94宇坊中15院外に恭敬院、この時銀150貫目を官より賜う」とある。『明暦の大火』p.120によると、増上寺に火が入って、所化寮の110余の寺院、表の東門、芝神明の本社・神楽堂・護摩堂などを炎上させた。p.131に、「幕府は寺社奉行を増上寺に派遣して、大火犠牲者の法要を営むことを命じ、その費用として300両を下賜した。(中略)2月26日から増上寺の貴屋は100人の ...
新橋―横浜間の鉄道を建設する際に、陸地でない場所を埋め立てて石垣を築いたことについて書かれたものはあるか。(港区立三田図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/3/14 0:30:11)
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『鉄道考古学事始・新橋停車』p.28に高輪の築堤工事の写真があり、築堤は品川の八ツ山や御殿山を切り崩した土砂で埋め立て、堤の石垣用石材は高輪海岸の石垣や第七台場の石垣などを流用したとある。『日本の鉄道創世記』p.78に、海の築城に利用された石垣は沿岸から最も遠方にあった七番の未完成台場を切り崩すところから始められ、付近の八ツ山、御殿山の土砂、幕府が築いた東海道の石垣などが運び込まれたとある。これでも足りなくて伊豆など遠方からも調達しているとある。『日本鉄道創設史話』p.282‐302に切通し工事を請負った平野弥太郎の手記がある。p.289に、芝浦より品川まで馬ぶみ12尺の土手を築き、海面の表面は上等の角石にて、石垣、裏面の方は間知石、亀腹石垣になる目論見とある。『日本鉄道事始め』p.77-98に ...
『港区近代沿革図集 麻布・六本木』p.10,32によると、有栖川宮記念公園の場所は、1862年(文久2)の地図では「南部美濃守下屋敷」となっている。この場所の調査をした『陸奥盛岡藩南部家屋敷跡遺跡発掘調査概要報告書』p.3に「南部家は、明暦2年(1656)、築地に拝領していた中屋敷と、当時の笠間城主浅野長直の下屋敷になっていた本遺跡地とを交換した」とある(『東京市史稿』による)。『東京市史稿 市街篇第6』p.1096-1097に、南部家所有の築地中屋敷と、浅野内匠頭長直所有の麻布一本松下屋敷とを交換とある。『古板江戸図集成 第1巻』「正保年間江戸絵図 正保元年(1644)」p.133に、浅野内匠下屋敷があり、有栖川宮記念公園の場所と思われる。『江戸の坂東京の坂』p.133-138「二つの南部坂と浅野屋敷」の項で、正保元年江戸絵図 ...
猫塚の所在地は、港区三田1-4。『港区史 上巻』p.406に、原史時代の遺跡として「芝赤羽町(都立三田高校内猫塚-オセンチ山)、円墳、専門家は指摘も確認もしていない」とある。『港区の文化財 第7集 三田と芝』p.58-60に、猫騒動の概要と共に赤羽小学校内の猫塚の写真がある。『都心部の遺跡』p.125に、猫塚(オセンチ山)、遺存良好などの記載があり、p.173には地図がある。『御家騒動 江戸ばなし 第11冊』p.267-290に、「有馬の猫騒動」の項があり、演劇や講談にも脚色されることが多かった久留米藩の有馬家で起こった猫騒動について詳しい。『港区近代沿革図集』p.190に、「有馬家上屋敷で非業の死をとげた奥女中の飼い猫が、飼い主の恨みをはらすべく化け猫となり、関係者につぎつぎとたたりを及ぼしていくが、最後は江 ...
徳川家と増上寺の関係については、『増上寺史』p.13-16「家康公と増上寺」に詳しい。『増上寺旧境内地区歴史的建造物等調査報告書』p.16に、「天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入府した折、増上寺は徳川家の菩提所と定められた」とあり、家康が増上寺に帰依した経緯について記載されている。『大本山増上寺史 本文編』p.186-187に、秀忠は「自分は死んだら増上寺に埋葬されることになっている」と言った、との記述がある。徳川秀忠の薨去については、『大本山増上寺史 年表編』p.14に、「1632(寛永9)年1.24 秀忠薨ず。翌25日、松平正綱、増上寺に秀忠霊廟の造営を命じらる。1.27 秀忠の遺骸を江戸城から増上寺に移し、葬礼行わる」とある。『大本山増上寺史 本文編』p.188 に、「増上寺では、秀忠の三七日忌に当たる2月15日から28日ま ...
『角川日本地名大辞典』p.56によると、赤煉瓦通り・煉瓦通りともいう。現行の新橋2丁目5~6番の間から6丁目18~19番の間まで。江戸期の愛宕ノ下大名小路とある。『芝区誌』p.1626に、愛宕下大名小路の東側、今の(昭和13年)新橋三丁目及び四丁目に赤煉瓦2階建ての西洋建築があったことから、この通路一帯を「赤煉瓦通り」と言うようになった。『港区近代沿革図集』p.150に、赤煉瓦というのは愛宕下町2-2、現在の新橋4丁目に赤煉瓦造の清隆館という勧行場があったところから生じた、里俗の地名とある。高級洋家具商が特に多かったことが有名で、新橋の洋家具製造販売業の中心地だった。『新橋を語る』p.51に、1872(明治5)年の大火事で、銀座金春芸者の居宅はほとんど全部焼けたため、芸者家は一時、全部烏森の方 ...
『港区神社寺院一覧』p.57に、「曹洞宗 大円寺 三田伊皿子町50 明治41年杉並区和泉3-52-18に移転」とある。『江戸の大名菩提寺』p.88-93によると、1596(慶長元)年創建で、翌年桜田溜池周辺に寺地を拝領。1789年火災によって諸堂を焼失し、芝伊皿子に移ったとある。『港区近代沿革図集 芝・三田・芝浦』p.96-102に地図がある。現在の三田四丁目19の辺りか。『港区史 上巻』p.140-141,1038に、門前町と縁日について載っている。p.144の地図(中央付近)に「大圓寺」がある。『東京市史稿 宗教篇第3』p.939-940、『御府内寺社備考 第5冊』p.293-296、『全国寺院名鑑 北海道・東北・関東篇』p.337にも大円寺について載っている。(2019年12月更新)参考資料:港区神社寺院一覧昭和57年12月末現在港区立みなと図書館, (p.57)参考資料:江戸の大名菩提寺港区立港郷 ...
『新装 昭和史の天皇 7』口絵写真(読売新聞提供)の、港区元麻布で発見された地下壕について場所や写真などが知りたい。(港区立三田図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/3/14 0:30:10)
from レファレンス協同データベース (2025/3/14 0:30:10)
読売新聞記事DB[ヨミダス歴史館]に、以下の記事があった。1977年2月15日朝刊p.18~19口絵写真と同じ写真が掲載されていた。また内部の手書きの図面や写真も多数掲載されている。簡単な経緯は、以前から周辺ではその存在は知られていたが、付近の住人から麻布消防署への通報で、港区元麻布1丁目のマンション地下に地下壕について明らかになった。場所は麻布山善福寺境内の崖の横を通り、隣接するマンションの真下に続いていた。1977年2月16日朝刊及び10月21日朝刊マンションの鉄柱が地下壕まで達していたため、港区は総工費1千3百万円を投じて穴埋め工事を行った。地下壕に由来は諸説あり不明だったが、勤労動員で作業を手伝った麻布中学卒業生の証言で、旧海軍工作隊が終戦直前の昭和20年(1945年)に造ったのではないかと思われる ...
渋沢栄一らが関わり、大正8(1919)年に設立された「協調会」の会館が芝公園にあった。『国史大辞典 4』p.323に、協調会は第一次大戦後の労働運動の昂揚などに脅威された政府・財界が協力し、労使協調を目的にして設立された社会政策に関する調査研究、社会政策推進のための民間機関とある。『日本労働組合物語 大正』p.156-159に「協調会の創立」の項がある。朝日新聞DB[聞蔵Ⅱ]に以下の記事があった。1923年1月29日朝刊「三菱の借家から芝へ新築後の計画」(建物写真あり)芝公園の北隅に新築中の協調会館は(中略)3月一ぱいに竣成し4月始めには丸の内の三菱借家からここへ引き移る1923年3月20日夕刊「新協調会の三つの新事業」近代式セセッション5層洋館堂々たる協調会館(中略)明20日移転する同会が此の新館落成1923年6月24日夕刊 ...
青山墓地については『青山霊園』に詳しい。『港区史 上巻』p.268によると「(赤坂青山南町)三丁目は青山大膳亮の邸地であったが、北部は上地されて後、幕臣の宅地となり、明治五年七月三丁目となった。上地にならなかった青山氏邸地の部分が現在の青山墓地で、同年十一月に共葬地となったものである。以来、名士の墓が続々増えて、一名勝地となっている。」とある。p.341に青山霊園(青山墓地、立山墓地)主要墓の約120名の名簿がある。『港区史 下巻』p.884に共葬墓地としての沿革がある。市川團十郎の墓について以下の資料がある。『青山霊園』には、1981年当時の約250名の著名人の墓の場所が記載されている。p.50に市川團十郎の墓の場所「1種イ21区12側4号」、初代から歴代の團十郎がここに眠っているとある。『図説東京お墓散 ...
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