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サイパン島がアメリカに占領された1944年(昭和19)7月以降、日本本土がボーイングB29爆撃機の行動範囲に入り、同年11月24日に80機が東京の町々に初めて爆弾・焼夷弾を落とした。それ以降、1945年(昭和20)8月15日まで、東京は100回に近い空襲をうけ40万発以上の爆弾と焼夷弾をあびたが、その内港区内に直接的被害を与えた空襲の様子については主に『港区史 下』p.855-856、および『東京都戦災誌』に詳しい。『港区史 下』p.854-874「戦災」に、主に『東京都戦災誌』(昭和28年東京都編)を基にした区内戦災のあとの記載がある。p.863に被災面積について記載がある。芝区・麻布区・赤坂区の区域面積・罹災面積・比率があり、「芝区は他区にくらべれば罹災比率が低かったが、麻布区・赤坂区は70%以上を焼いてしまった」とある。p.864-865「 ...
『東京江戸案内』p.38「西郷・勝会見の地碑」によると、1868年(慶応4)3月15日の江戸城総攻撃の前日である3月14日に、官軍参謀の西郷隆盛と幕臣勝海舟が江戸城を無血開城するために会談したのが薩摩蔵屋敷とある。会談が成功し、江戸を戦火から救うことができた記念の碑として、その写真と住所(港区芝5-33)の掲載がある。勝海舟と西郷隆盛の会見に至るまでの歴史的、社会的背景については、『港区の文化財 第7集 (三田と芝 -その1-)』p.49-55「江戸開城談判の地」に詳しい。会談の場所については諸説あるとしているが、p.54に、「3月13日の会見は高輪の薩摩屋敷で行い、翌14日の会見を田町の蔵屋敷で行ったと考えることが一般的」とある。その他の資料として、『江戸東京学事典』p.933-934「幕末の三事件」に、江戸開城に関する ...
『港区指定文化財』p.25に増上寺梵鐘の写真、p.26に鐘銘の記載がある。『浄土宗大本山 増上寺』p.16に、鐘楼堂と梵鐘についての記述がある。鐘楼堂は1633年(寛永10)の建立だが、現在のものは戦後に再建されたもの。鐘楼堂におさめられている梵鐘は、あまりの大きさに7回の鋳造を経て1673年(延宝1)に完成した東日本で最大級の大梵鐘、とある。また、『大本山増上寺史 本文編』p.689に、「上野寛永寺、浅草浅草寺と並んで江戸三大梵鐘の一つに数えられ、その音色は遠く木更津まで聞こえたと伝えられている」との記述がある。鐘の大きさについては、『増上寺史』p.53に、「長さ1丈、口指渡そとのり5尺8寸。口の厚さ6寸5分。蓮花座廻り1丈8尺3寸。蓮花指渡9寸6分。4千貫。」とある。『港区文化財のしおり』p.35「増上寺梵鐘」に、「高 ...
汐留にあった仙台藩邸について、江戸時代の様子がわかる資料は、次のようなものがある。『江戸の武家屋敷』p.11-27「大名屋敷の外観・風景 仙台藩伊達家上屋敷から」に、以下の記述がある。仙台藩伊達家はおよそ62万石の外様大名で、現在の港区東新橋一丁目に上屋敷を所有した。この地は1641年(寛永18)下屋敷として拝領し、1676年(延宝4)から明治維新後に収公されるまで上屋敷として存続した。同邸跡は、隣接する龍野藩脇坂家上屋敷跡(北側)・会津藩松平家中屋敷跡(南側)と合わせ、「汐留遺跡」として発掘調査が行われた。p.12-22 表門模型、屋敷に使用された瓦等の写真、絵図面多数p.23-27 江戸詰め家臣に関する記述、文書の写真、菩提寺である東禅寺の図面『江戸の大名屋敷』p.93-127「仙台藩伊達家芝屋敷の形成と変遷」に ...
『新修港区史』p.495-496「芝・麻布・赤坂三区の誕生」の項p.495に、「明治11年11月2日、東京府の行政区画は従来の11大区103小区を廃止、新たに15区6郡に改編され、ここに芝・麻布・赤坂の3区の誕生をみた」とある。同p.808-809「港区の発足」の項に、「昭和22年3月15日、東京都の35区は、前年10月に施行された改正都制をもとに、22区に再編された。ここに、港区は、芝・麻布・赤坂の3区統合によって誕生した」とある。同p.809「港区の名称」の項に、「3区協議の結果「城東区」と「東港区」が構想された。前者の由来は、芝・麻布・赤坂の3区ともに皇居の東に位置していることにあり、後者のそれは、東京港による区の発展を願ったものである。麻布・赤坂区関係者に反対があったが、後者が選ばれた。しかし、「東京都東港区」では、音が重 ...
『芝区誌』p.934-936に、芝給水場についての記述と、p.935に「芝給水場」の写真がある。p.1658「栄町」の項によると、本町1番地にはオランダ公使館があり、飯倉四ッ辻へ下る坂の左手に水交社、右手にアンデレ教会があり、芝給水場は10番地にあってこれらが本町の大部分を占めているとある。『港区史 下巻』p.786-793「上水道」の項p.789に、芝給水場の写真とともに「芝区の大部分、日本橋、京橋方面の低地へは一度淀橋から芝給水工場におくって、そこから配水することとした」とある。『近代沿革図集 新橋・芝公園・芝大門・浜松町・海岸』p.48の地図(明治30年)に、芝栄町(現:芝公園3丁目)に芝給水所の記述がある。『東京市史稿 上水篇 第三』p.676に、芝給水工場之図がある。p.572-629に、工場敷地買収費告示・給水工場敷地買収開始 ...
板垣退助ゆかりの場所を探している。「自由党本部」と銅像が芝公園にあったらしいが、詳しい場所を知りたい。(港区立三田図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/3/14 0:30:14)
from レファレンス協同データベース (2025/3/14 0:30:14)
『港区の文化財 第3集』p.17によると、明治27年(1894)、芝公園5号地10番の天光院境内にあった自由党本部が、5号地2番に移転したとある。「建物はもと海軍水交社のために造った2階造り洋風建築であった」とある。また、p.97に、板垣退助の銅像が芝公園1号地にあったとある。『港区近代沿革図集 新橋・愛宕・虎ノ門・芝公園・芝大門・浜松町・海岸』p.73の地図(明治30年)に、「5号地2番 自由党本部」がある。『芝区誌』p.1512の地図に「ル 板垣退助銅像」とある。また、p.1665芝公園5号地の項に、自由党本部は明治30年頃から関東大震災頃までここにあったとある。『明治人名辞典 上巻』「イ之部 イ三」に、板垣退助の住所は芝区愛宕町2の1、電話は芝760とある。朝日新聞DB[聞蔵Ⅱ]に以下の記事があった。1890年7月13日に、板垣退助邸は愛宕 ...
『明暦江戸大絵図』p.7(全図A)、p.8-9(全図B)で、江戸時代は、古川から南は東海道線の位置あたりから海岸線であることが確認できる。(全図ABの詳細図は、p.23浜松町、p.25芝、p.36芝・三田・高輪、p.38品川にある)『UKIYO-E 名所と版元』p.42-43に、江戸後期に描かれた「浜御殿より品川新宿迄江戸往還道絵巻」(作者未詳)があり海岸線の様子を確認できる。『概説 高輪築堤』p.5で、1872年(明治5)には、「図0-4 東京湾埋め立ての変換図 ① 明治5年」で品川から横浜間の鉄道が開通し、〈高輪築堤〉が完成していることが確認できる。また、『UKIYO-E 名所と版元』p.65-67には、高輪鉄道の絵図が数点掲載されている。『港区史 第11巻 自然編』p.18-20に、1880年(明治13)には、浜離宮恩賜庭園や旧芝離宮恩賜庭園周辺が人工的な海岸となっている ...
泉岳寺に高輪接遇所が設置された経緯については、『港区史 第3巻』p.346-365「第6章 幕末 第2節 幕末の公使館」に詳しい。p.348に、イギリスは1858年(安政5)7月18日に日英修好通商条約を締結、とある。p.350に、1859年(安政6)年6月、条約の発効にともなって江戸にイギリスの総領事、ラザフォード・オールコックが赴任し、高輪の東禅寺(現高輪3丁目)に総領事館(公使館)が開設された、とある。p.358に、1860年(万延1)12月5日に発生した、ヒュースケン暗殺事件後、イギリスのオールコックは、江戸から横浜に退去して幕府に抗議の意を示し、警備陣の質的改善を強く求めた。またこの頃、幕府は各寺院に散在している外国公使館を一か所にまとめることを企図、外国側にその候補地として御殿場(現在の品川区北品川)を提案した、とあ ...
『目で見る港区100年』p.176によると、東京タワーは、1958年(昭和33)12月23日、世界一高い総合電波塔として建設された。高さは333メートルで地上150メートルに大展望台があり、1967年(昭和42)には、250メートルの特別展望台が新設された、と記述がある。『ニッポンの塔 タワーの都市建築史』p.75-76に、首都圏において複数の電波塔を一つに集約する総合電波塔を求める機運が高まり、アンテナを含めた高さにおいてエッフェル塔を超える380メートルの電波塔を建設する計画が立てられた。そこで、建設費用を捻出するため、観光客が集まる展望台を設け、なおかつ塔の下に5階建ての科学館の併設を計画した。塔の建設に先立って、建設及び管理・運営を担うべく、1957年(昭和32)に民間資本による「日本電波塔株式会社」が設立され、同社 ...
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