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参考資料によると、消火方法としていつからあったかは不明だが「バケツリレー」という言葉は和製英語。『東京新聞』昭和12年(1937)6月16日(夕刊)、『朝日新聞』昭和12年(1937)6月16日(東京/夕刊)によると品川区芳水小学校の防空演習を伝える記事に「バケツ・リレーの消火作業」とあるので、少なくとも昭和12年(1937)頃には「バケツリレー」として一般的に認識されていたとは言える。詳しくは参考資料をご参照ください。参考資料:【資料1】『日本国語大辞典』第10巻 な-はわん 第2版 日本国語大辞典第2版編集委員会,小学館国語辞典編集部/編 小学館 2010年 請求記号:8131/45/10 p.1061, 参考資料:【資料2】『広辞苑 第6版』新村出/編 岩波書店 2008年 請求記号:8131/45/0008-S00 p.2241, 備考:バケツリレーの方法(総務省消防庁) https://www.fdma.go. ...
参考資料によると、元和3年(1617)3月15日、家康の霊柩は、久能山から日光山に移されるために出発しました。富士山麓の善徳寺(15日)、三島(16・17日)、小田原(18・19日)、中原(20日)、府中(21-22日)(『東武実録』によると府中に23日まで宿泊)、仙波(23-26日)、忍(27日)、佐野(28日)、鹿沼(29-4月3日)を通り、4月4日に日光山の座禅院に到着したということです。詳しくは参考資料をご参照ください。参考資料:『日光市史 中巻』(日光市史編さん委員会 日光市 1979年 C32/2132/8-2), (p.90-94 図有)参考資料:『徳川家康公伝』(中村孝也 東照宮社務所 1965年 2891/298/65), (p.693-697)参考資料:『徳川家康おもしろ事典』(小山田和夫 新人物往来社 1970年 2891/270/90), (p.223)参考資料:『日光東照宮の謎』(高藤晴俊 講談社 1996年 1759/45/96), (p.95)参考資料: ...
参考資料によると、隅田川は上流を荒川とし、荒川の下流(東京都北区岩淵地点)で隅田川として分かれて、東京のまちの中を蛇行して東京湾に流れます。よって水源は荒川と同じ、起点は岩淵水門とし、長さは約23.5kmです。詳しくは回答プロセスと参考資料をご参照ください。回答プロセス:「隅田川」の川としての定義は長い間曖昧でした。承和2(835)年にはすでに「住田河」として古文書に登場していますが、【資料1】『〈図説〉江戸・東京の川と水辺の事典』によると「古い時代には入間川と呼ばれ、江戸時代中期までの公文書と地図で見る限りでは、浅草川と呼ばれていた」と書かれています。【資料2】『江戸の川・東京の川』によると「荒川下流部は、武蔵国と下総国の国境であり、武蔵国側からいえば浅草川、下総国 ...
記録されたものだけということになりますが、文献の種類、火事の範囲や大きさ等によって90件から2000件まで数えられています。詳しくは回答プロセスと参考資料をご参照ください。回答プロセス:【資料1】『東京市史稿 変災篇』第4・5巻には天正18(1590)年~明治40(1907)年の江戸東京の火災編年集。【資料2】「江戸災害年表」には『東京市史稿』に基づく災害年表。火事は出火時刻・火元・風向き・類焼範囲を列挙。【資料3】『東京百年史』第1巻に江戸時代主要火災年表あり。【資料4】『江戸の火事』には「吉原健一郎氏の丹念な調査によれば前記267年間で、大小あわせて1798件の火災が確認されている。」とある。【資料5】『江戸の火事と火消』には「江戸時代の江戸についてみれば、記録された大火は右の三大火を含めて実に200件以上 ...
諸説あり明確にはわかりません。詳しくは回答プロセスと参考資料をご参照ください。回答プロセス:『日本人の坐り方に就て』(【資料1】)によれば、諸説あるが明確にはわからない。数々の史料から古くから形があった事は推察できるが、絵巻物等をみる限り人物のほとんどがあぐらをかいているので一般的ではなかったといえる。今日のように一般的に正座をするのは元禄、享保ごろからであろう。『正座と日本人 The new fifties』 (【資料2】)によると、古い書物に「正座」と書いてあっても、それは当時の正しい座り方を示しているだけであって、胡座や片膝立ちである可能性もある。 貝原益軒『養生訓』の中の「正座」は「胡坐」を意味し、明治時代まで「正座」という言葉自体がほとんど使われていないという。今日的な意味 ...
該当模型については『模型でみる江戸・東京の世界』(【資料1】)に平面図があります。詳しくは回答プロセスと参考資料をご参照ください。回答プロセス:『模型でみる江戸・東京の世界』(【資料1】)によると、復元にあたっては「伊予殿屋敷指図」(岡山大学池田文庫所蔵)、「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)、「甲良向念覚書」(東京都立中央図書館所蔵)などを利用した。『東京人』(no.323)(【資料2】)によると、正面となる東側が京間96間(約189m)に対して北側53間(約105m)の長方形に、南西部分に39間(約77m)×12間(約24m)の小さな長方形を足したL字型の敷地(約6600坪)であった。参考資料:【資料1】『江戸東京博物館常設展示図録〈模型編〉 模型でみる江戸東京』東京都歴史文化財団,東京都江戸東京博物館/ ...
『復元鹿鳴館・ニコライ堂・第一国立銀行 江戸東京博物館常設展示東京ゾーン「文明開化東京」』(【資料1】)によると、明治16年(1883)11月29日に開館。明治23年(1890)には宮内省に移管され、一部が華族会館となった。明治27年(1894)6月の地震での被災が契機となり華族会館に払い下げられて昭和2年(1927)まで利用された。その後は日本徴兵保険会社となり、昭和15年(1940)に解体されて67年間の生涯を終えた。跡地(千代田区内幸町1-1-7)には近年まで「鹿鳴館跡」というプレートがあった(備考※1)。詳しくは参考資料と備考リンク先をご参照ください。参考資料:【資料1】『復元鹿鳴館・ニコライ堂・第一国立銀行 江戸東京博物館常設展示東京ゾーン「文明開化東京」』藤森照信/他著 東京都江戸東京博物館/監修 ユーシープラン ...
「かねやす」は地名と店名として知られています。詳しくは回答プロセスと参考資料をご参照ください。回答プロセス:地名としては本郷三丁目の兼康横町。『御府内備考』によると、兼康祐悦という口中医師(歯医者)が住んでいたことに由来する。店名としての兼康はこの地に祐悦が開いた店。享保年間(1716年頃)から乳香散という歯磨粉を売り始め、大いに流行、繁盛したという。質問にある川柳の内容は、『江戸学事典』によると、中仙道を北上すると兼康の店がある辺りから江戸の景観が農村的に変化したからと考えられている。のちに店は移転し、洋品店として近年まで営業していた(備考※1によると、文京区本郷2-40-11)。参考資料:【資料1】『日本歴史地名大系 第13巻 東京都の地名』平凡社地方資料センター/編 児玉幸多/監修 ...
萩市の多越神社(たおじんじゃ)で『金銅鰐口(こんどうわにぐち)』の3Dプリンターで作られた複製品が披露された。この鰐口に掘られている経文が知りたい。(萩市立萩図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/2/17 10:52:37)
from レファレンス協同データベース (2025/2/17 10:52:37)
資料①から③を提供回答プロセス:資料①読売新聞2016年10月25日朝刊より、「多越天神社」で披露されたことが分かった。同記事内に「側面には山口月輪山円政寺天神宮」と彫られていると記載あり。資料②より、①読売新聞の記事を踏まえ、当該の「金銅鰐口」の全文を確認できた。資料③より、現在「金銅鰐口」を所蔵している奈良国立博物館のデータベース。キーワードに「金銅鰐口」を入れて検索、詳細ページの銘文の欄に全文記載あり。事前調査事項:質問者より、資料①の情報提供あり。参考資料:①読売新聞 2016年10月25日朝刊 p. 27, (ヨミダス歴史館)参考資料:②山口県立山口博物館 編. 山口県立山口博物館研究報告 第1〜6号. 山口県立山口博物館, 1968. p.32https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I35115010030732, 参考資料:③奈良国立博物館収蔵 ...
資料①を提供回答プロセス:角川日本地名大辞典、山口県の地名由来事典、当該地方史誌を調べた後に記載のあった資料を紹介した『防長地下上申 第4巻564ページに以下の記載あり「右此所往古麻苧を植、いつれの地よりも能く生立申之由ニて、自然と所の名に呼来伝候事」参考資料:①山口県地方史学会 編修. 防長地下上申 第4巻. 山口県地方史学会, 1980. p.564https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001468306,
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