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米・マサチューセッツ工科大学出版局、学術単行書のオープンアクセス化を目指すプログラム“Direct to Open”(D2O)の成果をまとめた報告書(2025年版)を公開
from カレントアウェアネス・ポータル 新規掲載コンテンツのRSS (2025/4/1 15:23:19)
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2025年3月27日、米・マサチューセッツ工科大学出版局(MIT Press)が、“Direct to Open”(D2O)プログラムの成果をまとめた報告書(2025年版)を公開しました。 D2Oは、米国の大学図書館を始めとする図書館及び図書館コンソーシアムの共同出資によって学術単行書の持続可能なオープンアクセス(OA)化を目指すプログラムとして、2021年に立ち上げられました。 報告書によると、プログラム開始後の4年間で13の図書館コンソーシアムと407の図書館がD2Oに参加し、学術単行書320タイトルのOA化に資金提供したとされています。そのほか、D2OによってOA化された書籍の総閲覧数は2025年2月現在で70万5,000件であったことなどが紹介されています。 続きを読む
「近藤徳太郎~織物教育の先覚者~」前澤輝政著 中央公論事業出版制作 2005発行「近藤徳太郎テ伝」近藤徳太郎伝刊行会 1995年発行「足工九十年史」「足利工高百年史」県立足利工業高校「教育に光を掲げた人々 第ニ集」栃木県連合教育会発行 / 「近代足利市史 第1巻」足利市発行/「足利の人脈 ~江戸時代から現代まで~」下野新聞社発行 / 「新編足利浪漫紀行」日下部高明・菊地卓著 随想舎発行/「足利人物風土記」足利市教育委員会発行 / 「栃木県歴史人物事典」下野新聞社発行事前調査事項:「京都、リヨン、そして足利 近代絹織物と近藤徳太郎」日下部高明著 随想舎 2001年発行参考資料:「近藤徳太郎~織物教育の先覚者~」前澤輝政著 中央公論事業出版制作 2005発行, 参考資料:「近藤徳太郎テ伝」近藤徳太郎伝刊行会 1995年 ...
今宮戎神社は、現在大阪市浪速区にあり、事代主命他4座を祭神としている。例年正月の10日を福徳祭の日とし、前後3日間の祭りを今宮戎(または十日戎)という。今宮(戎)神社の由来についてはいろいろの説があるが 『大阪府神社史資料』(大阪府/編 大阪府,1933.3)p.363-393 『浪速区史』(川端 直正/編集 浪速区創設三十周年記念事業委員会,1957.2)p.313-314 p.320-322 『上方 : 郷土研究 第55~60号』 1935年7月 55号 p.75などの資料が参考になり、特に『大阪府神社史資料』が詳しい。十日戎については 『南区志』(大阪市南区長堀橋筋一丁目外九十一ケ町区/編纂 大阪市南区役所,1928)p.480-483 『大阪今昔 : 町と人(現代教養文庫 399)』(宮本 又次/著 社会思想社,1962)p.254-271 上田長太郎「祭礼と花街」『上方 : 郷土研究 第55~60号』 1935 ...
昭和40年頃までの大阪を中心とする鉄道の沿革を概観したものには 『明治大正大阪市史 第1巻 概説篇』(大阪市役所/編纂 日本評論社,1934)p.259-277 『大阪百年史 [1]』(大阪府/編 大阪府,1968.6)p.59-60、p.466-470、p.539-542、p.628-632、p.683-684 p.728-729があり 『北区誌』(大阪市北区役所/編集 大阪市北区役所,1955.6)p.213-224 『天王寺区史』(川端 直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会,1955.10)p.165-182 『阿倍野区史』(川端 直正/編集 阿倍野区市域編入三十周年記念事業委員会,1956.11)p.168-195 『浪速区史』(川端 直正/編集 浪速区創設三十周年記念事業委員会,1957.2)p.172-195 『堺市史 第3巻 本編 第3』(堺市役所/編纂 堺市役所,1930)p.1085-1092などの地方誌・史類も、当該地域の鉄道を知るうえで参考となる。な ...
当時の地下鉄各駅の時間帯別乗降人員は、毎年1回、11月に実施された「地下鉄交通量調査」によって知ることができる。この調査結果は、大阪市総合計画局編・発行の「統計時報」「大阪市統計書」に収載・公表されているが、時間帯別に知ることができるのは後者だけである。ただし、昭和47年版以降は、年によって、時間帯別の乗降人員が掲載されなくなっている。昭和41年11月8日(火)実施の調査結果については 『統計時報 195号』(大阪市総合計画局企画部統計課)p.111 『大阪市統計書 55(昭和42年版) 』(大阪市総合計画局企画部統計課)p.200-201に掲載されている。参考資料:『統計時報 : 大阪市行政局 193~202号』 195号 1967年3月 (p,111), 参考資料:『大阪市統計書 55(昭和42年版) 』大阪市総合計画局企画部統計課/編 大阪市総合計画局企画 ...
大阪市が、当時の市内における大気汚染の実情を調査し、報告書として刊行しているものには 『大阪におけるスモッグ発生について 昭和38年11月~39年3月』(大阪市総合計画局公害対策部,1965) 『大阪市の大気汚染 第7版』(大阪市衛生局環境衛生課/編 大阪市衛生局環境衛生課,1967.12) 『市民と公害 : 大阪市における都市公害の実態とその対策 No.5』(大阪市事務局調査課,1968)などがあるが、これらの資料は亜硫酸ガスの濃度の情況を月別、時間帯別、地域別、さらに気象条件との関係についても分析してまとめたデータである。なお 『自然災害・公害対策技術シリーズ No.3 大気汚染 1』(公害と防災編集委員会/編 白亜書房,1966)p.34-47 『大気汚染便覧』(通産省企業局立地政策課/共編 厚生省環境衛生局環境衛生課/共編 日本公衆衛生協 ...
明治42年7月31日早朝、北区空心町(昭和53年からは天満)2丁目にあがった火の手は、強風にあおられ、西へ西へと広がり、25時間も燃え続けるという大火となった。これは「北の大火」俗に「天満焼け」とも呼ばれ、大阪の火事では、明治以後最大のものといわれている。 『北区誌』(大阪市北区役所/編集 大阪市北区役所,1955.6)p.129-134 『北区財産区誌』(大阪市北区役所/編輯 大阪市北区役所,1939.9)p.344-354は、火事の模様、被害、消防活動、救護活動など全般にわたって、詳しくしるしている。また 『大阪史話 : 近代化うら話』(朝日放送/編 創元社,1965)p.103-109 『百年の大阪 第4巻 商都の繁栄』(大阪読売新聞社/編 浪速社,1967)p.100-104には、市民の体験談を交え、その模様を興味深く伝えている。そのほか 『明治大正大阪市 ...
『大阪市職業別電話番号簿 昭和43年7月1日現在 下』(日本電信電話公社近畿電気通信局,1968.10) p.552-556 組合の項、p.330-337 玩具、玩具製造卸、子供乗物の項によれば、次のものがある。 大阪府玩具問屋商業協組 南区賑町4 大阪府金属玩具工協組 生野区中川町4-118 大阪児童乗物協組 東住吉区加美柿花町6-104 大阪輸出玩具工業協組 天王寺東高津6-28念のため大阪商工会議所図書館へ照会した所、上記以外に 大阪府玩具工業協組 東成区大今里北の町4-99 大阪大物玩具問屋協組 南区賑町4 大阪玩具人形問屋京組 同上 大阪玩具人形小売協組 浪速区西関谷町2-15があることが判明したが、これらは50音別電話番号簿にも記載されていなかった。(住所はすべて昭和43年時点の標示)参考資料:『大阪市職業別電話番号簿 昭和43年7月1日現在 下』 日本 ...
「二ツ井戸町」は大阪市旧南区にあった地名。現在の中央区瓦屋町3丁目、高津2丁目、道頓堀1丁目の各一部にあたる。 『大阪町名考 希有 第11輯』(佐古 慶三/編大阪 だるまや,1926.8)p.29 『南区志』(大阪市南区長堀橋筋一丁目外九十一ケ町区/編纂 大阪市南区役所,1928)p.525には、二ツ井戸町について「二井相並び、難波の名井二井戸の址。出拠井名。」としるされている。この「二ツ井戸」は道頓堀の東にあり、二井に仕切られているところから、この名で呼ばれていた。二井をもつ井戸は、この井だけではないが、「ふたつ井戸」といえば、この井をさすことが多いのは 山本博 「井戸と伝説(最終回)」『水道事業研究』1965年 第53号 p.80によると、西は歓楽街につらなるなど、ひと目につきやすい所あったためという。 『浪速叢書 第7 ...
「浪速八百八橋」といわれるほど、大阪は昔から川と橋の町であった。なかでも難波橋は、徳川時代、11(一説には12)の「公儀橋」にかぞえられた一つであり、天満、天神の両橋とならんで大阪の三大橋といわれたほど、難波っ子自慢のものであった。このような、かずある大阪の橋のうちで、現在も昔の面影をとどめているものはほとんどなくなってしまった。難波橋がわずかに昔の面影を残しているのは彫刻家、天岡均一氏の作といわれる、ライオンの像だけであるが、なぜこの橋にそれが設けられたのかその由来については明らかでない。その間の事情を紹介したものには 「橋づくし―難波橋―」『毎日新聞』昭42年2月17日付 『キタ : 中之島・堂島・曽根崎・梅田(風土記大阪 第2集)』(宮本 又次/著 ミネルヴァ書房,1964.4)p.43-44 『 ...
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