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『空白の昭和史 第1巻』p.54-67に、「港区一帯の被害」として1945年9月11日に撮影された写真や、p.40-42に米国大使館、虎の門周辺の写真の掲載がある。そのほか、『目で見る港区の100年』p.118,120-121に大門と新橋、『東京大空襲』p.122-131に三田と高輪、『写された港区 一』p.47に虎ノ門附近の写真がある。また、赤坂地区は『写された港区 四』p.60-61,170、『戦乱と港区』p.154-155,200-201,212-213、『平和を創り、守るために』p.12などに掲載がある。(2019年3月更新)参考資料:空白の昭和史第1巻空白の昭和史刊行委員会/企画・編集エムティ出版, (p.3,40-42,54-67)参考資料:目で見る港区の100年郷土出版社, (p.118,120-121)参考資料:東京大空襲NHKスペシャル取材班/著新潮社, (p.122-131)参考資料:写された港区一(芝地区編)港区教育委員会/編港区, (p.47)参 ...
『芝區誌』p.1393-1394に、霊仙院殿(千代姫、家光の長女、尾張右兵衛督光友の簾中)の位牌殿として、尾張家より造立とある。 『増上寺旧境内地区歴史的建造物等調査報告書]』p.137に、「創立または開祖没年」は1697(元禄10)年とある。 『芝増上寺境内地の歴史的景観』p.52,p.80に、1698(元禄11)年、霊仙院(家光女、尾張光友室)の墓所、位牌殿の別当として創立されたとある。『増上寺史』p.380に、「霊仙院殿は元禄11年(1694)逝去」とあるのは1698年の間違いと思われる。また、1817(文化14)年に逝去した、家斉将軍長女である清湛院の位牌も相殿されたとある。 『港区の文化財 第3集』p.5江戸時代の地図に、増上寺北側「松蓮社」とある。(2019年3月更新)回答プロセス:『増上寺旧境内地区歴史的建造物等調査報告書]』p.137に、 ...
『資料 東京都の学童疎開』によると、昭和17年(1942)以降、国内の大都市圏を中心に大規模な空襲が頻発し、「防空法中改正法」によって行政は強制疎開を命じることができるようになった。まず、縁故疎開が勧奨されたが、疎開先の手配や費用は保護者の負担だった。東京都は地方に縁故がない父兄の要望に答えるため、臨海学校や養護学校等の施設を戦時疎開学園として、希望者を収容した。麻布区の仙石原戦時疎開学園・赤坂区の沼津戦時疎開学園がそれにあたる。昭和19年(1944)「学童疎開促進要綱」と「帝都学童集団疎開実施要領」の閣議決定により、学童集団疎開が各区で始まる。芝区は栃木県塩原温泉・鬼怒川温泉等の地域へ、麻布区は栃木県佐野市・足利市の地域へ、赤坂区は調布市や小平市等の多摩地域へ集団疎開した。 ...
三田上水については、『江戸の上水と三田用水』に詳しい。『港区史 上巻』p.891-894によると、三田上水は三田芝浦付近の飲料水として、1664年に玉川上水の笹塚取水口から水を引き入れて建設された。1722年に上水廃止例によって廃止された。主な支流として細川上水、白金上水があった。1724年、旧三田上水より灌漑用に用水を引くことが許され、三田用水と称された。『港区近代沿革図集 高輪・白金・港南・台場』p.248-249に三田上水についての記載と地図がある。『武蔵野・江戸を潤した多摩川』 p.172-197によると、三田用水は付近の大名屋敷の庭園の池などに引き込まれていた。また、明治になって工業用水として、ビールの原料や水車に利用された。駒場農学校に分水され、近代農学の発展に貢献した。『図解・武蔵野の水路』p.174-183に ...
毎年8月頃発行される『港区行政資料集』(港区)に、人口に関する数値が掲載される。人口はその年の1月1日時点のもの、外国人住民数は前年度末の数値が掲載されている。また、港区ホームページにも同じデータがある。月更新のためこのデータが最も新しい。「港区→区政情報→統計データ→人口・世帯数(住民基本台帳に基づく)」(2019年3月更新)回答プロセス:港区の人口統計が掲載されている『港区行政資料集』を確認した。港区の人口統計が掲載されている港区ホームページを確認した。参考資料:港区行政資料集平成30年度(2018年度)版港区企画経営部企画課/編港区, (p.3-22)
『まち探訪ガイドブック』p.42に、「港区のおもな坂」88ヶ所の一覧がある。『観光マップみなと 坂と史跡のまち』に、地図と「港区の坂」86ヶ所の由来が掲載されている。『増補 写された港区』に、各地区の坂について写真と説明がある。『港区の文化財 第1集〜第14集分類索引』p.56に、89ヶ所の坂の一覧がある。『東京の坂』巻末「東京の坂547」港区に、坂の傾斜・道幅の表がある。(2019年3月更新)参考資料:まち探訪ガイドブック俵 元昭/監修港区産業・地域振興支援部地域振興課, (p.42)参考資料:観光マップみなと港区商工課/編港区, 参考資料:写された港区一(芝地区編)港区教育委員会/編港区, 参考資料:写された港区二(高輪地区編)港区教育委員会/編港区, 参考資料:写された港区三(麻布地区編)港区教育委員会/編港 ...
『増補写された港区(芝地区編)』p.53によると、 「芝切通し」は、愛宕山の南端部が増上寺方向へ延びる丘陵部分を切り開いて道路としたところで、現在の芝公園3丁目1番と虎ノ門3丁目22番の間、西から北東へ下る正則学園前の坂にあった。p.58に、明治初期の「時の鐘」の写真がある。「時の鐘」については、『江戸の時刻と時の鐘』p.38-41に詳しい。「切通坂」は増上寺と青松寺の間にある坂で、時の鐘のあった切通坂傍の丘上は、増上寺の所有とされていた。1619(元和5)年、長谷川豊前という人物が西久保八幡宮に時の鐘を建立した。1674(延宝2)年、増上寺の願いにより芝切通しに移され、「御霊屋時鐘」と名付けられた。またp.116-121に、鐘の管理・運営に関する記述がある。 『増補港区近代沿革図集 新橋・芝公園・芝大門・浜 ...
『港区の文化財 第3集』p.97に、昭和28年7月20日の日本開国百年記念祭挙行の時、東京都民から米国ロードアイランド州ニューポート市に対し、石灯籠1基を贈った答礼として、親善のしるしに東京都に贈られたもの、とあり。除幕は1960年(昭和35年)5月20日。ニューポート市は、1853年および1854年に日本の開港のため米国代表として江戸湾を訪れたペルリ提督の出生地であり、また当時日本訪問の出港地であった。(2019年3月更新)回答プロセス:芝公園について詳しい『港区の文化財 第3集』を確認した。参考資料:港区の文化財第3集港区教育委員会社会教育課/編港区, (p.97)
光輪閣については、支配人であった川添浩史の伝記『キャンティ物語』に詳しい。p.67によると、1946年、川添浩史は高松宮邸を転用した迎賓館「光輪閣」の支配人、及び高松宮の国際関係特別秘書官に任じられた。p.69によると、「光輪閣」という名称は高松宮の幼名「光宮(てるみや)」と、場所が高輪にあることからつけられた。貿易庁(後に通産省に吸収)の管轄下にあり、GHQの高官や海外からの使節を迎えるという名目であったが、実質の目的は終戦後、窮迫した皇族の家計や財産を守る、ということにあった。 『港区史 上巻』p.152によると、芝高輪西台町(現在の高輪1-14)にあった。熊本藩中屋敷であった場所で、明治になって皇族が住むようになり高輪御殿と呼ばれた。後に東宮御所となったが、関東大震災で消失した。 1927年( ...
『汐留・品川・櫻木町駅百年史』p.164に、初代から27代までの駅長名が掲載されている。初代駅長は高井尚三。開業当時の様子は『日本鉄道創設史話』に詳しい。『明治鉄道錦絵』や『古写真にみる日本の鉄道』にも、当時の錦絵や写真などが多数掲載されている。制服については『日本国有鉄道百年写真史』p.58に詳しい図がある。(2019年3月更新)参考資料:汐留・品川・桜木町駅百年史東京南鉄道管理局汐留駅品川駅桜木町駅, (p.164)参考資料:日本鉄道創設史話石井 満/著法政大学出版局, 参考資料:明治鉄道錦絵天坊 裕彦/編集交通協力会, 参考資料:古写真にみる日本の鉄道三宅 俊彦/[編]著新人物往来社, 参考資料:日本国有鉄道百年写真史日本国有鉄道/[編]日本国有鉄道, (p.58)
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