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The critics of cancel culture and echo chambers have turned into an intolerant tribe of their own
A new yacht-based trip offers thrilling scenery and total escape from crowded trails
Account holders cherish the personal touch and the feeling of belonging to an elite club — but what about the products and services on offer?
There are some perverse outcomes amid all the fun
For decades the sleepy Long Island hamlet of Montauk and its beloved Lobster Deck resisted gentrification. Enter Wall Street heavyweight Marc Rowan
The yen carry trade sell-off marks a step change in the business cycle
from UK homepage (2024/8/10 13:00:27)
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Gyrations in global markets come at a time of a monetary policy shift between the US and Japan
明治38年の夕張炭鉱の事故について詳しいことを知りたい。●その質問の出典や情報源、調査済み事項など夕張市役所に問い合わせ済み。その回答で明治38年の夕張市における炭鉱災害での死傷者は46名(死者36名・傷者10名、ただし5名以上の死傷者発生のみカウント)であると、資源庁鉱山保安局の資料に記載があるという記録あり。原本が夕張市りすた図書館にはないことを確認した。(北海道立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/8/10 12:48:43)
from レファレンス協同データベース (2024/8/10 12:48:43)
『夕張市史 下巻』(回答資料1)に「明治三十八年一月六日夕張砿第二斜坑で死者三六名、負傷者一〇名を出す事故を起こしているが原因は安全燈とある」以下事故の経緯の記述がある。他の夕張市史等では明治36年1月6日 夕張砿第二坑に瓦斯爆発。死者36名 程度の記述のみ。(参考資料:6~9)炭鉱の会社である北炭(北海道炭礦汽船株式会社)の社史には記述なし。(参考資料:1~2)炭鉱の事故について書かれた資料には記述なし。(参考資料:3~5)事故の日付より新聞記事を調査。以下に記事あり。北海道新聞 明治38年1月8日2面 見出し:夕張炭山瓦斯爆発椿事(死傷六十四名) (回答資料2)同 明治38年1月10日5面 見出し:夕張炭山瓦斯爆発後報 (回答資料3)同 明治38年1月11日2面 見出し:夕張炭山瓦斯爆発詳報 ※ (回答資料4)同 明治 ...
深名線にあった上多度志駅が仮乗降場(または停車場)として開業した年月日を知りたい。●その質問の出典や情報源、調査済み事項など『新幌加内町史(P580)』には、「上多度志と多度志停車場を設け大正13年9月に竣工した」とある。北海道旅客鉄道株式会社旭川支社編集の『深名線 風雪と共に』にも同様の記述がある。しかし、石野哲(編)『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ』には「昭和21年に上多度志駅仮乗降場開業」とあるよう。昭和25年に駅に昇格した、という所は全て一致していることは解っている。(北海道立図
from レファレンス協同データベース (2024/8/10 12:46:45)
from レファレンス協同データベース (2024/8/10 12:46:45)
ウィキペディアで「上多度志駅」で検索1946年(昭和21年)6月1日 - 運輸省深名線の上多度志仮乗降場(局設定)として開業[1]。とある。その出典である『停車場変遷大事典 国鉄・JR編2 』(回答資料1)に以下の記述あり。実施日:S21(1946)0601+ 駅名:上多度志(仮乗降場) 記事:仮乗降場(局設定)(p.845)昭和25年1月15日 仮乗降場(局指定)→停車場とある。多度志町の町史を調査『多度志町史 』(回答資料2)に上多度志駅の沿革あり。昭和21年6月1日,とりあえず臨時乗降場として開業し(中略)昭和25年1月15日旅客駅に昇格、昭和26年1月1日からは貨物の取扱いを開始、今日に至っている。(p.665~666)『多度志百年』(回答資料3)に記述あり。 〔昭和〕21年6月」臨時乗降場として開業、(中略)昭和25年1月15日旅客駅に昇格、昭和26年1月 ...
「十勝鉄道」の設立経緯、特に、会社創立趣旨・目的を当時の文言で知りたい。●その質問の出典や情報源、調査済み事項など甜菜糖事業における貨物運搬が当初の目的であったことは各種情報からすでに把握しているが、当時の原史料にあたりたい。帯広市史などからは見つからなかった。論文「十勝鉄道と河西鉄道の路線と社宅の整備過程-戦前期日本における製糖業を支えるネットワークの形成過程と特質に関する研究 その1-」(『日本建築学会九州支部研究報告第51号』 2012年3月)p745末~746にかけての脚注で「起業目論見書
from レファレンス協同データベース (2024/8/10 12:45:59)
from レファレンス協同データベース (2024/8/10 12:45:59)
十勝鉄道の社史は所蔵なし。インターネットで検索すると、現在も会社としてある。会社のHPに沿革があるが、当時の会社創立趣旨・目的に関する情報は無し。親会社にあたる日本甜菜製糖の社史及び帯広市史を調査以下の資料に記述があるが、どれも鉄道は北海道製糖が大正9年10月(資料によっては9月)に敷設し、旅客貨物運輸を行うために大正12年4月、十勝鉄道株式会社を設立したとある。・『日本甜菜製糖60年史』(回答資料1:p.329)・『日本甜菜製糖90年史』(回答資料2:p.8~9)・『日本甜菜製糖四十年史』(回答資料3:p.203)・『帯広市史』(1976年刊 回答資料4:p,560)・『帯広市史』(1960年刊 回答資料:5:p.596~597)・『川西村史』(回答資料6:p.305~p.308) 第4編大正時代 第3章ビート工場 3 十勝鉄道の項・『大正村史』(回答 ...
北限の稲作に挑んだ中山久蔵について。川嶋康男著『北限の稲作にいどむ』で久蔵は嘉永6年仙台藩士片倉英馬に仕え明治3年まで17年間宮城県に滞在した。その17年間の久蔵の事績、片倉家に関する事柄を知りたい。片倉英馬の墓碑に「北海道寒地稲作の祖 中山久蔵を支援」とあるが、この辺の事情が当地では不明。(北海道立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/8/10 12:43:17)
from レファレンス協同データベース (2024/8/10 12:43:17)
蔵書検索及び雑誌記事検索で「片倉英馬」で検索→ヒットなしインターネット及び国立国会図書館デジタルコレクションで「片倉英馬」で検索。→名が載っている資料があるが、嘉永6年~明治3年に関するものなし。蔵書検索で「中山久蔵」で検索、ヒットした資料を調査『中山久蔵の足跡を辿って 調査記録編』(回答資料1)に目次に「仙台藩士片倉英馬に従事した中山久蔵の足跡を辿って 調査記録集Ⅰ」及び「同Ⅱ」あり。これを紹介。貸出可。この資料より『北広島市史』(回答資料2)及び『広島町の歩み』(回答資料3)にある中山久蔵の略伝には以下の記述あり。嘉永六年(一八五三)、仙台に行くと、仙台藩は松前の事業にとりくむところであった(幕命により蝦夷地警備の任務を与えられたこと意味している)、そこで安政 ...
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