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【金沢にかつてあったおでん屋について】 万直しというおでん屋について調べている。金沢で最初のおでん屋と書かれている資料を見た。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:33:52)
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質問者は『大金沢繁昌記』(118273421)を見て質問してきた。同書のp.132に「金澤最初のおでん屋として食通禮讃の的たる「万直し」」という見出しの文章が記載されている。『金沢商工人名録 昭和8年版』(119503141)p.83に「万直し」が記載されていた。「飲食店(おでん)」と記載されている。開業は昭和2年で所在地や氏名が記載されている。戦後の資料では、昭和24年2月現在の『石川県職業別電話番号簿』(118600015)p.49に「万直し」が記載されている。おでん屋とは記載されていない。『特定商工業者名簿 昭和29年度』(119529881)には記載がなかった。『金沢市西南部の歴史』(109068628)p.251に「石坂川岸町の「万直し」(現、勝田パーマ店)」という記述があった。昭和50年頃の住宅地図で勝田パーマ店の所在地を確認後、当館で最も古い昭和38年の住宅地図 ...
・当館HPより『金沢商工人名録 昭和3年版』が閲覧できることを案内。その他の名簿として、 『石川県下商工便覧』(118542593)川崎源太郎 1888年刊の復刻。 『金沢商工人名録』(昭和3,6,8,10,14年) 『金沢商工名鑑』(昭和29年~平成15年 一部抜け)・最新の名簿は見当たらなかったので、職業別電話帳を紹介した。・このほか調査した資料 『明治大正期商工信用録』石川県収録の各巻、国立国会図書館デジタルコレクションの『北陸商工業要録 大正11年』はいずれも飲食業の記載なし。【URL】https://dl.ndl.go.jp/pid/923624/1/1 (2020年7月10日最終閲覧) 『石川県商工要覧』には名簿の記載なし。 『東商信用録』『帝国データバンク会社年鑑』は五十音順。 『北陸三県会社要覧』は企業のみ掲載。
【郵便規則第39条の3について】 現在は廃止された「郵便規則第39条の3」を知りたい。また、現在日本郵便ではどのような規則になっているか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:33:52)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:33:52)
・D1-lowで廃止法令を含めて検索し、上記規則を案内。・「日本郵便」「心身障害者用書籍小包」等をキーワードに検索するも、「心身障害者用ゆうメール」の案内しか見つけられなかった。・日本郵便の「内国郵便約款」https://www.post.japanpost.jp/about/yakkan/1-1.pdf?200501(2020年6月9日閲覧)を見つけ、内容を確認すると、規則に掲載されている内容が重複していたため、これを提供した。
【「義経記」で義経一行が上陸した大野湊の位置について】 「義経記」で義経一行が大野湊に上陸し、粟崎に向かうとの記述がある。義経の時代の大野湊はどこにあったのか。また、金沢リンクスゴルフ場が該当すると聞いて、尋ねてみたところ埋め立て地と教えられた。どのあたりまでが埋め立て地なのか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:33:52)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:33:52)
・『地図で見る金沢の変遷』(118365873)で、平成6年頃、明治42年頃の地図を確認。 金沢リンクスゴルフ場のほとんどが埋め立て地であることが確認できる。・加越能文庫所蔵「加越能三州細密図」(近世史料館所蔵史料データベースでイメージ画像を閲覧可能) 天保時代の海岸線が確認できる。・『海の道と川の道・補遺』(119656946)p63 大野湊は大野川河口の湊で、中世から名が残る。大野川は勾配が緩く、海岸は砂丘のため砂が河口付近に滞積すると流路の変化が大きかったと記載あり。・『大野町史』(119810901)p43 中世の文献に「大野荘湊」の名称が複数登場することが記載されている。 中世の港津は、河川の河口から少し遡った地点にあることが多いことから、大野の集落は、大野川に臨んだ位置で営まれたこと。 日本海沿岸の集落のほ ...
【安政3年の参勤交代の際、13代前田斉泰が二俣に行った理由について】 安政3年4月に江戸を出発した斉泰は、いつもと違うルートで裏街道を通り二俣に寄って、金沢に帰っている。二俣に行った理由が書かれた資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:33:51)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:33:51)
『加賀藩史料 藩末編上巻』(11801640)で二俣に行ったことが書かれていることは、確認済とのこと。質問者としては、その年2月に子の直会が死んでいることと何かつながりがあるのではないかと推測しているとのことだった。・『加能郷土辞彙』(改訂増補)(119865516)で斉泰の子直会を確認、『加賀藩史料 藩末編上巻』p764 に「2月14日子清之介逝去す」の記載あり(清之介は直会の幼名)。・『加賀藩史料 藩末編上巻』p778「御献上紙等御料紙由緒覚帳」に、斉泰が江戸を発つ前に二俣で御料紙の紙すきを見たいと言い、帰国の際、越中から二俣に来たことが書かれていた。・『山の民物語』(118419580)p223に斉泰が江戸から帰還の際、「途を荒山越にとられ二俣なる山田弥次兵衛の紙漉を観られ三ノ坂を経て小坂村」で休憩をとったとの記載あり( ...
【絵馬の奉納者について】 明治36年に絵馬の奉納者として名の見える五宝町の朝岡次三郎という人物について調べている。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:33:51)
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当館所蔵で明治36年に近い年代の商工名鑑を確認したが、五宝町の朝岡姓はなかった。『金沢市史 資料編11 近代1』(119647301)「明治二八年度県税中商業税分賦等級別交名簿」『都道府県別資産家地主総覧 富山編 石川編 福井編』(111825720)「日本全国商工人名録」(明治31年)『明治大正期商工資産信用録 第2巻』(明治42年)(118565346)旧五宝町近辺の地誌情報を記した資料にも記載はなかった。『ひさごのしらべ』(11900260)『瓢箪地区四十周年記念誌』(119611621)『次代に語りつぐひょうたん物語』(119983396)昭和38年の住宅地図を確認したが、五宝町周辺に朝岡姓を確認できず。郷土の絵馬関係の資料でも、手がかりは得られなかった。『芸術学学報 第4号』(109272004)「大野湊神社所蔵の絵馬・扁額悉皆調査の中間報告」『いしかわの歌仙絵馬』(119786495)
代替地を与えられた理由について書かれた資料は確認できなかったので、関連するものとして、別院の縁起が書かれた資料と金沢城下町の都市計画や寺院配置について書かれた資料を案内した。『加越能寺社由来 上巻』(118355330) 「寺社由来書上」p.445「西本願寺金沢別院」に沿革が記されている。『本派本願寺金沢別院本堂調査報告書』(109075515)p.1~「創立と沿革」には、「當別院の旧跡は藩主前田公の居城となり御城替の後、藩祖高徳院殿利家卿の室高畠氏が御城内に於て弥陀仏の像を拾い上げられ、旧主を尋ねて本願寺へ寄附されることになり、これが当別院の再興の端緒となって、天正十一年(一五八三)六月袋町に百間四方の寺地を賜り本堂を再建した。」とまとめられている。近世初期の寺院配置政策については、以下の資料に言 ...
【金沢御堂成立以前の中心勢力について】 金沢御堂成立以前の加賀国の支配の中心勢力について書かれた資料を探している。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:33:51)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:33:51)
金沢御堂成立以前の加賀一向一揆について書かれた資料を調査した。『図説金沢の歴史』(109173982)p.56~57にかけて、支配の中核的存在に関する記述があり、一家衆である加州三ヶ寺がそれまで掌握していたものが、享禄4年の内紛を経て藤島超勝寺と和田本覚寺が中核的存在になっていった旨が記されている。その他、当該期の概要については以下の資料に記載がある。『金沢御堂・金沢城調査報告書 文献史料編 Ⅰ-2 金沢御堂史料編』(109077369)p.7~13「金沢御堂調査の意義と課題」『金沢市史 資料編13 寺社』p.157~「四 真宗」(119585648)『一向一揆という物語』(118606387)『一向一揆の研究』(129177862)『金沢市史 通史編1 原始・古代・中世』(119881707)『小松本覚寺史』(11822362)p.59~「一揆のなかの本覚寺」なお、当館の以下のレファレンス事例も参考 ...
【石浦神社の由緒について】 金沢の石浦神社の由緒について書かれた資料を探している。できれば史料の原文の掲載されているものを見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:33:50)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:33:50)
郷土の地誌書や神社関係の資料を中心に調査した。『金沢古蹟志 第3編』(119865893)p.10~13に「石浦神社」の項目があり、寛延2年の由来書など、近世成立の由緒書が部分引用されている。『加賀志徴 下編』(11824805)p.274~275にかけて「石浦惣社山王」の項目があり、「石浦山長谷寺縁起」や「寛延二年之由来記」の記述が引用されている。『金沢市神社大観』(119555602)や『石川県神社誌』(118412230)p.42の項目に石浦神社の項目はあるが、原文の引用はなかった。上記資料の記述より、石浦神社の旧称の由来書を調査した。『式内社調査報告 第16巻 北陸道』(118610245)p.151~155では、延喜式式内社の三輪神社を石浦神社と位置付けている資料についてまとめている(同書では、他の説に関する資料も紹介している)。その他、以下の資料を紹介した。『石浦 ...
【昭和初期の金沢の火災について】 昭和初期に金沢であった火災について載っている資料はあるか。横安江町辺りが出火元と聞いている。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:33:50)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:33:50)
質問者の述べるものに該当する火災が何かを調査した。『金沢の百年 大正・昭和編』(119871424)の年表や、『石川県災異誌』(119565574)p.204の気象災害年表より、昭和2年4月21日に横安江町辺りから出火した彦三大火と内容が合致したため、同火災に関する資料を調査した。以下の資料に記載があった。『金沢市史 現代篇 下』(119562680)p.343~345『石川県史 現代篇3』(118412759)p.1130~1133『ひさごのしらべ』(11900261)p.28~30『瓢箪地区四十周年記念誌』(119611621)p.70~74『次代に語りつぐひょうたん物語』(119983396)p.70~75『金沢消防のあゆみ』(119566080)p.322~324『金沢市史 資料編12 近代2』(119788883)p.212~219その他、レファレンス協同データベースに、石川県立図書館の以下のレファレンス記録があった。「昭和初期の彦三の大火と、金沢市の都市計画道路の第一 ...
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