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【七福神が宝船に描かれ始めた時期について】 初夢を見るとき、宝船の絵を枕の下に置いて眠ると吉夢をみると言われている。現在は宝船に七福神が乗った絵が一般的だが、いつごろから七福神が描かれるようになったのか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:34:02)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:34:02)
・『年中行事大事典』(112898088)に、古くから初夢に宝船を敷く習慣があったこと、近世に入り、広く庶民にその習慣が広がっていったことなどが記載されている。 絵柄は、千両箱、隠れ蓑笠、砂金袋、珊瑚、分銅などの宝物を積んだ帆掛船「宝貨型宝船」というが多い。・近世に宝船に七福神を乗せた図柄の「乗合七福神型宝船」が登場し、大正時代にこの形が大流行したことが記載されている。・『七福神信仰事典』(111993378)p.42~45に、宝船の変遷について記されている。 初期は、京都五条天神で売り出されたもので、帆も櫂もない船に稲を積んだシンプルなものから進化していった様子が記載されている。・七福神は主に江戸・東京に多く、七福神が乗りこみ回文が書き込まれるようになったのは、明治後期からと記載されている。・p2 ...
『第四高等学校一覧』に第四高等学校の略図が付いており、建物の配置と間取りが記載されている。昭和2年に近いものが希望だったので、当館所蔵で最も年代の近い昭和6年度(119522361)のものを提供した。『超然』(109217165)p.5に、昭和17年の「四高キャンパス平面図」が収録されている。引用元は昭和17年度の『第四高等学校一覧』と記載されている。以下の資料には記載なし。『四高八十年』(119565799)『戦後四高学生史』(118449418)『学都金沢と第四高等学校の軌跡』(119973030)『時の曠野』(118451194)『金沢大学五十年史 通史編』(119776541)『金沢大学五十年史 部局編』(119666890)『金沢大学創基150年史』(118541550)『稿本金沢市史 学事編 第1編~第4編』『金沢市教育史稿』(118290979)『石川県教育史 第1巻』(119565618)
【東新地の絵図について】 近世後期から明治にかけての金沢の東新地の絵図(屋号と区画のわかるもの)はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:34:02)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:34:02)
近世後期の屋号と区画のわかる資料として以下のものがある。『金沢町絵図』(119618551)(文化8年)「浅野川茶屋町創立之図」原本は石川県立図書館が所蔵している。『芝居と茶屋町』(11824854)と『金沢市文化財紀要 6 旧東のくるわ』(119573530)に収録されている。明治以降については、区画と屋号がセットで記載されている資料がない。以下の資料に屋号の記載がある。『東新地細見菊くらべ』(特21.3-77)『金城三廓 花の見立』(K3-100)上記2つの資料は『金沢市史 資料編14 民俗』(119748725)で紹介されている。『金沢市文化財紀要 6 旧東のくるわ』には、明治20年(1887)の地番と区画のわかる図が収録されている。『近代公娼制度の社会史的研究』(118618824)にも、資料の写真が収録されている。
【仙叟宗室の屋敷跡について】 金沢の大手町にある茶室は、かつての千宗室(仙叟宗室)の屋敷跡だったという看板を見たが、それに関する資料はあるか。また、茶室のある場所には、かつて旅館が2件入れ替わり存在したと聞いたが、関連する資料はあるか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:34:02)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:34:02)
茶室関係の資料を中心に調査をした。『現代に息づく茶道のまち金沢の茶室』(109128412)p.176~177「好古庵」「裏千家四代千仙叟宗室の屋敷跡地である。」との記述がある。以下の資料に、宗室の屋敷が味噌蔵町にあった旨の記述がある。『金沢古蹟志 第3編』(119865893)p.72「千宗室旧邸」『仙叟宗室居士』(109096453)p.61「味噌蔵町に住し、臘月庵を営む」『裏千家今日庵歴代 第4巻 仙叟宗室』(119993866)p.50『淡交 1995年9月号』(170043982)「金沢の仙叟居士居宅について」居宅の位置に関する考証がなされている。石川県立図書館ホームページで「寛文七年金沢図」を確認すると、味噌蔵町の辺りに「千宗室」の屋敷地を確認できる。【URL】https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1700105100/1700105100100060/ht020010 (2021年2月17日最終閲覧)宗室邸跡にあった旅館について、 ...
『加越能寺社由来 下巻』(118355320)には収録されていない。以下の資料に記載がある。『石川県江沼郡誌』(11824572)p.1067「直下菅原神社」『加賀市史 通史 上巻』p.975~「神社明細帳」が収録されており、p.990に「直下菅原神社」がある。『石川県神社誌』p.108(118412230)「直下菅原神社」
【本多政均(ほんだまさちか)の銅像について】 金沢の大乗寺にあった本多政均の銅像が建設及び撤去された年代を知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:34:01)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:34:01)
銅造の建設については、以下の資料に記載があり、大正2年(1913)の建設であることがわかる。『加賀大乗寺史』(初版)(119573567)『鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編 64』「記憶のかたち : 本多政均暗殺事件と仇討ち」※鹿児島大学リポジトリで公開されている。【URL】http://hdl.handle.net/10232/18883 (2021年2月10日最終閲覧)石川県立図書館の「本多政均関係文書」のなかに建設関係の資料がある。一覧がPDFで公開されている。【URL】https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/syozou/hondamasachika.pdf (2021年2月10日最終閲覧)『偉人の俤 銅像写真集 資料篇』(113055493)p.428~429では、大正10年(1921)の建設となっている。政均像の存失理由は「不詳」となっている。『加賀大乗寺史』(増補版)(118328430)「大乗寺年表」p.218~219によると、政均像は昭和18年(1943)に太平洋戦 ...
以下の資料に記載がある。『加能真宗僧英伝』(119562376)p.202 経歴のみ。『現代石川の百人 青少年座右銘 上』(11919439)p.72 経歴と肖像あり。『永遠への道』(11041989)信勝の自伝。 写真あり。『北國文華 2004年秋』(170309010)p.129~139 子息勝道による信勝についてのエッセイあり。写真も収録されている。『ほくりく20世紀列伝 下巻』(118488210)p.46~55 写真あり。『ふるさと人物伝』(118527452)p.651 写真あり。
【郷土史家日置謙の『加賀藩史料』編纂について】 郷土史家日置謙がいつまで前田家編輯員として『加賀藩史料』の編纂を委嘱されていたかを知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:34:00)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:34:00)
日置の没後12年後に刊行された『加賀藩史料』藩末編上下巻の奥付に、日置の名前が記されている経緯について、理由の記されている資料は確認できなかった。『加賀藩史料』全18巻の中で、最後(昭和33年)に出版された藩末編上下巻の奥付には「就業 前田育徳会嘱託日置謙」と記されている。以下の資料では、日置が昭和3年4月に前田育徳会から編纂を委嘱された旨が記されている。免職された旨は記されていない。『功業不磨』(119552496)p.88~「日置謙伝」、p.97~「出版年譜」県史編纂の嘱託を、『石川県史』全五巻完結をもって一度解かれた旨は記されているが、侯爵前田家の編輯員を解かれた旨は記されていない。『日置謙先生研究』(11902385)p.20~24「日置謙先生年譜」年譜中で、「嘱託ヲ解ク 石川県」と、県史の嘱託を解かれたことの ...
【ダム水没前の集落を写した写真について】 白山麓の旧桑島集落のダム水没前の写真が載っている資料を見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:34:00)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:34:00)
白山市桑島地区は、手取川ダム建設に伴い旧集落は昭和54年に水没し、代替地に移転した。『白峰村史 上巻』(119562590)巻頭写真の中に、旧集落の航空写真や施設の写真がある。『白峰村史 第3巻』(118287570)巻頭に水没前と水没後の桑島地区の写真がある。『桑島の里』(11909683)巻頭に旧集落の写真が掲載されている。『白山麓島村山口家杉原家文書目録』(119537640)『白山麓島村諸家文書目録』(128007278)上記目録には、いずれも巻頭に集落の写真が収録されている。『ダムとふるさと』(119921778)p.12~21にかけて桑島のことが書かれていて、写真も多数収録されている。『白峰村手取川ダム誌』(11913621)には、主に移転後の写真が収録されている。『石川県石川郡白峰村桑島館跡』(119554445)は発掘調査報告書のため、水没前かつ建物撤去後の写真が収録さ ...
【柿木畠の伝承について】 金沢の柿木畠に、河童にまつわる伝承があると何かで見たが、その詳細について知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:34:00)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:34:00)
河童に関する伝承は確認できなかったが、川獺に関する伝承は確認されたため、紹介したところ、見た話と近いとのことであったので、川獺の伝承に関する資料を紹介した。以下の資料に記載がある。『金沢・柿木畠』(109069984)p.25~26に川獺関係の逸話数種類のあらましが記載されている。『金沢古蹟志 第5編』(119865919)巻十三p.15~19「柿木畠伝話」に、人を誑かす川獺の話が収録されている。『加賀・能登の伝承』(11823865)、『金沢の民話と伝説』(11824201)、『金沢市文化財紀要 25-1 金沢市口頭伝承調査報告書』(11906968)、『日本昔話通観 第11巻 富山・石川・福井』(11802708)等、金沢の昔話や民話をまとめた資料では、柿木畠の川獺に関する話は確認されなかった。
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