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【百万石まつりの傘鉾について】 むかしの百万石まつり又はその前身の祭りに傘鉾が出ていたらしいのだが、その写真はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:32:32)
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『加越能の曳山祭』(118364670)p.317-325「傘鉾から曳山へ」によると、傘鉾は依代となるホコと、ホコを飾りたてる傘が一体となったもので、京都祇園祭などでみられる。曳山の原型の一つとされ、高岡、福野、城端など越中地方の曳山との関係が深い。加賀地方では、三輪車の曳山が傘鉾から始められたものと思われ、美川、金石、松任の三輪曳山が傘鉾と関係があるとのこと。『旧藩祖三百年祭と金沢の祭 盆正月から百万石まつりへ』(109180637)p.12「46 尾山神社昇格慶賀祭御分霊神輿渡御行列」に傘鉾らしき絵が描かれている。『金石町誌』(11801960)巻頭写真「第11図 大野湊神社千二百年祭行列ノ図」及び下記ホームページの同図に傘鉾らしき絵が描かれている。金沢市立玉川図書館近世史料館 平成23年 新春展 宮越から金石へ【URL】https://www2.lib ...
【戦前の湯涌の地図について】 「湯涌温泉濫觴記」に湯涌の地図が載っていないか。湯涌の1920年から戦前にかけての地図はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:32:32)
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○湯涌温泉濫觴記について近世史料館氏家文庫特13.0-31「湯涌温泉濫觴記」は氏家栄太郎の手写で、地図は収録されていない。『汲古雑録』(119546962)p.92-107に「湯涌温泉濫觴記」の活字が収録されている。湯涌の地図は収録されていない。○湯涌の地図について『ゆわく』(119570627)p.76及び『ふる里』(109068780)p.5に「湯涌谷村誌」所収の簡略な地図が収録されている。集落内の建物の配置等は記載されていない。陸地測量部発行二万分一地形図に「湯涌」があるが、集落内の建物配置等は判読できない。『金沢市詳細図』(昭和38年発行)(118407249)p.133に湯涌温泉の地図が収録されている。
石川県立図書館ホームページ「石川県関係人物文献検索」により、以下の文献を紹介した。『加能郷土辞彙』(初版)p.229「木越三右衛門」『金沢墓誌』(118582759)上編p.38「木越三右衛門」『加賀能登故工芸作家名鑑』(118408353)p.23-24「木越正之=中興初代三右衛門」『石川県史 第3編』p.768-769「木越氏」その他、以下の文献に記載があった。『金沢工業沿革誌料』(119439363)p.34「横河九左衛門及其門人木越三右衛門ノ如キ名工出テヽ大ニ其技ヲ振フ」、p.57-60「木越氏」「中興初代正之 通称三右衛門幼ニシテ横河長久(俗ニ名人九右衛門ト称ス)ノ工場ニ入リテ冶業ヲ習ヒ年十八ノ時師ノ命ニヨリ小立野天徳寺ノ梵鐘ヲ造リ大ニ賞誉セラル」と記載されている。『金沢の伝統文化』(119565028)p.101-102「通称三右衛門と称し河北郡木越村の農民出身で横川長 ...
【飯田景応について】 金沢市出身の作曲家、飯田景応が昭和29年に並木町の北國劇場又は北国第一劇場で自身の音楽生活25周年記念の会を開催したことが書かれた新聞記事が見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:32:31)
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『金沢の百年 大正・昭和編』(市史年表)(109089889)に飯田景応の記載なし。石川県立図書館ホームページ「石川県関係人物文献検索」によると、以下の文献に飯田景応の記載がある。『加能人 1999年8月号』(170162535)p.4-5「金沢生まれの名作曲家「飯田景応」」 高原重兵衛/著『加能人 2000年7月号』(179018327)p.3-4「わが青春の「飯田景応」」 高原重兵衛/著『石川県大百科事典』(1993年刊行)(118310632)p.37「飯田景応」また、以下の文献にも記載がある。『日本の作曲家 近現代音楽人名事典』(112976059)p.37「飯田景応 [生]1916年(大正5年)2月5日 [没]1967年(昭和47年)1月3日」北國新聞データベースにより以下の記事が見つかった。北國新聞 2002年(平成14年)7月8日 朝刊 9面「歌謡界で活躍の県人二人」 高原重兵衛/著北國新聞 2010年(平成22年)12月18日 朝刊 32面「飯 ...
『加賀の道 1 歴史の道調査報告書 第3集』(119594941)p.30-40「第三節 二俣越」p.33「安政三年(一八五六)一三代藩主前田斉泰は、総勢一八三〇人ほどのお供と共に参勤交代で江戸から金沢へ帰国の際、高岡から城端へ廻り、二俣越を通って金沢に帰っている」と記載されている。北國新聞 2010年(平成22年)12月18日 朝刊 32面「異例の参勤交代ルートを歩く」「先日、加賀藩史料に加賀藩13代藩主前田斉泰が参勤交代の帰国時、1856(安政3)年4月4日江戸を発駕し、14日高岡宿泊、15日城端宿泊、16日金沢城帰着との記載に関心を持った。南砺市立図書館中央図書館を訪ね、南砺市坂本から金沢市二俣までのルート(殿様道)を詳細に教えていただいた。次に金沢市立玉川図書館近世史料館で二俣から御所、大樋に至る参勤交代の一行が通ったルートを詳細に教 ...
『砂糖の文化誌』(112998637)P.102 「南蛮菓子から洋菓子へ」金平糖の作り方の記載あり。日本では漢字で「金平糖」もしくは「金米糖」などとあらわされ、米やゴマの核(種)に砂糖蜜を何度もかけて周りを結晶化させて作られたもの。『砂糖の事典』(112800046)P.140 「金平糖」 寺田寅彦について、金平糖の作り方の記載あり。寺田寅彦(1878~1935)は金平糖の角がどうしてできるのかというテーマがお気に入りだった。金平糖は斜めに回転する鍋のなかで芯(グラニュー糖やいら粉)に砂糖蜜を少しずつかけて作るが、結晶を大きくしていくことや凹凸、角の大きさや数がどうして決まるかを学問的に興味深い問題であると考えていた。『寺田寅彦随筆集 第四巻』(119342149)P.30 「自然界の縞模様」 金平糖の凸凹した形の経緯や推測の記載あり。ある ...
【御用聞町人について】 加賀藩出入り業者の江戸の乗物師、中嶋屋清右衛門という駕籠作りを生業にした人物について書かれた本はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:32:30)
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国立国会図書館サーチに該当なし。Google検索及びGoogleブックス検索により、以下の図書が見つかった。『三田商学研究 40(4)』「日本橋新乗物町史覚書:問屋と街」 白石孝/著【URL】http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00234698-19971000-00685866『日本橋街並み商業史』(112099994)p.235「『江戸買物独案内』をみると、「御乗物師・中嶋屋清右衛門」の名がでている。この中嶋屋はこの町に二ヶ所の土地を持っていた」 近世史料館の史料を使った以下の図書に中嶋屋清右衛門と思われる人物の名前が見つかった。『岩波講座日本通史 第15巻』(111630012)p.156「表4 御手役者・御用聞町人への扶持(1869年2・3月)」の3人扶持の項に中嶋清右衛門の名前がみえる。出典は「御手役者并御用聞町人一件」(金沢市立図書館「加越能文庫」特16.45-30)であ ...
明治初年の兼六園(当時は兼六公園とも)の写真は見つからなかった。明治後期の写真が掲載されている資料は以下のとおり。『金沢新繁昌記』(1902年発行)(118588055)兼六公園翠瀧・兼六公園夕顔亭(蓮池・竹根石・邯鄲手水鉢)・兼六公園の噴水・兼六公園霞ヶ池・兼六公園明治紀念之標・兼六公園の金城霊沢(鳳凰山)(霊沢碑)・兼六公園成巽閣・兼六公園曲水・兼六公園霞ヶ池・兼六公園旭桜(雁行橋)『金沢要覧』(1909年発行)(118402171)翠瀧・霞ヶ池・旭桜・明治記念標・瓢亭・夕顔亭・根上リ松・勅使橋・金沢神社・成巽閣・曲水・塩竈桜・落葉松・千歳台・黄門橋『金沢写真案内記』(1909年発行)(119511466)兼六公園(松濤坂下より見たる瓢池・松濤坂下より見たる常盤岡・千歳台より見たる霞池・玩月橋辺の遠眺・福寿山下曲水々辺の景・兼六公園・ ...
【石高と俵数の換算について】 1石は何俵に相当するのか。たしか4俵と聞いたことがあるのだが。私の先祖は200石取の武士だったのだが、明治3年の由緒帳には切米80俵余と記されており、計算が合わない。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:32:30)
from レファレンス協同データベース (2024/3/29 0:32:30)
○全国『日本国語大辞典 第5巻』(112272768)p.561「こく【石・斛】」によると、石は尺貫法による容積の単位で、1石は約180リットルにあたる。一方、『日本国語大辞典 第11巻』(112306481)p.514「ひょう【俵】」によると、古代には五斗を一俵とする定めであったが、のち、地域により五斗から二斗までの差を生じた。明治以後、四斗に統一されたと記されている。『図解単位の歴史辞典』(111125632)p.228-229「ひょう【俵】」にも「江戸時代末期には地域的に荷姿が規格化されて、三つ俵(三斗三升三合入り)、四斗俵、五斗俵などとなる。このどれをとるのかは藩によって異なり」と記されている。○加賀『加賀藩農政史考』(118546645)p.433「加賀藩収納米俵量の事」には「俵量は時々変動ありて、一定せず」、天正15年までは3斗俵(今の4斗5升くらい)、天正16 ...
石川県関係人物文献検索に名前なし。『加賀の茶道』(11822488)p.93に「桑原宗宣筆録になる一書が、宗宣の門弟であった小笠原家に伝わっている」と記されている。また、p.174-175「昔話 乾益次郎」の項に「茶道は裏千家流、桑原宗貞の薫陶をうけられた」と記されている。『加賀の茶室』(118415536)p.278「桑原家歴代」に「宗宜は真野宗古、湯川宗俊とともに同流の北陸三哲といわれ、明治の終わりに八十余歳で没した」と記されている。Google検索により、以下の文献が見つかった。『山梨大学教育人間科学部紀要 11巻』p.329-341「近代数寄者の地域的展開 関西・中京・金沢」 斎藤康彦/著 p.33-3409に裏千家11世玄々斎精中の直弟子として「桑原宗宜」、その門人に「桑原宗定」の名前が記されている。山梨大学学術リポジトリ【URL】http://opac.lib.yamana ...
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