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此花区内には安治川沿いには多いときで10箇所ほどの渡しがありましたが、現在は天保山(港区築港3丁目)と此花区桜島3丁目を結ぶ天保山渡船場だけになっています。以下の資料に「此花区の渡船」について記述が見つかりました。(1) 国立国会図書館デジタルコレクション『此花区史』(大阪市此花区 1955) (図書館・個人送信限定) https://dl.ndl.go.jp/pid/3008454/1/70 (2024.3.2確認)p.92-93 (コマ番号70)「第二編 各説 第五章 渡船」の「渡船の市営」の項、「明治三十八年天保山渡船場が始めて市営となり、翌三十九年市内全渡船場の市営が認められ、大阪府より有料経営の認可があつた。また四十年より市営名義に改められ請負経営によった。」とあり、p.93「安治川墜道」の項に「昭和十九年九月十五日十カ年の歳月と約二百五十万円の巨額が投ぜられ ...
祖母が森小路1丁目か2丁目の古市幼稚園に通っていたらしい。昭和18年から昭和20年に存在していたのは確かで、昭和のはじめごろにはあったと思う。今はもうないとのことだが、どこにあったのか、またいつからいつまであったかを知りたい。(大阪市立中央図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/3/7 10:45:28)
from レファレンス協同データベース (2025/3/7 10:45:28)
以下の資料に古市幼稚園の記載がありましたのでご紹介します。なお、いつまで存在したかについて明記されている資料は見つかりませんでした。(1) 『大阪市学事要覧 昭和10年度』(大阪市教育部編 大阪市教育部 1936)「第十編 附録 Ⅱ.私立各種学校及幼稚園(昭和10年5月1日現在)」のp.292に校名「古市」の項があり、位置は「旭区今市町」、創立年月は「大正14.4」とあります。(2) 『大阪府学事職員録 昭和17年度版』(教育通信社編 実業日報社 1942.7)「幼稚園 私立幼稚園一覧」のp.341に「古市幼稚園」の項があり、所在地は「旭区今市町一〇七五」とあります。なお、昭和18年度以降に出版された『大阪府学事職員録』には私立幼稚園の収録がありませんでした。(3) 『大阪市学校幼稚園其他一覧』(大阪市役所教育局編 大阪市役 ...
明治時代にあったという「中之島監獄」について、所在地、規模、収容状況、その他(堀川への移転理由、移転後の跡地活用など)を知りたい。(大阪市立中央図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/3/7 10:44:27)
from レファレンス協同データベース (2025/3/7 10:44:27)
明治6年4月に大阪裁判所構内(大阪市北区中之島1丁目)に監倉が新設されます。明治13年に監倉は「未決監獄分署」に改称となり、その後、「中之島監獄分署」、「大阪府監獄中之島分署」、「中之島監獄」と改称された後、明治20年7月に堀川監獄に移転合併されました。以下の資料に関連記述が見つかりました。1.「中之島監獄」の所在地、規模、収容状況等について明治14年から19年の『大阪府統計書』に中之島監獄(未決監獄・中之島分署)の記載があります。なお、それ以前の『大阪府統計書』は、当館、大阪府立図書館、国立国会図書館とも所蔵がありませんでした。(1) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪府統計書 明治14年』 (大阪府 明15-44) (インターネット公開) https://dl.ndl.go.jp/pid/807135/1/36 (2024.2.23確認)p.58-61(コマ番号35-36)「庁舎 ...
関連する記述のある資料を以下にご紹介します。1.竣工から平成期の保存・再生工事までまとまった記述のある資料(1) 『重要文化財大阪市中央公会堂保存・再生工事報告書』(大阪市教育委員会/編集 大阪市 2003.3)中央公会堂についての資料です。「第2章 大阪市中央公会堂の建築と改修履歴」や「第3章 保存・再生工事の計画」等の章があり、それぞれ詳細な記述があります。「史料」として「設計競技に関する史料」や「創建当初の公会堂に関する史料」等も掲載されています。2.主に竣工時の建築について記述のある資料(2) 大阪大学学術情報庫:山形政昭「大阪市立中央公会堂の建築様式と意匠について」『デザイン理論 』42号(意匠学会 2003.05)p.116-117https://doi.org/10.18910/53125 (2024.9.2確認)(3) 国立国会図書館デジタルコレクション『芸術 : 大 ...
「住吉高燈籠」とは、わが国初の灯台とされる史跡です。鎌倉時代末期に住吉の浜に建てられ、明治41年に改築されるも昭和25年のジェーン台風で倒壊しました。その後、昭和49年に現在地に移築復元されました。下記資料に住吉高燈籠についての記載があります。(1)『住吉区史』(大阪都市協会/編集 住之江区制十周年記念事業実行委員会 1985)p.142に「鎌倉時代末期に住吉浦の漁民らが、住吉大社への献灯と航海安全を祈って立てたといわれる高燈籠は、高さが石垣積みを含めて十六メートルもあり、わが国初の灯台であった。(中略)上部の木造灯室は明治四十一年に改築されたが、これも昭和二十五年のジェーン台風で壊れ、(中略)四十九年十月、住吉名勝保存会が訳二百メートル東の国道二十六号線西側の住吉公園に石垣積みを移して復元し ...
「強頸断間(こわくびのたえま)」とは「日本書紀」の伝説によるもので、武蔵の人、強頸が人柱にされた淀川、茨田(まんだ)堤の決壊地(断間)のことです。以下の資料に強頸断間に関する記述がありました。強頸断間の伝説については、(1)『日本古典文学全集3 日本書紀2』(小学館 1996.10)p.37の解説部分に「茨田堤を築くのに、二か所の切れ目を防ぐ難工事があった。川の神の人身御供として二人の男が選ばれる。強頸は川に沈み、切れ目は塞がる。衫子は川の神と誓約をして勝ち、堤が完成する。世に「強頸断間・衫子断間」という」との記載があります。強頸断間の場所については、(2) 『日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1』(平凡社 2001.7)「旭区」のp.613「強頸断間」の項に「「日本書紀」仁徳天皇一一年一〇月条に、武蔵の人強 ...
以下の資料に阿遅速雄神社のお蔭燈籠について記述が見つかりました。(1)『お蔭参りとお蔭燈籠』(牧村 史陽/著 史陽選集刊行会 1970.4)p.107-136に「お陰灯籠」の項があり、p.107に「伊勢神宮の式年をかこつけに特におかげ参りが流行し、同時におかげ踊りがさかんに行われるとともに、各村々では大神宮への献灯を建て、その棹石に「おかげ」と彫ってそれを記念するようになった。」との記述があります。またp.130に「大阪市城東区放出町(片町線放出駅北東すぐ)阿遅速雄神社 慶応四年戌辰三月 太神宮 おかけ 大型、高さ約三・○m、壇上積式基盤上。下段に、寄進者二十五人、世話人十二人、「松屋町石工源助」の刻銘がある。」と記載があります。(2)『近代大阪の史跡探訪:改訂新版(ナンバーガイド 37)』(大岡 欽治/編 ナンバ ...
以下の資料に「昭和山の由来」について記述が見つかりました。(1)『大正区史』(大阪都市協会/編集 大正区制施行五十周年記念事業委員会 1983) p.144-145に、「昭和山」という人工の山を造ることになった「千島計画」についての記述があり、「昭和43年9月から始まった大正運河の埋め立てに関連して、同44年9月、大阪市が発表した構想で、大正区のほぼ中央、もと大正運河や貯木池、木場のあった千島町一帯に「港の見える丘」(標高35メートル)を造り、その周囲に、高層住宅はじめ区総合庁舎や体育館、グラウンドを設けるという計画で、広さは17.7ヘクタールに及ぶ。(中略)この山造りのため、当時、万国博関連工事で建設が急がれていた地下鉄工事の残土など約170万立方メートル(ダンプカー57万台分)の土砂が盛り上げられた。」「昭和45 ...
大阪市東区南久宝寺町にあった土田天狗屋商店について知りたい。明治から昭和期にカルタや花札を製造販売していた。広告や価格表など、扱っていた商品が分かる資料があればなお良い。(大阪市立中央図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/3/7 10:38:38)
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土田天狗屋について、記載があった資料を以下にご紹介します。資料(1)(2)は土田天狗屋が発行元の資料です。(1) 国立国会図書館デジタルコレクション『花合八十八使用法』 (土田鶴松 著 土田天狗屋 明25.8)(インターネット公開(裁定))https://dl.ndl.go.jp/pid/861679/1/23 (2024.3.10確認)十九丁-二十丁(コマ番号23-24)に「天狗屋製品目録」があり、取扱商品の掲載があります。一部商品は価格の記載もあります。なお、奥付(コマ番号25)に記載されている発行元 土田天狗屋商店の住所は「大阪市西区新町通壱丁目」です。(2) 国立国会図書館デジタルコレクション『弄花憲法』 (鞍馬山人 編 土田天狗屋 明27.2)(インターネット公開(保護期間満了))https://dl.ndl.go.jp/pid/850203/1/12 (2024.3.10確認)p.18-20(コマ番号12-13)に「粋遊便利至急公告」の項があり、 ...
明治7年に神戸-大阪間の鉄道が開業した後、現在の大阪中央卸売市場付近まで通称「安治川支線」が敷設されているが、これに関する資料はないか。(大阪市立中央図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/3/7 10:37:36)
from レファレンス協同データベース (2025/3/7 10:37:36)
安治川枝線は明治8年5月1日に開通、貨客輸送を始めます。現中央市場前の安治川は全国の物資が集散する水運の玄関口であり、安治川枝線はその水陸輸送の結節点となりました。当時の時刻表によると1日何往復もしていましたが、明治10年11月に堂島川から梅田停車場西側の船溜まりまでの運河が完成すると、そちらが貨物の積下ろしに利用されるようになり、安治川枝線は明治10年12月1日に廃止となりました。(資料(1)(2)(5)の記述より)なお、資料によって表記が割れており、「安治川支線」と書かれている資料もありますが、『福島区史』『明治大正大阪市史』などでは「安治川枝線」と表記されていました。関連する記述がある資料を、以下にご紹介します。(1) 『福島区史』 (大阪都市協会/編集 福島区制施行五十周年記念事業実行委員 ...
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