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『加賀藩八家』金沢市観光協会/編(金沢市観光協会、1971年)(11916504)p.6「文久初め幕末の八家(年寄中)」・・・家紋の名前の記載あり。家紋の絵はなし。・前田土佐守直信:木瓜ノ内梅鉢・奥村河内守栄通:丸ノ内九枚笹・本多播磨守政均:丸ノ内立菱・長大隅守連恭:銭九曜・横山三左衛門隆平:丸ノ内万字・前田弾番孝敬:角ノ内梅鉢・村井又兵衛長在:丸ノ内上羽蝶・奥村内膳直温:丸ノ内九枚笹『月刊北國アクタス 1990年1月号』p.36「加賀八家 8人の男たちの「平成」」・・・加賀八家の配置図に家紋あり。『加賀藩八家墳墓史』八木士郎/編(1993年)(119458805)p.149「加賀八家の定紋」・・・加賀八家の家紋の絵(侍帳のコピー)と説明あり。
『原色陶器大辞典』加藤唐九郎/編(淡交社、1972年)(11823174)「わくらやき(和倉焼)石川県鹿島郡和倉(七尾市和倉町)の産。1898年(明治31年)同地の有志が計画して石川県能美郡八幡(小松市八幡)の陶工瀬川新次を迎え和倉陶器会社を創立し、温泉土産の雑陶をつくったが2,3年で廃した。(松本佐太郎)」『定本 九谷』松本佐太郎/著(宝雲舎、1940年)(119565420)p.314「和倉焼 明治31年能美郡八幡の松原新次は松本佐平の紹介を以て七尾市の樋爪譲太郎氏等後援の下に能登和倉温泉に和倉焼を創めたが2,3年にして廃陶した。」「北国新聞」2003年11月19日(水)朝刊p.19「幻の和倉焼、気軽に拝見 湯の街散策の魅力アップ 21日から地元商店街で無料ギャラリー」・・・「和倉焼は1898(明治31)年の七尾―金沢間の鉄道開通を機に地元の海運業樋爪穣太郎をスポンサーに ...
○食物・農産物・『食の地図』(帝国書院、2009年)(113023533)p.165「石垣牛」、「かまぼこ」・『石垣・宮古 西表島 10-11』(昭文社、2010年)(113046556)p.53「八重山そば」・『沖縄県の地名』(平凡社、2002年)(112373798)p.654「パイナップル」、「サトウキビ」○工芸品・『沖縄県の歴史散歩』(山川出版社、2014年)(111562763)p.289「八重山上布」・『日本の伝統工芸 12 九州 Ⅱ・沖縄』(ぎょうせい、1985年)(11068737)p.28「八重山上布」・『カラー沖縄工芸の魅力』(淡交社、1975年)(129399397)p.233「八重山上布」、p.240「アンガマ面」・『伝統的工芸品の本』(同友館、2003年)(112546693)p.37「八重山ミンサー」、p.38「八重山上布」・『琉球の伝統工芸』(河出書房新社、2002年)(112387434)p.71「八重山上布」・『全国伝統的工芸品総覧』(ぎょうせい、2003年)(118451102)p.352「八重山上布 ...
『尾山神社誌』(119872216)P191 尾山商店街全景(新設当時)の写真が掲載されている。「尾山商店街一件」について記載あり。「尾山商店街一件」というのは、神社前面の玉垣の下から辰巳用水に流れる小川との間の崖全部を金沢彦三商店街組合へ譲渡した一件のこと。『20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜』(改編版)(118388152)、『尾山』(109043594)尾山商店街に関係の記載はない。『金沢市商店街連盟創立60周年』(119477426)P50 上部左 尾山神社前商店街振興組合の課題と展望の記載あり。『商店街の繁栄で拓く明日の金沢』(11916664)P79 尾山神社前商店街復興組合の理事長名、専務理事名、会計理事名、理事名、監事名、成り立ち、あらまし、課題と展望、構成員数の記載あり。『金沢商店街のあゆみ』(119871460)P170~P172 尾山神社、尾山飲食店街、尾山 ...
『金沢市文化財紀要 25-1 金沢の昔話と伝説』(金沢市教育委員会、1981年)(11802434)p.150「炒り豆御坊<蓮如伝説>」「豆寺の縁起<蓮如伝説>」『蘇る蓮如 五百回忌』小倉正一郎/著(中日新聞北陸本社、1998年)(118424221)・・・蓮如ゆかりの寺としてp.124-「善性寺」(金沢市四十万町)、p.136-「本泉寺」(金沢市二俣町)を挙げる。『蓮如さん』加能民俗の会/編(橋本確文堂、1988年)(119802285)p.86-106「蓮如さんの足跡」(金沢市四十万町、久安町、西堀川町、卯辰町、無量寺町、神宮寺町、蓮如町、蚊爪町、木越町、才田町、二俣町、砂子坂町)『蓮如と真宗行事』西山郷史/著(木耳社、1990年)(119335959)p.26「金沢の蓮如忌」『蓮如のたどった道をたずねる』(城東地区公民館連絡協議会、2000年)(119718708)「蓮如と二俣本泉寺」など、木越祐馨氏の講演録である。 ...
○著書『謡曲・狂言』(有精堂、1981年)(11030749)p.169-178横道万里雄「実盛のはなし」・・・東京能楽鑑賞会講演「実盛」(観世銕之丞)に先立って行われた能楽講座(昭和39年9月10日)の筆録。『謡曲を読もう』夕田謙二/著(弦書房、2012年)(113281690)p.105「45 実盛」・・・実盛成立の背景に時宗派の隆盛があったことを指摘している。『カラー百科見る・知る・読む 能五十番』小林保治・石黒吉次郎/編(勉誠出版、2013年)(113425191)p.157-161「実盛」・・・「演技の風情の序破急」を念頭に、平家物語における話の流れを再構成していることを指摘している。『能を読む 2 世阿弥』梅原猛/監修(角川学芸出版、2013年)(113430727)p.210-223「実盛」・・・「『満済准后日記』応永21年(1414)5月11日条に、過ぐる3月11日に、加賀篠原に斎藤別当実盛の亡霊が現れて、遊行 ...
【弥七の豆がら太鼓について】 金沢の民話「弥七の豆がら太鼓」に出てくる三つのお寺の名前を知りたい。(薬師町の本興寺で民話の朗読会が行われた際にもらった本興寺のパンフレットに掲載されていたとのこと。本町の西福寺、薬師町の本興寺ともう一つがどこだったか。)(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:16)
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「弥七の豆がら太鼓」の民話は、以下の資料に収録されている。『金沢の民話と伝説』金沢こども読書研究会/編(1984年)(11824201)p.102-109「弥七の豆がら太鼓」また、「弥七」については、以下の資料に説明あり。『加賀・能登の民話』清酒時男/編(未来社、1959年)(118412131)p.130-132「弥七」、出典は『石川郡誌』とある。『石川県石川郡誌』(「石川県石川郡自治協会」昭和2年刊の復刻) p.540-543「弥七」、出典は「加賀古跡誌」(所在不明)、『亀の尾の記』(118511828)、『金沢古蹟志』など。『加能郷土辞彙』(初版)p.859「弥七」このうち、「豆がら太鼓」を所蔵する寺院名として、『金沢の民話と伝説』に「西福寺」が出てくる。また、『石川県石川郡誌』(「石川県石川郡自治協会」昭和2年刊の復刻) は『亀の尾の記』に基づき、「西福寺」と「珠洲 ...
『角川日本地名大辞典17 石川県』(角川学芸出版、2009年)p.70「安宅新 明治22年~昭和15年の牧村の大字名。(中略)昭和15年には小規模ながらも機業場10工場を数えた。」『小松市史 第2巻』(小松市史編修委員会、1956年)p.142「興津機業場(職工13名) 木下機業場(12名) 田中機業場(12名) 藤本機業場(8名) 田中機業場(8名) 吉川機業場(7名) 岡田機業場(7名) 木村機業場(7名) 亀田機業場(6名) 山川機業場(5名)」『小松の軌跡』松下正信/編(同、1986年)(11921123)p.43「小松市制前の各町村の実態 牧村 人口3,399 戸数565 産業 農業が主産業で副業として漁業・養蚕・わら工芸類がこれについでいる。なお近年、絹織物の生産に従事するものが増加し、業者数70を数えている。」『安宅新町史』岡田孝/著(石川県小松市安宅新町、1994年)p.300「昭和7年(1932)織物業(興津・吉川 ...
『図説染織技術事典』(111158295)手書き染めの一種に無線友禅がある。 手書き染めを含めた、染の技法について記載あり。『加賀友禅』(119994380)p.56「滲みを防ぐために生地に豆汁(ごじる)と少量の布海苔(ふのり)で地入れをしてから、染料液を筆や刷毛につけて、じかに生地に絵模様を描く無線友禅という技法もある。」と記載あり。その他、無線友禅の定義が載っているのは、以下の通りである。『日本の染織1 友禅』(129407837)p.210『これだけ知れば10倍楽しくなる!きもの用語事典』(113243850)p.126『新装版染織事典日本の伝統染織のすべて』(111421630)p.387
・『角川日本地名大辞典 17 石川県』(118552562)p.288に記載あり。しかし「亀坂」の由来については書かれていない。・『加能郷土辞彙』(改訂増補)p.223に記載あり。「亀坂」の由来については定かではないと説明されている。・『金沢市文化財紀要 289 金沢市歴史のまちしるべ案内』(109185633)p.177に記載あり。加賀藩初期、石引町付近は深い谷であったが、戸室石を運ぶため、埋めて次第に勾配を緩くした。由来は明らかでないと説明されている。・『金澤古蹟志』(119865900)【巻十一】p.62に記載あり。戸室石を運ぶために埋めて坂を作った。由来は明らかではないと記載されている。・『戸室石引き道』(11911200)p.20に記載あり。「亀坂」を作った理由は戸室石運搬の為、もともと谷であった場所を埋めて少々凹みのある坂にしたといわれる。【結果 ...
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