リンク集 RSS/ATOM 記事
ホーム >>
リンク集 >>
RSS/ATOM 記事 (22950)
ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



【三井中学校について】 輪島にある三井中学校の設立年月日及びその経緯が知りたい。(質問者の父親が設立に関わっているとのこと。)(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:11)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:11)
○『追憶の構図 写真集輪島百年』(11824305)・・・三井中学校地の整地年が昭和26年であることが判明した。○『輪島市教育要覧』・・・当館所蔵なし。輪島市立図書館に平成9年から平成25年まであり。○『三井中学校創立三十年記念誌』・・・当館所蔵なし。石川県立図書館及び輪島市立図書館に所蔵あり。(既に質問者は発注済みとのこと。)
明治3年と8年の太政官布告(布達)によるもの。国立国会図書館デジタルコレクション・明治3年「苗字を許す」 太政官布告 第608号(『法令全書 明治3年』所収)【URL】https://dl.ndl.go.jp/pid/787950/1/212・明治8年「苗字を義務化」 太政官布告 第22号【URL】https://dl.ndl.go.jp/pid/994267/1/51『苗字と名前を知る事典』(112729684)p.165 p.226『原典日本憲法資料集』(11095840)p.15『明治時代史大辞典 3』(113424748)p.573
【蓮如とささげ餅について】 蓮如が草餅を好きだったという話を聞いたが、ささげ餅を好きだったという記述があるものはないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:10)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:10)
蓮如自身が好きだったという記述はないが、蓮如忌の際食べられていた団子の中にはささげ餅に近い形のものがあったもよう。『蓮如さん 門徒が語る蓮如伝承集成』(11826350)p.96「村の山から取って来たモチグサで団子餅をこしらえ、小豆餡や黄粉でまぶした草団子をつくって蓮如さんをもてなしたところ、蓮如さんは大変喜ばれたという。これに因んで、二俣では蓮如忌には、各家々で草団子をつくって仏壇に供え(後略)」『金沢市史 資料編14 民俗』p.293「各家では蓮如さんダゴを作る。糯米粉に草入りのダゴ、小豆をまぶした丸型、黄粉の長丸型を作っていたが、現在は総て丸型である。」『同上』p.302「屑米粉に蓬を入れて搗いたダゴに小豆をまぶした「蓮如さんダゴ」を作った。」ささげ餅について金沢市ホームページ「金沢食文化100物 ...
論文はなかったが、資料はあり。①『医王 医王山校百周年記念誌』(119565780)p.192-194②『生きている民俗探訪 石川』(11901010)p.180-182③『金沢の伝統芸能 城下町を彩る優雅を訪ねて』(119784463)p.s0-s2④『石川県無形民俗文化財等調査報告書 平成二一~二二年度 無形民俗文化財・無形文化財調査 保存と継承に向けて』(109131338)p.93-95⑤『金沢二俣町』(119458510)p.104-105⑥『ふるさとのいぶき 北陸の民謡』(119609688)p.87-88(楽譜・歌詞あり)
『石川県災異誌 [1971]』(119565574)における、「寸松雑記」を引用した記事を通覧したところ、鶴来米の相場に関する記述が散見されることから、鶴来町にある史料と推定し、『鶴来町史』等を確認したが、見つけられなかった。白山市立松任博物館に、旧鶴来町立博物館所蔵史料の中に「寸松雑記」という史料がないか問い合わせたところ、「寸松雑記」は鶴来町で蔵宿をしていた辻家の史料であったが、現在同家は鶴来から転出したため、原本の所在は確認できないとのこと。ただし、「寸松雑記」のコピーが同館に保存されているが、業務用のため一般の閲覧には供していないとのことであった。上記の調査結果を近世史料館に伝えたところ、たまたま同家の史料を先月の古書店で購入していたことがわかった。その史料の中にある「雑記 ...
【氷室饅頭について】 金沢検定の問題に、「氷室饅頭」を売り出したのは明治時代の新保屋だったと史料にある、とされていたが、道願屋の誤りではないのか。史料とはなんなのか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:10)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:10)
明治に「氷室饅頭」と銘打って売り出したのが新保屋だ、という意味だと思われる。北國新聞社出版局以外から出ている書籍には、新保屋が有名だ、とは書かれていても売り始めたのが新保屋だとは書かれておらず、出典は不明である。『生菓子屋読本』(119564085)p.8「新保屋は土用が終わるまで氷室饅頭を売ることが慣例となっていた」『加賀能登の生活と民俗』(118412884)p.249「昔はこの麦饅頭は御門前西町の新保屋というのが有名だったそうである」『生きている民俗探訪』(11901010)p.78「昔は現在の尾山町あたりに新保屋という饅頭屋があり、塩味のつぶしあん入りで・・・」以下北國新聞社出版局『暮らしの歳時記 石川編』(118543948)p.197「一般にまで広まったのは明治時代の中ごろで、菓子店の新保屋が「氷室饅頭」と名づけて白まん ...
【長岡安平について】 長岡安平が金沢 の公園(兼六公園、卯辰山公園)の設計に関わったことが書かれた資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:09)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:09)
○兼六園見当たらず。○卯辰山公園『金沢市史 資料編17 建築・建設』p.412「明治42年に金沢市が卯辰山遊園地造成設計を東京府技師長岡安平に依頼した。」とあり。『金沢の百年 明治編』(市史年表) (119871415)p.188「明治43年8月30日 設計を依頼された技師長岡安平が来沢した」とあり。「北国新聞」明治43年9月7日、8日来沢した時の記事(長岡氏の意見の要領)あり。
質問者より以下の情報提供あり。・北國新聞昭和34年11月4日記事に「金沢市塩屋町」在住とある。・昭和47年に柳田小学校の校歌を作詩している。・昭和52年に「豊かな老後の基礎づくり」が春闘の標語に選ばれた。・「百万石ぶし」「珠洲市民の歌」「片山津ブルース」などを作詩した梅木勝吉氏も「金沢市塩屋町在住」とあり、親戚か。1.梅木勝吉氏との関係について・・・まず、梅木宗一氏と同町内に在住していた作詞家、梅木勝吉氏について調査した。『石川県警察史』によると、昭和29年に制定された石川県警察歌の作詩者、梅木勝吉氏は当時県鶴来警察署勤務の巡査であるとのことであった。その他、北國新聞やインターネット等で梅木勝吉氏に関する情報は出てきたが、同姓の宗一氏との関係はつかめなかった。2.塩屋町につい ...
【粟崎遊園のレビューの脚本について】 粟崎遊園の粟崎少女歌劇団のレビューに鴨居悠原作のものがあると聞いているが、その内容が分かるような資料はあるか。以下の資料は閲覧済である。 「内灘町史」「粟崎遊園物語」「砂丘のまちの絆」(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:09)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:09)
レビューの内容が分かるような資料は見つからなかった。『粟崎遊園物語』(119621145)に内灘町歴史民俗博物館の資料目録があり、当時のパンフレット、プログラム等が挙げられているが、博物館に問い合わせたところ内容が分かるようなものはないとのこと。鴨居悠原作のものとして以下のようなものが挙げられている。「夏のをどり」(北國新聞社主筆)「秋のをどり」(岡谷天芥北國新聞社社会部長合作)「俄大名」『激動の地方史』(118292973)、『金沢市史 通史編3 近代』「金沢市内喫茶店店主であった鞍信一は機関紙『モダン金沢』を発行し、レビューの様子を克明に伝えている」『モダン金沢』1932.7月号、第2年8月号は小林文庫で所蔵しているが、レビューの内容についての記述は見当たらなかった。『内灘町史』『内灘町史 第二編』『砂 ...
中世の一次史料がないため、正確な所在地は特定できないが、以下の文献により、現在の金沢市大桑町法師山・坊山の一帯と推定される。○『加賀志徴 下編』(118511659)(石川県図書館協会、1969年)p.250-251「○救世観音寺跡 大桑村。○村の南領山に御坊屋敷と称する処二ヶ所あり。一処は今金沢材木町善福寺の寺跡、一所は川上新町徳善寺の寺跡にて、中にも善福寺は古刹にて、往古は大桑山救世観音寺と号し、四宗建学の旧地なりしが」⇒大桑村にあった寺院は現在の善福寺と徳善寺と判明した。○『加越能寺社由来 上』(118404819)(石川県図書館協会、1974年)p.64「三州寺号帳」・・・「文安二順光。初メ石川郡大桑村、慶長六今之地 金沢材木町々役地 善福寺」p.66同・・・「永禄二徳善 同郡大桑村同断 徳善寺」⇒善福寺・徳善寺とも大桑村で創 ...
execution time : 0.279 sec