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書家の北林華山について、以下の資料を紹介します。(1)『日展史 19』(日展史編纂委員会/企画・編集 日展 1987)【館内閲覧のみ】昭和三十一年開催の第十二回日本美術展覧会に、北林華山の書「蓬萊山之詩」が出品されており、図版が掲載されています。・第十二回日展 第五科 書 出品目録 p.368-380p.371「174―北林華山 蓬萊山之詩……茨城」・出品作品図版 p.382-444p.401「174―北林華山 蓬萊山之詩」(2)『いはらき 昭和31年10月26日』5面 【館内閲覧のみ】見出し「“美術の秋”日展の話題 行方郡から六氏入選 左一本指の北林氏も」北林華山の略歴や、第十二回日展出品作品について記載されています。また、「一本指で筆をとる北林氏」の写真が1枚掲載されています。なお、出品作品名は『蓬来山の玉言絶句』となっています。(2021.3.11追記 ...
「本間棗軒(ほんまそうけん)」についての本江戸時代 水戸藩の医者だったようだ。天然痘の研究に精力的だったようだ。その部分に触れて説明している資料が見たい。(茨城県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/14 13:54:53)
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『常陽芸文 1995年5月号』※館内閲覧のみP.1~10 芸文風土記 名医・本間家の人々 … 本間棗軒について、簡潔に説明されています。『水戸市史 中巻3』(水戸市史編さん委員会/編 水戸市役所 1984)※貸出用図書あり第十八章 士民の向学と文化の普及 第三節 医学・本草学の発達 P.1182~1187「種痘の開始」「種痘の普及」の項目に本間玄調の種痘の活動について説明があります。 P.1195~1200 「本間玄調の医学」の項目に、本間玄調の医学の活動について説明があります。『水戸藩の医学』(大貫 勢津子/著 筑波書林 1990)※貸出用図書ありP.30~44 二、水戸藩医学の進歩と本間玄調 (三)本間玄調(棗軒)と蘭方医学本間玄調の生まれから種痘の修行の様子、種痘法の普及について説明があります。回答プロセス:(1)百科事典や辞書で、各内容 ...
水戸市史中巻1に「講談師の桃林亭東玉がはじめて水戸黄門漫遊記を作った」という記述があるようだが、その記述の内容を知りたい。(茨城県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/14 13:54:53)
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水戸市史における桃林亭東玉の水戸黄門漫遊記について以下の通り回答します。『水戸市史 中巻1』(水戸市史編さん委員会/編 水戸市役所 1991)【貸出可能資料】【国立国会図書館デジタルコレクション 図書館送信対象資料】URL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3019693(521-524コマ目)第六章 光圀の文教振興と宗教政策(二) 第四節 名君一代と水戸 義公崇敬(p.925-930)p.929 「水戸黄門諸国漫遊記の成立については、次のような説がある。(22)文化・文政のころ、十返舎一九の「道中膝栗毛」が大いに受けたので、当時の講談師桃林亭東玉(嘉永二年死、六四才)という者が膝栗毛にならって「水戸黄門記」と題し、光圀に俳人松雪庵元起を添え、奥州から越後辺まで漫遊し、諸大名の政治を視察する筋で著作した。(略)江戸時代では御三家を話の主 ...
当館所蔵の県・郡・市町村の体育協会史で「剣道」「なぎなた」に関するページについては以下の通りです。【県】(1)『茨城県体育協会史』(茨城県体育協会/編 茨城県体育協会 1991)p.346-352 「剣道連盟」Ⅰ設立年月日、Ⅱ設立の経緯、Ⅲ歴代会長・理事長、Ⅳ剣道連盟の沿革、Ⅴ活動状況について記述があります。p.381-384 「なぎなた連盟」Ⅰ設立年月日、Ⅱ設立の経緯、Ⅲ歴代会長・理事長、Ⅳ競技人口の推移・沿革、、Ⅴ活動状況、Ⅵ活躍した選手について記述があります。【市町村】(2)『石岡市体育史』(石岡市体育協会事務局/編 石岡市体育協会 1975)p.50-57 「剣道」1.藩政時代 2.明治・大正時代 3.昭和前期 修鄭館道場の建設 4.戦後の時代 5.高浜地区における剣道の振興 6.市内県立高等学校における剣道 7.市内中学生活躍 8.石岡氏に ...
ジャパンナレッジ『日本大百科全書(ニッポニカ)』「第一国立銀行」の項に「国立銀行条例に基づいて設立された国立銀行で、日本最初の近代的銀行。」と解説されている。回答プロセス:当館契約データベース『ジャパンナレッジデータベース』にて検索を行なった。備考:クイックレファレンス
『滝井孝作全集』(滝井 孝作/著 中央公論社 1979)滝井孝作の筆蹟について第1巻~第11巻および別巻を確認した結果は以下の通りです。【全巻共通】扉裏 「題字 著者」とあります。背と扉、および函の題字は共通の字体で「瀧井孝作全集 第〇〇巻」です。※〇〇は各巻号また、各巻に添付している「瀧井孝作全集月報」の「滝井孝作全集」の題字部分も同様に著者の自著と思われます。【11巻】口絵 「著者自筆俳句二句」があります。【別巻】口絵 著者自筆原稿「「亀田の娘」の原稿(大正13年)」の写真があります。「年譜 著作年表 書誌」(p.5-242)書誌によって写真(表紙・函・帙など)が掲載されているものがあります。そのなかで書誌の解説文から、写真にある文字が著者自筆と記述がある資料が以下のものとなります。p.67-69 「風 ...
下記の茨城県の苗字につき、2012年度(無ければその前後)のハローページ(個人名)での掲載位置をお知らせ下さい。・船幡(ふなはた 水戸市)(茨城県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/14 13:54:52)
from レファレンス協同データベース (2024/12/14 13:54:52)
「茨城県の苗字」について,次のとおり回答します。『ハローページ(個人名) 2012.12~2013.11(2012.9.13現在)』を確認 船幡(ふなはた 水戸市)……(ふ)の所の(舟幡)と(舟山)の間(2012)年の電話帳回答プロセス:ハローページ(2012)を直接確認
「就学規則」について調べている。(1)『茨城県教育史 上巻』p.730に記載のある、1892(明治25)年発令の「学齢児童就学規則」(茨城県令甲第十三号)はどこで現物が見られるのか。(2)上記の「学齢児童就学規則」は第二次「小学校令」を受けての対応だと思われる。第一次、第三次の小学校令に対応する「就学規則」も発令されたものと思われるが、『茨城県教育史』には記述がなかった。茨城県では第一次、第三次の小学校令に対応する「就学規則」は発令されなかったのか。(茨城県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/14 13:54:51)
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茨城県の学齢児童就学規則について、以下のとおり回答いたします。『茨城県教育関係布達目録』(茨城県歴史館史料部史料室/編集 茨城県歴史館 1975)【当館請求記号:L069.6/イレ-5/2 郷土資料室】※貸出用図書あり茨城県布達、茨城県官令全報、茨城県報などの史料から、教育に関する事項を収めた目録です。学齢児童就学規則について、次のとおりの記述がありました。1886(明治19)年4月10日 第一次「小学校令」発令以降「明治一九(一八八六)年 一一・二七 県令甲第三五号 学齢児童就学規則制定〔布全六四(傍訓茨城県布達全報第六四号)〕」(p.21)「明治二〇(一八八七)年 一一・二 県令甲第七五号 明治一九年県令甲第三五号学齢児童就学規則中改正〔官全二一(傍訓茨城県官令全報第二一号)〕」(p.23)「明治二一(一八八 ...
「北茨城市史 上巻」P.253-254に書かれている内容について(1) 大塚掃部助は1348年に討死とあるが、どのような状況で亡くなったか分かる資料があれば紹介してほしい。「常陸三家譜」について、この資料がどのようなものか知りたい。(2)“河内国の大塚掃部助”について、著者によっては「茨城県人ではなく、大阪の『河内』のことではないか?」と書いている。どちらが正しいのか。茨城県人なのか、大阪人なのか、分かるような資料があれば紹介してほしい。(茨城県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/12/14 13:24:30)
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(1)大塚掃部助が亡くなった時の状況(死に様)について『大阪府史 第3巻 中世編1』(大阪府史編集専門委員会/編集 大阪府 1980)【 国立国会図書館デジタルコレクション 図書館送信対象資料 】URL: https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9574408 (デジタルコレクション 389コマ目)P.732-735 第三章 武士勢力の伸張 第二節 南北朝の角逐と摂河泉 3.楠木一族の動向 四条畷の合戦 P.734[大塚惟正は、正行の戦死を聞き、ただ一騎敵陣に切り込んで戦死したという。]『太平記 4 』(山下 宏明/校注 新潮社 1985) ※貸出用図書ありP.174-179 巻第二十六 楠正行最期の事…[大塚掃部助、手負うたりけるが、楠なほ後にあるともしらで、放れ馬のありけるに打ち乗つて、遙かに落ち延びたりけるが、和田・楠討たれたりと聞きて、ただ一騎馳せ帰り、大勢の中へ ...
常陸国と下総国の境について、以下の資料をご紹介します。1 事典辞書類で確認できる資料・『国史大辞典』(国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館 1986)【館内閲覧資料】(7巻 しな‐しん)p.143-147 「しもうさのくに 下総国」の項があります。うち、「下総国郡鄕一覧」(p.144-145)では、古代の郡名から現在の県・市町村(昭和六十年四月一日現在)までが対照表となっています。(11巻 にた-ひ)p.925-928 「ひたちのくに 常陸国」の項があります。うち、「常陸国郡郷一覧」(p.926-927)では、古代の郡名から現在の県・市町村(平成元年四月一日現在)までが対照表となっています。・『日本歴史地名大系 8 茨城県の地名』(平凡社 1982)【館内閲覧資料】下総国(p.647-653)p.647-651 「下総国」について記述があります。時代区分(古代・中世・近 ...
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