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【ファブリカという解剖書について】 ファブリカという解剖書がいつごろ日本に入ってきたのか知りたい。江戸時代初期に加賀の前田家が入手したらしい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:16)
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『人体解剖のすべて 解剖学への招待』(111932677)p.77によると、ファブリカは1543年にベルギーのアンドレアス・ヴェサリウスという人が出版した。p.171に「徳川幕府は、三大将軍家光の時代以来、書籍の輸入を長らく制限していました。八代将軍吉宗が、一七二〇(享保五)年にこの制限を緩和したので、ようやく日本にヨーロッパの医学書が広まるようになりました。」との記載あり。ファブリカが日本に入ってきた年は記載されていない。CiNiiによると、1543年の初版本は国際日本文化センター・札幌医科大学・明治大学が所蔵している。【URL】http://ci.nii.ac.jp/books/加賀藩が入手したことに関して、『ブリュッセルのアンドレアス・ヴェサリウス』(112282450)、『ヴェサリウスの生涯 生物化学の創造者』(129101050)、『加賀藩旧蔵洋書総合目録』(11996122 ...
【亀田鶴山の鹿心斎遺稿等の所蔵館について】 亀田鶴山の『鹿心斎遺稿』の所蔵館を知りたい。亀田鶴山(俳号は蘭泉)の俳諧が『としのうち』に見られるが、『としのうち』の所蔵館を知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:15)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:15)
・『鹿心斎遺稿』日本古典籍総合目録データベースで検索、近世史料館「金沢市加越能」「金沢市金陽」に所蔵があると記載されている。【URL】http://base1.nijl.ac.jp/~tkoten/近世史料館のホームページで検索すると以下の記載が見つかった。特091.0-299 鹿心斉遺稿(一名 鶴山遺稿)稼堂文庫 特11.0-2(1) 鹿心斉遺稿 1-5 金陽文庫特11.0-2(2) 鹿心斉遺稿 1-5 金陽文庫特11.0-2(3) 鹿心斉遺稿 1-5 天保6 金陽文庫【URL】https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/archive.htm・『としのうち』日本古典籍総合目録データベースで検索、石川県立図書館「石川県図月明」に所蔵があると記載されている。『月明文庫目録』(119798683)P76で確認できる。「としのうち 写半一冊暮柳舎三世車大編 希也序(享和二年)自跋(後川三回忌追善集 京勝田喜右衛門 野田治兵衛刊の ...
【津田孟昭の湯涌の漢詩について】 津田孟昭が湯涌温泉について詠んだ漢詩があるらしいので、その本文が見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:15)
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『三州遺事』(118596558)に、津田孟昭についてP724『元禄乙亥七月、湯涌温泉ノ行ヲ、詩モテ記ス、スヘテ三十五首、地景ヲヨク寫ケルト也』とあるが、『石川県史 第3編』(118587399)P262に「元禄八年七月涌浦温泉に浴せる紀行の詩三十五首あり、能く其の地景を寫す。」とある。また、『和倉温泉のれきし』(118297020)P15に「江戸時代の史料では、和倉村の漢字表記は和倉と涌浦の二種類あり」、P19に「霧波の中に首出す涌浦の湯 轍士 この句に対して日置謙は「和倉が当代に涌浦と書かれていたことを正しく説明するものであり、海中の埋立地で野立に澡浴していた状も写し得て妙といふべきものである」と述べている」とあることから、津田孟昭が詠んだ漢詩は湯涌温泉ではなく、和倉(涌浦)温泉で記した三十五首であると考えられる。国立国 ...
『銭屋五兵衛の研究』(118412409)p.231-241に「嘉永五年八月廿九日、当面の大立物たる三男の要蔵は才許預となり、九月三日藤内指向の上引揚げられ、金沢町会所の牢獄に収容せられた。続いて五兵衛は九月十一日より、町会所縮所(シマリショ)に拘禁せられた。長男の喜太郎、次男の佐八郎は九月八日手鎖縮(テジョウシマリ)の上一類預となつた。同十一日両人は宮腰附御郡附出役相連れ、直ちに町会所縮所に収容された。(中略)九月三十日町会所に収容中の五兵衛、要蔵、川下縮所に収容中の孫兵衛、喜助のいわゆる主謀者と認められている四人の者は、愈々公事場へ仮牢される事となつた。公事場というのは今の裁判所と刑務所とを合併したような役所で藩においては最も枢要な官庁であつた。その牢獄の牢鍵は、金沢町奉行が保管していた ...
『北陸人物名鑑 大正11年版』(118406107)、『家庭の鑑』(118403025)、『北国人物志』(118402091)、『石川県官民肖像録』(118596217)に記載なし。『石川県の華』(119545455)p.111に斯波淳六郎の肖像写真あり。
国立国会図書館デジタルコレクションで検索したところ、以下の資料が見つかった。『新時代 第1巻第1号』「折々草」【URL】https://dl.ndl.go.jp/pid/1812228/1/45『文章界 第1巻第2号』「樵路鶉」【URL】https://dl.ndl.go.jp/pid/1467123/1/15『六大新報 第959号』「嶺上花」【URL】https://dl.ndl.go.jp/pid/7941887/1/2
【宇多須神社拝殿の再建年代について】 金沢市東山の宇多須神社が明治期に建て替えられているのだが、それが何年か知りたい(棟札には「〇5年10月21日」とあり、年が判読できなかったとのこと)。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:14)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:14)
『石川県神社誌』、『金沢市神社大観』に記載なし。『稿本金沢市史 寺社編』(119531469)p.46-48「宇多須神社」に「(明治)二十三年火を失したれば、二十五年十月、再造せり」と書かれている。
『金沢市史 通史編2 近世』p.813-814「渡し舟・伏見川の舟運」犀川では中村・衆免野(示野)村・鷺森村に、舟を各一艘・渡舟水子(水夫・渡し守)を二人ずつ決める、と記載あり。p.813「木曳川」木倉町、安江木町、木ノ新保、三社揚場等の記載あり。『金沢市史 資料編10 近世8 生産と生活』p.283天保10年7月(1839)に、示野村渡し舟があったことがわかる。『金沢・北陸の城下町 城下町古地図散歩1』(119952792)p.10「金府大絵図」現在の下菊橋と思われる箇所に舟渡の記載あり。『金沢古蹟志 第6編』巻15 p.19-20「犀川川除町」「犀川上川除町は法然寺より下舟場辺まで、犀川中川除町は下舟場辺より大橋辺まで」と書かれていることから、現在の桜橋付近が「下舟場」と呼ばれていたことがわかる。p.21-22「犀川小橋」桜畑(現在の寺町3丁目)に犀川小橋が ...
【日本陸軍の連隊の所在地について】 太平洋戦争直前くらいの日本陸軍の連隊の所在地がわかる資料はないか。地図でなくてもよい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:14)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:14)
『別冊歴史読本 1990年夏号特別増刊 日本陸軍連隊総覧歩兵編』(109013844)『地図で読む戦争の時代』(113165350)p.61「日本陸軍の師団配置と所属歩兵連隊(1932年当時)」『日本陸海軍事典』(111859826)p.508-509「陸軍部隊配備表(昭和初期)」『日本陸海軍総合事典』(第2版)(112749364)p.537-540「平時における陸軍主要団隊配備表(満州事変直前期)」
【山側環状トンネル上の塚について】 星稜高校の裏山の山側環状のトンネルの上にある塚(親王塚と聞いているとのこと)について書かれた資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:14)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:14)
『加賀志徴 下編』(11824805)P.428 八塚「寛永誌に、御所跡より五六町後の山の嶺に、塚あり。」と記載されている。『亀の尾の記』(11824824)P.125 八つ塚「又此山に八つ塚というあり。」と記載されている。『金沢市校下誌 北部地区編』(109202707)P.39 (小坂校下)連なる古墳「星稜高校の裏側に丘陵地の八塚山(標高約100メートル)があり、9基の古墳が確認されている(御所八塚山古墳群と呼ばれる)。」と記載されている。『石川県遺跡地図』(119452463)図26「金沢」、表9「金沢市(7)」
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