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淡水魚のフナの郷土料理に関する本を探している。フナの郷土料理に関するものやレシピを収録した図書、論文、報告書等があれば教えてほしい。(三重県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/11/23 17:22:00)
from レファレンス協同データベース (2024/11/23 17:22:00)
以下の資料に記述がありました。(1)『日本の食生活全集 24』「日本の食生活全集 三重」編集委員会/編集 農山漁村文化協会 1987.4「伊勢平野の食」の項目のうち、p.72に「ふなは焼いてから甘からく煮つけて食べる」、p.90「伊勢平野(稲生村)の年間の食生活歴」の表のふなの食べ方の欄に「煮つけ、焼きもの」、「伊賀盆地の食」の項目のうち、p.159「伊賀盆地の季節素材の利用法」の表のふなの利用のしかたの欄に「煮つけ」、「紀伊山間の食」の項目のうち、p.217「紀伊山間の野菜、果物、山菜、川魚などの利用」の表のふなの食べ方の欄に「煮もの」と記載されています。(2)『三重県食文化事典』大川 吉崇/著 創英社,三省堂書店(発売) 2018.7p.121で県内のふなの食べ方を簡単に紹介しています。(3)『食べもの三国誌』大川 吉崇/著 新 ...
地震の際にとなえる呪文として関東や東北地方では、「萬歳楽、萬歳楽」がありますが、三重県内では地震の際にとなえる呪文としてはどのようなものがありますか。(三重県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/11/23 17:22:00)
from レファレンス協同データベース (2024/11/23 17:22:00)
県内の民俗に関する資料や市町村史を調査しましたが、地震の際に唱える呪文について記載されている資料は見つかりませんでした。参考までに、『四日市市史 第5巻』(四日市市/編集・発行 1995.3)p.129には、「地震の際に呪文を唱えるという話はあまり聞かない」という記載がありました。(その他調査した資料)『三重県方言民俗語集成』江畑 哲夫/制作 江畑 哲夫 2000.5『三重県のことば』丹羽 一弥/[三重県編] 明治書院 2000.1『桑名の民俗』堀田 吉雄/[ほか]編著 桑名市教育委員会 1987『津市の民俗』伊勢民俗学会/著 三重フィールド出版 1983.1『松阪・かんべ民俗誌』松阪市立神戸公民館 1988.05『松阪の民俗』三重県教職員組合松阪支部/編 三重県教職員組合松阪支部 1981.1『明和の民俗』三重県立松阪高等学校民俗同好会/編集 明 ...
明治期に存在していた、三重の本草学者・丹波修治や鎌井松石たちによって作られた「交友社博物会」に関する文献はないか。桑名交友社博物会、北勢交友社博物会、北勢嘗百社博物会などの名称変遷あり。(三重県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/11/23 17:21:59)
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(1) 『三重県史 資料編近代4』三重県/編集 三重県 1991.12p.997-998に「交友社の創始と沿革」があります。ここに掲載されている「交友社創始沿革」については、出典資料の『錦窠翁九十賀寿博物会誌 上』を国立国会図書館デジタルコレクションの送信サービスで閲覧できます。(後述)(2) 『本草学者丹波修治の研究』松島 博/著 松島 博 1971p.25に交友社の概略が記載されています。この資料は国立国会図書館デジタルコレクション送信サービス資料です。(3) 『近世伊勢における本草学者の研究』松島 博/著 講談社 1974p.413-464に「第八章 丹波修治」が掲載されています。これは、改行等変更はありますが『本草学者丹波修治の研究』と同じもので、p.416に交友社の概略が記載されています。この資料は国立国会図書館デジタルコレクション送信 ...
椋本の歴史や紀太家に関する記述がある資料は以下の通りです。(1)『芸濃町史 上巻』芸濃町教育委員会/編集・発行 1986p.564で「紀太四郎兵衛」に関して触れています。なお、その出典である「椋本根源記」がp.910-915に掲載されています。p.332において「紀太文七郎」の簡単な由緒が書かれています。国立国会図書館デジタルコレクション送信サービス資料です。(2)『三重県総合博物館資料叢書 No.6』三重県総合博物館/編集・発行 2020.3「伊勢無足人由緒書」を翻刻した資料です。p.15に「安濃郡椋本村無足人」の「紀太文七郎」「紀太平右衛門」「紀太岸次郎」の由緒書きが掲載されています。三重県総合博物館(MieMu:みえむ)のウェブサイトから見ることができます。https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/p0031300013.htm(三重県総合博物館トップペー ...
丹羽文雄の小説で、親族が嫁いだ大阪の商家一族をモデルにした小説があると聞いたが、タイトルは何か知りたい。(三重県立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/11/23 17:21:59)
from レファレンス協同データベース (2024/11/23 17:21:59)
『丹羽文雄文藝事典』(秦 昌弘/編著、半田 美永/編著 和泉書院 2013.3)を確認しましたが、「大阪の商家」「親族がモデル」にあたる作品を見つけることはできませんでした。その他確認した資料『ひと我を非情の作家と呼ぶ』丹羽 文雄/著 光文社 1984.11『鮎・母の日・妻』丹羽 文雄/[著] 講談社 2006.1『文豪丹羽文雄その人と文学』四日市市立博物館/編集 四日市市立博物館 2001.2なお、『ひと我を非情の作家と呼ぶ』p.200に、「家内の親戚から、小説に書かれて迷惑していると文句がまいこんだ。」、『鮎・母の日・妻』のAmazonレビューに、親戚を小説に書いた旨の記述がありますが、何の小説かも、おたずねの親戚についてなのかも不明です。(追記)質問者より、『厭がらせの年齢』ではないかとの連絡がありました。『近代名作 ...
『嘉穂郡誌』(1986年発行)P1001に、「碑をその郷里に建てゝ君の偉績を録し、以て不朽に傳ふ。」と記載のある、「城石彌一郎」の記念碑がどこにあるのか場所を知りたい。同ページに、「城石彌一郎は穂波村安恒の人なり」の記載があるので、碑は安恒にあるのではないか。(飯塚市立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/11/23 16:51:48)
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国道60号「飯塚大野城線」沿い、福岡県飯塚市安恒373番地の東側隣接地にあり。回答プロセス:①図書館の資料にて調査『嘉穂郡誌』/嘉穂郡役所編纂/1986 P1001と、『福岡県碑誌 筑前之部』/荒井周夫編纂/1929 P659に「穂波村安恒」「穂波川の上に葬る」とあるが、場所を特定できる記載は無し。上記資料以外に城石彌一郎についての記載のある資料が無く、『ゼンリン住宅地図 福岡県 飯塚市③[筑穂 穂波]』で(旧穂波村安恒)現飯塚市安恒地区の石碑の場所を地図記号で確認し、安恒地区に3基の石碑があることが判明。現地調査し、城石彌一郎の碑がある場所を特定。国道60号「飯塚大野城線」沿い、福岡県飯塚市安恒373番地の東側隣接地にあり。参考資料:嘉穂郡 編纂. 嘉穂郡誌. 臨川書店, 1986. (福岡県郷土誌叢刊)https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100 ...
先祖が関所役人をしていたようだが、どこの関所かわかるか。一族の墓は、しなの鉄道屋代駅の近く小島(おじま)地籍にある。(県立長野図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/11/23 15:18:25)
from レファレンス協同データベース (2024/11/23 15:18:25)
先祖の菩提寺が千曲市屋代駅の近く小島地籍とのことから、小島村の住人として調査した。 小島村は『角川日本地名大辞典20長野県』角川書店 1990 【291.03/カド/20】 p.281「小島(おじま)」によると、江戸時代初期は、松代藩領、幕府領、坂木藩領と変わり、元禄16年から幕府領のまま明治維新を迎えた。同じように、『長野県の地名』平凡社 1979【291.03/ニホ/20】p.762「小島村」でも、「江戸時代を通じて坂木・中之条代官支配地であった」とある。このため、中之条代官所の役人だった可能性がある。 『更埴市史 第2巻 近世編』更埴市史編纂委員会編 更埴市 1988 【N216/49/2】p.160-164に、江戸時代の小島村の様子が書かれている。また、p.241-244には、関所の役割を果たした機関に口留番所の記述がある。松代藩が置いた口留番所を列挙しており ...
当館所蔵の資料を調査したが、原田虎猪(巌)について、確認することができなかった。 旧制上田中学を前身に持つ長野県上田高等学校図書館に卒業生名簿を照会したところ、1960年、1972年刊行の名簿で、大正4年から11年までの卒業生に「原田巌」の名前は見当たらないとの回答を得た。 当時の旧制中学で上田市に比較的近い学校は、長野中学(現・長野県長野高等学校)と野沢中学(現・野沢北高等学校)となる。長野高校の卒業生名簿『会員名簿 1969(1)』 長野県長野高等学校同窓会 1969【N376.4/126/1】を大正4年から11年まで調べたが、「原田巌」は確認できなかった。 また、野沢北高等学校の卒業生名簿は所蔵していないため、同校図書館に卒業生名簿を照会したところ、『岳南会会員名簿』長野県野沢北高等学校同窓会 2012 の大正4年 ...
町田良一著「信濃における蹴鞠の流行」『信濃 第3次』 第3巻第12号 1951.12 p.42-50(23-27コマ)【最終確認2021.6.14】を紹介した。おおよそ享保(1716-1736)から天明(1781-1789)にわたる70年間を流行期間としている。 なお、この論文が参考文献としている『こよみぐさ』瀬下敬忠著 瀬下敬忠句碑建設会 【N080/14/21】は、江戸時代の俳人、瀬下敬忠(せじものぶただ)の自伝日記。このほか、次の史誌類に記載があった。・『長野県史 通史編 第5巻』 長野県編 長野県史刊行会 1988 【215.2/ナガ/5-5】 p.255-257 「俳諧・日記・蹴鞠」・『木曽・楢川村誌 第3巻』 楢川村誌編纂委員会編 楢川村 1998 【N234/88/3】 p.439-441 「蹴鞠・楊弓・狂歌」・『佐久市志 歴史編3』佐久市志編纂委員会編 佐久市志刊行会 1992 【N223/69/3-3】 p.815-816 「敬忠と蹴鞠」・『長野市誌 第4 ...
『戸隠信仰を紡ぐ』戸隠神社 2021【N171/86】p.40-47に山論を含む訴訟の記述中に上野楽鴎斎の記述がある。上野村が当初は戸隠神領ではなかったことの論拠として、楽鴎斎が別当にあてた証文がある旨書かれている。注に楽鴎斎については、「上野村開拓の祖と伝えられる人。上杉氏家臣で、八幡原と称された原野に水路をひき耕地とした。」とあり、出典の『郷土の歴史物語』小林信治郎著・刊 1986【N212/228】を紹介している。同書のp.46-50に楽鴎斎について記載がある。回答プロセス:1 天正16年に、庄屋を務めていたことがわかっているので、当該地域の史誌類の天正期を調べる。2 史誌類で記述を確認できなかったので、郷土分類N171(北信地域の神社)の書棚で、戸隠神社関係の資料を調べる。『戸隠信仰を紡ぐ』中に、「楽鴎斎」について ...
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