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【江戸時代の大工の身分について】 江戸時代以降の大工(主に神社・仏閣)の身分について書かれた本を紹介してほしい。地域はどこの大工でもよい(金沢・京都・奈良等)。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:14)
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『加賀藩大工の研究』(118507431)第1章 作事方の職制とその成立(P21~60)に作事方の構成や役職と人数についての記載がある。天明七年(一七八七)五月の気多太神宮社頭造営棟札を事例に以下の指摘をしている。(P33~34)・棟札の役職記載順は、その地位に関係があると思われる。・御大工並以上は姓・仮名・氏・実名で、扶持方大工以下は姓・仮名で記され、名乗りに差がみられる。・作事方の事務系(管理体制側)として、作事奉行、作事横目、寺社方修理裁許与力がいる。・作事方の技術系として、御大工頭、御大工、御大工並、扶持方大工、棟梁大工、屋根葺棟梁、大工棟取、屋根葺棟取が記され、作事奉行の配下に属する。P80~83に「表4 金沢の拝領地に住む大工の調査(享保9年8月)」について記載あり。『江戸時代の大工たち』(11025765 ...
【広坂のプラネタリウムのドームについて】 広坂のプラネタリウムのドームはいつ作られたのか。プラネタリウムの前身の北陸女学院の建物の時からあったのかどうかが知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:13)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:13)
『石川県大百科事典』p.666「プラネタリウム」によると、金沢市広坂のプラネタリウムは石川県児童会館の施設として1970(昭和45)年に発足した。『北陸学院百年史 部局史』p.399によると、1958年(昭和33)に鉄筋コンクリート3階建白亜の新校舎が建設された。同p.405に「中学部新校舎 正面」「中学部新校舎 背面」の写真が掲載されている(ドームなし)。同p.136に1965年(昭和40)当時の柿木畠校舎の配置図が掲載されており、現在プラネタリウムのある場所には「南館2号」という建物が建っていたことがわかる。『商工石川 2013年3月号』(179086345)表紙の航空写真「竣工した金沢市観光会館(現 金沢歌劇座)周辺空撮」(昭和37年 撮影)及び『石川富山昭和あのとき アルバム編』(118564509)p.175「本多町上空から石川県庁舎方面を望む」に北陸学院の建物が写っ ...
『石川県高松町史』(119563622)P.169 金津庄と大海庄「平安期に庄園化されて行った庄は、10世紀の前半に編さんされた『倭名類聚抄』によると加賀郡と羽咋郡は共に八郷からなる」と記載されている。加賀国加賀郡(河北郡)大桑、大野、芹田、井家、英多、玉戈、〔駅家〕田上能登国羽咋郡大(太)海、荒木、高家、羽咋、岡本、邑知、都知、神戸「高松地区は駅家郷に含まれている。又大海地区は羽咋郡大海郷に含まれていた」と記載あり。『日本歴史地名大系 17 石川県』(111271846)P.59 加賀郡〈大桑郷〉現金沢市大桑町。推定郷域は大桑町を中心としつつも犀川の谷頭左岸に限定する説、大桑町から犀川対岸の小立野台地まで広がっていたとする説、大桑町から下流に向かって広がり、同市の寺町台地から野町・中村町まで及んでいたとす ...
『ホタル百科』(112507372)p.7によると、江戸時代に出版された図録本に「源氏蛍(げんじぼたる)」「平家蛍(へいけぼたる)」という名は記されていない。小西正泰氏によれば、1856年に出版された『虫譜図説』(飯室楽圃)や1906年に出版された『日本千虫図解第三巻』(松村松年)に源氏蛍の名が記されているとのこと。源氏蛍の名は『源氏物語』に登場する光源氏にちなんで付けられたとする説などが紹介されている。「平家蛍」については、おそらく体の大きい源氏蛍に対して後から付けられたと考えられるとのこと。『ゲンジボタル』(11096290)p.8-9「種名の由来」に、柳田国男が「蛍が光を放つことに一種の力を感じてゲンジ(験師)という名が付いたのではないか」と主張する説を紹介している。「形が大きいゲンジボタルに対し小形のホタルにヘ ...
【江戸時代の貨幣換算について】 江戸時代の貨幣換算について書かれた資料はないか。また、現在の価値に直すとどれくらいになるのか知りたい(とくに加賀・越中地方の場合)。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:12)
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○金銀銭の換算について『広辞苑』(第6版)(112852866)p.2959「両」の項目に、「金で四匁四分、銀で四匁三分。近世、金貨幣の単位ともなり、金貨一両が四分(一六朱)で、銀六〇匁・銭四貫文がこれと同価とされた」とある。また、『貨幣博物館 常設展示図録』(日本銀行金融研究所貨幣博物館 2017)p.32には、「金貨1両=銀貨50匁=銭貨4000文、銀貨1匁(3.75g)=10分、1000文=1貫文」との記載がある。しかし、『江戸物価事典』(112907338)p.78~80によると、金銀銭の換算は年ごとに細かく変動していたようだ。詳しくは国立国会図書館「レファレンス協同データベース」(下記URL)を参照のこと。「江戸時代の小判や銀貨の種類を知りたい。また、金1両が何文にあたるか書かれた資料はあるか。」(福岡市総合図書館)【URL】http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?pag ...
【前田利常の遺灰について】 前田利常が小松で亡くなった後、その遺灰が小松のどこかに埋められたということが書かれた資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:12)
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『加賀藩史料 第3編』p.585「続漸得雑記」に「小松近辺三宅野に有之微妙公の御灰塚」、同p.586に「御全骨は三宅野より直に宝円寺へ移し奉り、御分骨は三宅野より先づ国松寺へ移し、同日高野へ送り奉りたる」と記されている。『日本歴史地名大系 17 石川県』p.217「河田村」に「村内の目明野に方100間の前田利常灰塚があり、住民は「お墓」と称している」と記されている。『石川県能美郡誌』(11824574)p.1343「前田利常公灰塚碑」に「加賀国能美郡小松邑之東北二里徳橋郷三宅野、荼毘我十世祖中納言公諱利常処、蓋公臨薨遺命荼毘也、因葬遺骨于野田山、埋余燼於此、称曰灰塚」と記されている。
【小松製作所の社史について】 小松製作所の社史はないか。小松製作所が鳥越村の神子清水に発電所を作ったことが書かれた資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:12)
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○小松製作所の社史『世界への飛躍と技術革新 コマツ80周年記念誌』(519135117)『小松製作所五十年の歩み 略史』(118596478)○神子清水の発電所『続鳥越村史 現代編』(119876903)p232、234「神子清水発電所と灌漑用水」『続鳥越村史 図説編』(119876940)p172「神子清水発電所」『石川県鳥越村史』(119563266)p805~809「神子清水発電所」○小松製作所に関する資料『断固たる決断 <小松製作所の軌跡>』(11009703)『こまつ 市制30周年記念誌』(119563248)p130「小松製作所」『新修小松市史10 図説 こまつの歴史』(109127596)p214~215「小松製作所-コマツの発展」『ふるさと小松の人とこころ』(119954616)p72~75「竹内明太郎」『小松の軌跡 その人々と営み』(11921123)p70「小松市の債務保証で再建」『こまつにゆかりの人物伝』(109174611)p137~138「竹内明太郎」『 ...
【金沢電気株式会社について】 明治・大正頃の会社で河合辰太郎が経営に関わっていた金沢電気株式会社について書かれた資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:12)
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『金沢市史 現代編 上』(119562670)P.316 五、電気事業市営計画と金沢電気株式会社明治二十八年九月、森下八左衛門や谷与三右衛門らが金沢電灯会社の設立を計画した。八月、市長は市営電気事業計画案を市会に提出、市会は市立発電所設立および市公債募集を審議、これを承認した。翌二十九年三月内務、大蔵両大臣から市営の認可がおりた。三十年十一月、さきの森下八左衛門ら十二人を発起人として資本金二五万円の金沢電気株式会社が設立されることとなった。三十二年七月設立登記が終り、初代社長に中川長吉がなった。明治三十一年十月、辰巳発電所の建設にかかり、三十三年五月完成、六月二十五日から営業送電を開始した。当時の電灯需要数は二、二六七灯であったと記載されている。P.318 金沢電気瓦斯株式会社「明治四十一年 ...
【金沢開始三百年祭について】 明治24(1891)年に開催された金沢開始三百年祭の契機となった三百年前の出来事は何か。前田利家の金沢入城では年代が合わない。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:12)
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『旧藩祖三百年祭と金沢の祭』(109180637)p.5「金沢開始三百年祭」に「文禄元年(1592)前田利家の命により金沢城を改修したことを市域の整備・誕生の契機とし」たと書かれている。『石川県史 第4編』p.1219にも同様の記載がある。文禄元年の金沢城修築の事実については、『加能読史年表』(118561051)p.280に「(文禄元)2・中 前田利家、金沢に留守する利長に命じて城郭を修築せしむ」と書かれている。出典は『越登賀三州志』p.208「国祖西覲。世子修尾山城壘」と思われる。
【慶応元年の長崎留学者について】 慶応元年に啓明丸という船に乗って長崎に留学した学生の名前が知りたい。たしか『前田慶寧と幕末維新』という本に出典が載っていた。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:12)
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『前田慶寧と幕末維新』(119986511)p.161に「長崎でグラバーから西洋型帆走船啓明丸を購入し、同船が七尾に入港した後、再び長崎に廻航した際、後に最初に加賀藩が派遣した海外留学生となる関沢幸三郎(明清)、岡田秀之助(一六)、それに高峰譲吉や安達松太郎ら優秀な人材五十人を選抜し、藩費留学生として長崎に送り、洋学修行をさせたこと(「伍堂卓爾一世紀事」)」と記されている。『加賀藩史料 藩末篇下巻』p.410-411「七月。加賀藩。諸士の子弟凡そ五十人を長崎に遣はして洋学を修業せしむ。」に「伍堂卓爾一世紀事」が引用されている。留学者の名前は記されていない。p.504-516「九月十三日。加賀藩の長崎勤学生近藤岩五郎、薩州藩石神良平を斫り、尋いで自刃す。」に留学生として後藤喜兵衛・山田外男・清水金之助らの名前 ...
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