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現在、大阪市内には渡船場が8か所あり、そのうち港区には2か所(天保山渡と甚兵衛渡)があります。渡船場の歴史については、『港区誌』や『大正区史』に書かれています。また、『大阪市渡船場マップ』には、歴史や渡船場跡のほかに、現在の渡船場の地図・時刻表も書かれています。参考資料:『港区誌』 (大阪市港区役所編 大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956年 当館書誌ID:0000244951)『大正区史』 (大阪都市協会編 大正区制五十周年記念事業委員会 1983年 当館書誌ID:0070059807)『大阪市渡船場マップ』 (大阪市土木技術協会編 大阪市建設局渡船事務所 2000年 当館書誌ID:0000818246), 備考:2025年1月のシステム更新により、「書誌ID」は「タイトルコード」として番号体系が変更となりました。参考資料欄の書誌IDについては ...
最も詳しいのは、『大阪港史』(大阪市港湾局)です。『大阪開港100年祭』(大阪市)では、写真のほかに、簡単な歴史が表になっており、見やすくなっております。その他には、 『港区誌』(大阪市港区創設三十周年記念事業委員会)、『大阪築港誌』 (大阪市築港事務所 )をご紹介します。参考資料:『港区誌』 (大阪市港区役所編 大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956 当館書誌ID:0000244951)『大阪港史 1巻』 (大阪市港湾局 1959年 当館書誌ID: 0070051521)『大阪港史 2巻』 (大阪市港湾局 1961年 当館書誌ID: 0070051522)『大阪港史 3巻』 (大阪市港湾局 1964年 当館書誌ID: 0070051523)『大阪築港誌』 (大阪市築港事務所 1906年 当館書誌ID:0080237656)『大阪開港100年祭』 (大阪市・大阪開港100年記念祭委員会共編 [1968跋] 当館書誌ID:0080258971), ...
『邦楽百科辞典』(音楽之友社) によると、猿楽(申楽とも)とは、平安・鎌倉時代に盛行した滑稽な雑芸、およびそれを母胎にして鎌倉末期ごろに成立した能、また能を演じる役者のことをいいます。南北朝から室町時代にかけて活躍した榎並猿楽座については、『能樂源流考』(能勢朝次著 岩波書店)や『中世芸能史論考』 (森末義彰著 東京堂出版)が先行する研究を踏まえたうえで、榎並を含む丹波猿楽三座について考証しています。『城東区史』の「第一章 城東区の歴史」にもまとまった記述があります。また、現在、大阪市立榎並小学校東門前(城東区野江4丁目1)に、榎並猿楽発祥の地・榎並城跡伝承の地の碑が建てられており、城東区ホームページの「区の紹介」中、「名所・旧跡」の同碑の項、『城東見聞録』で見ることができま ...
『旭区史』によりますと、p291に「千林商店街」という項目があり、「京街道として位置づけられたのは、明治四十三年に京阪電車が開通してからで・・・・」という記述があります。また、大阪府商店街振興組合連合会のホームページには、紹介文のなかに「明治43年4月15日京阪電軌鉄道が開通して千林駅ができ、商店の数も増え、大正年代の後半より人口が増加し、商業地域へと発展しました。昭和6年市電守口線が、開通、国道一号線も完成し、同年京阪電鉄の軌道敷の移動に伴い千林駅も移転、駅と国道一号線を結ぶ街路の商店街を促進し、これが現在の千林商店街となりました。」とあります。http://www.mydo.or.jp/street/063.htmこの昭和6年に現在の千林商店街となりましたという記述については、『元気のある商店街の形成』(石村真一著 ...
『大阪の橋』(松村博著 松籟社)、『大阪工事局40年史』(日本国有鉄道大阪工事局編 大阪工事局)によりますと、赤川鉄橋は、正式名称を「城東貨物線淀川橋梁」といい、昭和4年に完成しました。橋の長さは、約610メートルです。大阪市東淀川区東淡路1丁目から対岸の都島区大東町3丁目に架かっている橋です。国土地理院の一万分の一地形図や大阪市の道路地図帳などを見ますと、城東貨物線は都島区と旭区の境界にあり、都島区側に城東貨物線が通っていることが確認できます。『都島区史』には、このことが、p290に記述されています。この記述のなかに、「貨物線の淀川を渡る鉄橋は、複線分の幅員をもっているが、現在単線運行なので、未利用部は赤川仮橋と名づけ板張りをして歩行者の便に供されている現況である」とあります。対 ...
平成14年度に閉鎖されたという東住吉区の田辺公設市場は、いつ、どういう趣旨で開設されたのか、を知りたい。(大阪市立中央図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/4/1 11:58:12)
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『明治大正大阪市史 4巻 経済篇下』(大阪市編 日本評論社) p907 によると、 大阪市の公設市場の開設については、「市民の生活費を軽減すると共に、需給の調節の円滑を図り併せて小売制度を改善する目的の下に(大正)七年四月即ち米騒動勃発数ヶ月前に全国各都市に率先して境川・谷町・福島及び天王寺の四市設小売市場を開いた」とあります。※引用にあたっては、旧字を新字に変え、年号(大正)を入れました。また、『東住吉区史』(川端直正編 東住吉区創設十五周年四ヶ村編入三周年記念事業委員会)p237 によると、当時の状況として、「第一次世界大戦ののち、諸物価は著しく昴騰し、市民の日常生活が極度に圧迫されたため、一般小額所得者階級の生活費がその四割二分を占め、これら食料品を主とする日用廉価供給施設が殊 ...
『角川日本地名大辞典27 大阪府』や『東住吉区史』によると、大塚町は、昭和26年~55年の町名で、もとは桑津町となっています。桑津町は、大正14年~昭和55年の町名で、昭和26年からは一部が桑津1~8丁目・西今川1~3丁目・大塚町となり、昭和55年から桑津町1~5丁目となったようです。昭和初期の地名のようなので、『大阪田邊桑津附近地図』(昭和10)を見ると、だいたいの個所は分かりました。昭和26年に地名変更があったので、『東住吉区詳細地図』(昭和33)で見ると、大塚町87番地は確認できました。しかし桑津町216は確認できず、おそらく桑津3丁目75~79のあいだだと思われます。参考資料:『角川日本地名大辞典 27 大阪府』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店 1983年 当館書誌ID: 0000184865)『東住吉区史』(川端直正 ...
『ゴミと社会2001』(大阪市環境事業局編) には、2001年4月に完成した舞洲(まいしま)工場は、オーストリア人の芸術家フンデルトヴァッサーさんがデザインしたという記述があります。表紙とp..20には、写真が掲載されています。写真は他にも、『ゴミと社会2004』 の表紙とp.15や、『此花区コロンブスマップ』(大阪市此花区役所編) のp.42や『大阪市プロジェクトガイド2004』(大阪都市協会編) のp.51舞洲スラッジセンターの項にもあります。参考資料:『ゴミと社会2001』(大阪市環境事業局編 2001年 当館書誌ID: 0010042514)『ゴミと社会2004』(大阪市環境事業局編 2004年 当館書誌ID :0010756586)『此花区コロンブスマップ』(大阪市此花区役所編 2005年 当館書誌ID 0011012218)『大阪市プロジェクトガイド2004』(大阪都市 ...
「商業の国勢調査」ともいわれている、経済産業省編『商業統計表』(1952年より調査開始。1997年以降は5年ごとに調査)は、国内の卸売、小売業について、市区町村別、業態別、品目別などにわけて調査した資料です。『商業統計表 立地環境特性別統計編』には「商業集積地区(商店街)の都道府県別、市区町村別の商店街数、事業所数、大規模小売店舗数、大規模小売店舗内事業所数、従業者数、年間商品販売額及び売場面積」という調査結果が記されています。これは、全国各地の商店街にある店の数や従業員の数、年間商品の販売額などを記したもので、大阪市のような政令指定都市では区の単位まで区分されています。こちらによりますと、大阪市西区の事業所数(店舗数)の合計は303。参考資料:『商業統計表 立地環境特性 ...
『角川日本地名大事典』では、柳通、桜通とも大正11年~昭和48年の町名とある。 『西成区史』47ページに、明治41年日露戦争当時露国の捕虜収容所、第十六師団仮説兵営練兵場、陸軍予備病院の使用が廃されたのち地主に返還されたが、元通りの耕地とすることには困難な事情もあり、清新な住宅地とする希望もあって、今宮村で明治43年、第一耕地整理組合の結成が認可され、44年に工事を完成、この事業終了によって、今日の梅・松・橘・桜・柳の各通りが生まれた、とある。『大阪の町名 上』には、町名の由来は今宮町の小字名による、という記述があるが、それ以上のことはわからず。また、記述が確認できるのは、通りの名称ではなく、町名である。参考資料:『角川日本地名大辞典 27大阪府』(角川書店 1991年 当館書誌ID:000 ...
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