リンク集 RSS/ATOM 記事
ホーム >>
リンク集 >>
RSS/ATOM 記事 (26371)
ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



大阪市内には渡船場が8か所あり、大正区には7か所(甚兵衛渡船場・落合上渡船場・落合下渡船場・千本松渡船場・木津川渡船場・船町渡船場・千歳渡船場)あります。その歴史については『大正区史』(大阪都市協会編 )157ページから161ページに記述があります。他に『大阪市渡船場マップ』(大阪市土木技術協会編 )があり、各々の渡船場の地図と、標準の時刻表、簡単な解説が、写真とともに記載されています。また、『旧跡・渡船場表示板』(大阪市大正区役所区民企画室 )には、大正区内の名所として顕彰するために設けられた表示板の意匠が掲載されています。参考資料:『大正区史』(大阪都市協会編 1983年 当館書誌ID: 0070059807) 『大阪市渡船場マップ』(大阪市土木技術協会編 2000年 当館書誌ID: 0000818246)『旧跡・渡船場 ...
『移りゆく阿倍野』(石田 稔編)p73~77 には、徳川時代の大阪の墓所は、明治7~8年にかけて、市内の三ヶ所にまとめられ、それらのうち、明治7年3月に天王寺村(現阿倍野区)にできたのが現在の阿倍野墓地であり、明治40年に大阪市が買収し、昭和5年には阿倍野葬儀所、18年には市立南斎場と改称、五代友厚の墓、長州藩志士の墓(死節群士之墓)などが有名である等の記述がありますさらに、『大阪市内における建碑』(川端 直正編)を見ると、前述の五代友厚の墓を含めて阿倍野墓地内の21の墓碑や墓表、遺功表などが簡略に記載されています。また、『大阪墓碑人物事典』(近松 誉文著 東方出版)には、阿倍野墓地の項に、五代友厚・長州藩志士の墓に、『大阪市内における建碑』に記載のない中村雀右衛門二世と三世の墓碑を加 ...
「日本教科書大系 近代編 第7巻 国語4」に掲載あり。解説(p718)には詳しい変遷あり。大正七年~ 第3期国定教科書 ハナハトマメマス (p262)昭和八年~ 第4期国定教科書 サイタサイタサクラ (p558)回答プロセス:「日本教科書大系近代編」総目次(当館作成資料)より、該当する巻を調査参考資料:「日本教科書大系 近代編 第7巻 国語4」 講談社,1978 , 備考:「日本教科書大系」は「大阪市立図書館調べかたガイド(4)教科書」でご紹介しています。http://www.oml.city.osaka.jp/net/guide.html (2008.12.17確認)2025年1月のシステム更新により、「書誌ID」は「タイトルコード」として番号体系が変更となりました。参考資料欄の書誌IDについては、図書は先頭に100を、雑誌は先頭に299を追加して読み替えてください。例:『新修大阪市史 第1巻』 新修大阪市史編纂委員 ...
東淀川区にはいくつか昔話が伝わっています。東淀川区役所の発行した『たぬきのおんがえし-瑞松寺の吸出しぐすり-』(東淀川区役所 2002)、『瑞光寺のくじら橋』(東淀川区役所 2003)、『さかまきじぞう』は、昔話を絵本にしたものです。これらの絵本に点訳シールをはったもの、紙芝居にしたものもあります。『東淀川区史』には、伝説として、「長柄人柱の話」と「涙池の話」がのっています。長柄の人柱の話は有名で、『ながらのひとばしら』(宇津木秀甫文 摂津の民話絵本刊行委員会 1979)という絵本になったり、『ふるさとお話の旅 8 奈良・大阪』(野村純一監修 星の環会 2005)や『読みがたり大阪のむかし話』(大阪府小学校国語科教育研究会「大阪のむかし話」編集委員会編 日本標準 2005)に収められたりしていますが、厳 ...
『大阪城ものがたり』(藤原一生原作 教育出版センター 1983)には、築城から大阪冬の陣・夏の陣までのことが、物語風に書かれています。巻末には、簡単な年表もあります。『大阪城-天下一の名城』(宮上茂隆著 草思社 1984)には、築城をはじめ、内部の様子などがわかりやすい図や絵を使って細かく説明されています。『歴史と文化の町たんけん 4大阪をたずねる』(三田村信行編著 あすなろ書房 2003)にも、1997年の大改修までのことが、カラー写真とともに短く説明されています。また、『大阪城』(岡本良一編著 清文堂出版 1983)、『大阪城の魅力-歴史の宝庫』(登野城弘著 淡交社 1994)などの写真集では、大阪城の姿がご覧いただけます。参考資料:『ぼくらの大阪府 郷土の地理と歴史』 谷口豊編著 ポプラ社 1984年
簡便にまとめて説明している資料に、『大阪の歴史 6号』(大阪市史編纂所編 大阪市史料調査会 )の「みおつくし 大坂と大阪」があります。『大阪の歴史 56号』の口絵と解説も参考になります。これらの資料からは、次のようなことがわかります。江戸時代には、「大坂」と書くことが普通でしたが、「大阪」と書くこともありました。その理由についてよく引用されるのが、文化5年(1808)に刊行された『摂陽落穂集』で、坂は不吉な文字として忌み嫌う人もおり、阪をもちいる人もいたことが書かれています。もともと坂と阪は同字で、阪から坂の字が生まれたということもあり、1868年に大阪府が設置されてからも混用されていましたが、明治10年代には「大阪」が一般的になりました。参考資料:『大阪府史 7巻』 (大阪府史編集専門 ...
日本書紀に記述されている茨田堤は、淀川の水害を防ぐため築かれたものということです。『大阪春秋89号』(大阪春秋社)p14に茨田堤についての記述があり、p16には茨田堤の推定位置の載った略図も付記されています。また『鶴見区昔ばなし』(赤坂敏行著 ローカル通信社 )のp41にも解説文、p15に推測図があります。『鶴見区昔ばなし』には、「茨田堤の位置は、上手は枚方市伊加賀付近から太間、池田、堤根神社へとわずかに残っている古堤とされている」とあります。参考資料:『大阪春秋89号 城東・鶴見』 (大阪春秋社 1997年 当館書誌ID:0000649852)『鶴見区昔ばなし』 (赤坂敏行著 ローカル通信社 1984年 当館書誌ID: 0070117924), 備考:2025年1月のシステム更新により、「書誌ID」は「タイトルコード」として番号体系が変更とな ...
「大阪市の北東部、鶴見区と守口市にまたがり、わが国でも最大クラスの計画面積を誇る総合都市公園・鶴見緑地。・・・大阪市をとりまく四大緑地として、その緑ゆたかな環境やバラエティに富んだ施設で広く市民に親しまれています」(『鶴見緑地』 大阪市交通局 より)。『大阪春秋95号』(大阪春秋社)p68に、「花博記念公園鶴見緑地について」という記事があり、主な施設の紹介がされています。『大阪春秋89号』(大阪春秋社 )p34にも「鶴見緑地造成と花の万博」という記事があり、緑地誕生の経緯や、平成2年に開催された「国際花と緑の博覧会」の様子などを知ることができます。『鶴見緑地』には、緑地内の写真が紹介されていますが、その中に初代心斎橋を移築したすずかけ橋の写真があります。参考資料:『鶴見緑地』 ( ...
「住吉かるた」には、昭和60年10月に住吉区制60周年の記念事業として作成された「住吉かるた」と、平成4年10月に住吉区コミュニティ協会10周年の記念事業として作成された「住吉かるたⅡ」とがあります。共に既に在庫なしで入手不能ですが、「住吉かるた」については現在、「住吉区の名所・旧跡や昔の風俗、習慣などをいろはかるたに詠み込んだもの」として住吉区のホームページ http://www.city.osaka.jp/sumiyoshi/outline/carta01/carta.html (大阪市HP > 各区・各局 > 住吉区トップ > 区のプロフィール > 住吉かるた) で紹介されています。この「住吉かるた」の著作者としてHPで紹介されている白井伊之助氏には『住吉界隈いま・むかし』(白井 伊之助編 「住吉界隈いま・むかし」刊行委員会)という著作があり、その一部が「かるた」所収の風景画 ...
住吉街道については、 (1)住吉大社付近で紀州街道から東行分岐し、住吉大社を横切り現在の長居交差点に到る道筋の名称として用いられる場合と、 (2)紀州街道の一部の別称として用いられる場合 との二つの用例が見られます。 (1)住吉大社を横切る住吉街道について、「住吉区史」 p.231~ 「住吉街道」の項では、「経路は住吉大社境内西北角地点の紀州街道を起点に、大社境内を地を横断する。その道筋は大社第一本宮と旧神宮寺境内との境界道路を通る。東門北側で境内を抜けたあとはそのまま東進、長居公園通りに合流して終わる。」との説明があります。 また、「住吉村誌」 p.203 「住吉街道」の項では「住吉街道は墨江村大字長峡紀州街道より分岐して住吉神社の北側を縫い、東に進みて字中辻を過ぎ、字大領、龍王、 ...
execution time : 0.271 sec