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【観音院の四万六千日で配る品物について】 『金沢の風習』井上雪/著の中で、観音院の奥様の話として「昔はトウモロコシではなく飴を配っていた」との話が載っている。いつ頃からトウモロコシに変わったのか、また、なぜトウモロコシだったのかわかる資料はあるか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:46)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:46)
江戸時代、文化年間(1704-1717)以降に、江戸から四万六千日のトウキビが伝わってきたものと考えられる。トウモロコシは、元は雷除けの意味だったが、金沢で意味が転じたと思われる。観音院の近くに、「若松飴屋」があったとの記述が残っている。『金沢の風習』(113258549)p.192「浅草は、ほおずき市ですし、こちらは、とうきび市です。昔は飴であったらしいが、いつごろから、とうきびになったものかわかりません。お経に会ったとうきびを頂いて、軒下につるしておくと、一年中豆々と働けて、物負けしないという家内安全の祭りです。」とあり。『日本民俗宗教辞典』(111957818)p.232「四万六千日」の項に、「東京浅草観音」について「江戸時代には、赤い玉蜀黍の実を三角形の紙袋に入れ竹串の先に付けたものが雷除けのお札と ...
【プリマハムの創業について】 1931年9月1日、プリマハム創業者の竹岸政則氏が石川県金沢市にて竹岸ハム商会を創立したとプリマハムの資料に出てくる。この竹岸ハム商会が金沢のどの場所でどういう規模で業務を行っていたのか、わかる資料や内容を教えてほしい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:45)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:45)
利用者より紹介のあった以下のページに竹岸ハム商会の創業時の写真が掲載されている。「竹岸ハム 金沢出張所 TEL(2)1642」と書かれた看板が写されている。【URL】https://www.primaham.co.jp/assets/doc/company/report/2011/prima2011_p10-13.pdf (2022年8月26日最終閲覧)『石川県食肉名鑑』(119572597)に記載なし。国立国会図書館サーチで「竹岸政則」と検索し、以下の文献を参照した。『日本の創業者 近現代起業家人名辞典』(113061196)p.365「プリマハム 竹岸政則」に「(昭和)6年金沢で竹岸ハム商会を創業」と記載されている。『オール大衆』第21巻20号(1968年10月)p.64-65「現代の成功者 その2 新しい世紀を作る食肉王 プリマハム社長 竹岸政則氏」に「竹岸政則氏が金沢の駅前でハム、ソーセージの製造販売をはじめたのは昭和六年九月一日である。(中略)兄弟二人と少年 ...
【安政3年の参勤交代について】 加賀前田家13代斉泰が安政3年の帰国時に高岡、砺波、城端、福光、小俣、二俣、御所村を経由して金沢城に入っている。なぜ通常の倶利伽羅峠越えのルートで津幡から金沢へ帰国しなかったのか。なぜ城端善徳寺を宿泊地にしたのか。参考資料があれば教えてほしい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:45)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:45)
『参勤交代道中記』(118310786)、『加賀百万石と中山道』(118484767)には記載がなかったとのこと。安政3年の参勤交代については、以下のレファレンス事例を参照のこと。「【二又越について】 加賀の参勤交代のルートで、北国街道ではなく二俣を通ったことが書かれた文献はないか。」(金沢市図書館)【URL】https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000219817 (2022年8月26日最終閲覧)「【安政3年の参勤交代の際、13代前田斉泰が二俣に行った理由について】 安政3年4月に江戸を出発した斉泰は、いつもと違うルートで裏街道を通り二俣に寄って、金沢に帰っている。二俣に行った理由が書かれた資料はないか。」(金沢市図書館)【URL】https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000284613 (2022年8月26日最終閲覧)以下、斉泰が城端善徳寺に宿泊した理由に ...
【江戸時代~明治中期の石川県の台風について】 江戸時代~明治中期頃、石川県で、多くの方が亡くなるような台風被害があったか知りたい。当時の住民の声、証言が残されているか。もし記録がある場合、「黄」という漢字の付く地名があるか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:45)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:45)
・『石川県災異誌 1961』(119871602)に、石川県内の災害について年表で記載されている。当時、「台風」という用語はないため、「大風」や「大雨」の項目を参照するとよい。この資料は相互貸借できるので、興味があれば近くの公共図書館で相談してみてほしい。・『加賀藩史料』東大史料編集所の近世編年データベースで「大風雨」で検索すると、加賀藩史料に3件掲載があることがわかる。(1)文政8年(1825)8月14日(2)文政11年(1828)8月24日(3)天保7年(1836)8月13日。・市井の人々の証言、記録は発見できなかった。・「黄」という文字のつく地名があるかどうか、上記2冊を参照している際には発見できなかった。角川と平凡社の地名事典を参照したが、該当は「黄門橋」と「地黄煎」村のみである。
【8月1日富山大空襲時の金沢の天気について】 8月1日深夜の金沢の天気が知りたい。私の手元の本によると、当時金沢では濃霧が発生したため富山で空襲が行われたという。その裏付けとなる資料を探している。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:45)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:45)
北國毎日新聞 昭和20年8月3・4日の富山等空襲の記事に当日の天候に関する記載なし。『輪島の気象百年』p.113「毎日の天気」によると、8月1・2日の輪島の天気は晴である。『北國文華 2005年夏 第24号』(170329184)p.55-68「金沢はなぜ空襲を免れたか」で文化都市説(戦前の金沢は観光地としての注目度は低い)、原爆投下候補地説(金沢は入っていない)、攻撃対象外説(金沢は攻撃対象に入っている)、攻撃対象順説(金沢は爆撃地として重要性が低い)を検討している。当日の金沢の天候は記されていない。『泉 次代への贈りもの 北陸編』(119770673)p.150-161「富山大空襲と私」のp.150に、富山の当日(2日)の天気について、「陽はしだいに高く昇り、何ひとつさえぎるもののない焼け跡にジリジリと照りつけてくる」と記されている。『三馬公民館 五十年の ...
【金沢の刑場について】 (1) 加賀藩の刑場の場所の変遷について(江戸初期は金沢城の近く、江戸後期は城下の拡大により町はずれへ移転かと思います)、(2) 安政の泣き一揆に伴う、百坂刑場での処刑について、掲載資料を教えてほしい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:45)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:45)
(1) 刑場の変遷について同様のレファレンス事例がレファ協にあり。「加賀藩の刑場はどこか?」(石川県立図書館)【URL】https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000131974 (2022年8月26日最終閲覧)その他管見の資料は以下のとおり。『加賀志徴』(11824805)p.233「同刑法場」(泉野)、p.483「刑法場跡」(百坂)『金沢・野町の四〇〇年』(119666192)p.76-81「上口刑場」『ふるさと三馬』(11921950)p.97-99「有松の刑場」『石川県河北郡誌』(11824575)p.475「刑場」(百坂地内)『石川県石川郡誌』(11824573)p.1021「仕置場跡」(三馬村)『いずみ界隈の歴史』(109241509)p.22「泉野仕置場」(2) 安政の泣き一揆に伴う百坂での処刑について『加賀藩史料 藩末篇上巻』(11801640)p.1049-1051「(安政6年)四月十三日。去年卯辰山に登り騒擾したる北市屋市右衛門等刑せらる。」『幕藩制都市の研 ...
【兼六園公開100周年当時の茶店について】 1973年(昭和48年)の兼六園公開百周年に関連して、兼六園にある茶店が何か行ったという記録はあるか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:44)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:44)
・『北國新聞縮刷版 昭和49年5月号』(119950036)p.117(5月5日朝刊17面)に内橋亭で行われる茶会と、一万人目の入場者への記念品贈呈と抹茶、だんごサービスの告知記事あり。p.153(5月7日夕刊7面)に式典と茶会の取材記事あり。・『兼六園歳時記』(119413311)p.27 「毎年、この日を記念して兼六園観光協会が主催して、「内橋亭」の全部を使ってお茶会が行われている。普通は入ることのできない内橋亭での年に一回だけの催しである」p.90 「五月七日には、毎年「内橋亭」を使って開園記念茶会が行われ、多くの人たちで賑わう」「内橋亭以外で何か行われた記録はないか」と追加で質問を受ける。内橋亭以外の茶店に関する詳しい資料は見つからなかった。以下の資料に関連する情報が見つかった。・『特別名勝兼六園』(119601035)p.98 「 ...
【清水朝之音寿碑について】 北方心泉の書で金沢市朝日町にある「清水朝之音寿碑」の碑文及び清水朝之音について知ることのできる文献はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:44)
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質問者が確認したウェブサイトは以下のとおり。金沢ふるさと偉人館 近代日本を支えた偉人たち 【北方 心泉】【URL】https://www.kanazawa-museum.jp/ijin/exhibit/15kitagata.html (2022年8月26日最終閲覧)同サイトによると、旭日公民館付近の県道213号の路傍に建てられている(Googleマップ確認)。『心泉 北方心泉碑文集』(119867806)p.80-81「清水朝之音寿碑(南無阿弥陀仏)」に碑文が収録されている。『朝日校下ふるさと発見』(109079087)p.8「朝日の草相撲」に「当時の朝日町の清水さん(大関)が建てた石ひが、今ものこっています」と書かれている。『すまひ・角力・相撲』(119379597)の中に「清水朝之音」に関する記載なし。近世史料館所蔵の以下の史料の中に「清水朝之音」に関する記載なし。「於犀川川原相撲番付」(118297835、K780-973)「金沢香林坊大神宮大相 ...
【寺西直次・秀則について】 寺西直次・秀則の両名について、『三百藩家臣人名辞典 3』以外の文献や、両名の経歴の典拠史料があれば教えてほしい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:44)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:44)
石川県関係人物文献検索で「寺西」を確認したところ、以下の2名が見つかった。いずれにも『三百藩家臣人名辞典』3が挙げられている。寺西治兵衛秀則は『石川県史 第2編』(118587380) p.2,65,103にも記述がある。『石川県史資料 近世篇12 諸士系譜』(109164061)p.69「治兵衛秀則」、p.76「備中守直次」の系図が収録されている。『加能郷土辞彙』(119865516)p.599「寺西直次」「寺西秀則」【URL】https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/jii/jii_568.pdf (2022年8月26日最終閲覧)『加越能文庫解説目録 上巻』(119573816)「先祖由緒并一類附帳」p.152「寺西篤男(直一)」500石・直次系、「寺西宗餘(秀周)」「寺西徳三郎(秀敬)」7,000石・秀則系
石川県人物文献検索で見つかった資料を中心に確認した。『郷土数学』(119765145)p.139「米山専造」 米山保三郎の記載なし。専造は本姓吉崎氏、米山佐左衛門の養子となる。家は代々加賀藩に仕えたとある。『石川県産業功労碑集』(11913013)p.131「一五七 米山専造碑」 米山保三郎の記載なし。『加越能郷友会雑誌』94号(稼堂文庫、091.0-106) 「(米山保三郎)君は加賀の人、明治二年一月を以て金沢小立野に生れ幼にして学を金沢育英小学校に受く」と記されている。『明治大正人物事典 2』(113175240p.689「米山保三郎」出身地は「石川県金沢」と記されている。『〔金沢文化振興財団〕研究紀要 第11号』(109188706)「夏目漱石をめぐる金沢の人びと」 増山 仁/著 p.3「金沢市立玉川図書館近世史料館には、米山家の「先祖由緒一類附帳」が存在する。明 ...
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