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国立国会図書館サーチで「北條時敬 十四会」と検索したところ、以下の文献が見つかった。『近代住友の経営理念』 瀬岡 誠/著 有斐閣 1998年(当館に所蔵なし、金沢大学附属図書館より取り寄せ)p.117「「十四会」は会員の数にちなんで名付けられたとも、明治14年(1881)の結成にちなんで名付けられたともいわれるが、そのメンバーの大半が金沢出身者であり、東大予備門出身者であったといわれる。北條時敬・織田小覚・早川千吉郎・土岐こう(にんべんに黄)・永山近彰・平山銓太郎・岡田良平・一木喜徳郎・平沼騏一郎・岡田次郎作・中橋徳五郎・河村善益・鈴木馬左也らがそのメンバーとしてあげられている。」p.118「この「十四会」は、「出身地・出身校・血縁などを媒介要因として参集した前途有為の青年たちが、宗教(とく ...
【町田半兵衛について】 金沢市の石浦神社境内にある「振戌町田翁寿蔵碑」の町田翁及び碑文について掲載された文献はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:43)
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『金沢市文化財紀要 48 加賀獅子」(109077304)所収「加賀獅子舞の棒ふり考-半兵衛流とその伝播を中心にー」p.163-167「二、半兵衛流の創始」に町田半兵衛の経歴及び石浦神社境内に建つ「振武町田翁寿蔵碑」の碑文の書き下し文が掲載されている。『加賀・能登の民俗 小倉学著作集 第2巻 民俗芸能』(119880460)に「加賀獅子舞の棒ふり考」が再録されている。『加賀武術の遺蹤』(119407628)p.37-40「町田久定半兵衛振武 流名水野真法一伝流」に流派の事歴及び「振武町田翁寿蔵碑」の碑文等が掲載されている。『金沢市史 資料編14 民俗』(119748725)p.464-465「半兵衛流」『弥生の明日のために』(119579005)p.93「棒術半兵衛さ流を創始した町田半兵衛」半兵衛流については以下のレファレンス事例も参照のこと。「【獅子舞の流派について】 加賀獅子舞、特 ...
【新追逃橋について】 森下川に架かっている新追逃橋(しんおいのけばし、塚崎町-岩出町間)の名前の由来が知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:43)
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『香我の譜』(11915531)、『城北ものがたり』(119714558)、『森本村回顧誌』(11916035)に記載なし。『森本のあゆみ』(119704533)p.18に「森下川に架設された森本町内の橋梁は上流より、新追逃橋・追逃橋・森下川橋・森本大橋・川向橋の五橋梁である」と記されている。『もりもと』(119778303)p.125「金沢市に合併までの変遷」により、塚崎村は森本村に、岩出村は薬師谷村に統合されたことがわかったため、薬師谷地区の以下の地誌を調べた。『わが郷 薬師谷』(119707606)p.90「岩出神社」の項に「神作橋(今の岩出橋)」の記載あり。新追逃橋との関係は不明である。『薬師谷の変遷』(109068950)p.191「森本川と橋」に「昭和二十七、八年の大洪水に依り「カンサイ橋」以外の土橋、木橋は再三流失した。その度に架け変られた」と記されている。p.194に「新追 ...
【長尾信開流について】 金沢市に伝わっていた長尾信開流小太刀に関する書籍・記事はないか。長尾信開流を伝承されていた金沢市在住の居合道の先生、武田清房氏より、長尾信開流について武田氏が書いたものが図書館にあると聞いたことがある。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:43)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:43)
当館所蔵資料検索で武田清房氏の著書を探したところ、以下の資料が見つかった。『居合道審査員の目』(510029516) 武田清房氏が「仮想敵を意識して抜くこと・生命を吹き込んで演武しているか」という文章を寄稿しているが、長尾信開流についての記載はなかった。郷土の古武術の資料を探したところ、以下の資料に長尾信開流についての記載があった。『加賀藩経武館武芸小伝』(119572550)p.262-263「氏家春樹行英」、p.263-264「長尾新開流」、「“長尾新開流小太刀”のみ、福久力松を経て現在武田清房に伝承している」と書かれている。『加賀武術の遺蹤』(119407628)p.33-36「氏家春樹行英 流名長尾信開流師範」に流派の事歴及び氏家春樹行英の碑文(安江八幡宮境内)等が掲載されている。郷土資料ではないが、以下の文献にも記載がある。『武 ...
『石川県鹿島郡誌』(119544921)の目次を通覧したところ、「万行の三郎兵衛」の記載はなかった。国立国会図書館サーチで検索したところ、以下の文献に記載があることがわかった。『定本柳田国男集 第26巻』(119747147)p.81「狐女房」『新修七尾市史 13 民俗編』(119789399)p.24-25「7 南栄三採集資料「万行の三郎兵衛伝説」」同p.26「解説」によると、資料7は鹿島郡誌に載っている万行の「穂に出でつっぱらめ」の先に存在したものであるとのこと。『石川県鹿島郡誌』p.966-967に「穂に出でつつぱらめ」が掲載されていることを確認した。内容は南栄三採集資料と若干異なる。<追記>「穂に出でつっぱらめ」の意味が書かれた資料を探してほしいとの追加の依頼あり。同民話の集録された資料をさらに探したところ、以下の資料が見つかった。『 ...
『連作"馬鹿一もの"の世界』 2009年に調布市武者小路実篤記念館で開催された特別展のカタログ。同展覧会の内容は以下のサイトで確認できる。【URL】https://cir.nii.ac.jp/crid/1130000793671654912『馬鹿一』(129487050)p.364-366「この本のあとに」に本書成立の経緯が書かれている。『武者小路実篤全集 第16巻』(111141108)p.799-859「解題」に「山谷もの」各作品の解説が掲載されている。『昭和文学全集 3』(180117121)「武者小路実篤・人と作品」p.1041-1042に「真理先生」と「馬鹿一」の解説が掲載されている。『国文学 解釈と鑑賞』1992年2月号 特集武者小路実篤の世界(170144626) p.132-136『真理先生』に<山谷もの>についての解説が掲載されている。
【旧金沢市庁舎のカラー写真について】 金沢市役所の旧庁舎(昭和54年取り壊し)のカラー写真を探している。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:42)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:42)
旧金沢市庁舎の創建及び取り壊しの年代については以下のレファレンス記録を参照のこと。「金沢市庁舎について」(金沢市図書館)【URL】https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000212090 (2022年8月26日最終閲覧)当館所蔵の資料で旧金沢市庁舎のカラー写真が掲載されていたのは以下のとおり。『金沢 市勢要覧 1979』(129827448)「発刊のことば」挿入写真『金沢 市勢要覧 1980』(129827439)「発刊のことば」挿入写真『金沢 市制百周年を記念して』(11930567)p.13「近世ルネッサンス式半石造で大正11年建築の前庁舎 昭40(1965)」『よみがえる昭和の香林坊・片町』(118546707)p.98「昭和39(1964)年、広坂の旧金沢市庁舎をバックに走る市内電車」
【金石の郵便局について】 明治21年7月1日に、金石の郵便局に日本初の電線?が通り、電報を送信できるようになったと複数の書物で見た。そのことについて詳しく載っている資料がないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:42)
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『金沢の百年 明治編(109282388)』明治16年9月20日条に「金沢電信分局から七尾まで電線が架設され10月1日から電報を受付ることになった。」、明治39年10月21日条に「金石との市外通話が開通した。」と記載されている。『金石町誌』(11801960)p.416-417「金石郵便局」の項目に、「梶喜作局長のとき、(中略)明治二十一年七月電信事務開始となり同時に局名を金石郵便電信局と改む。」との記述あり。『金沢叢語』(119804468)中p.64-65に「ものいふ針金が架つたといふて驚異の眼を?り電信線を見て騒いだのは明治天皇巡幸の明治十一年八月であつた(中略)開始当時は上方へ一線下方へ一線なりしが漸次増線し十五年始めて能登七尾へ一線を架けた二十年金石との間に一線を架け試験的に電話を以て通信したこれを全国に於て電話を以て一般の通信 ...
『高峰博士 伝記・高峰譲吉』(111995345) p.5に「長子高峰博士には五人の弟と七人の妹とがあった、其弟は退二、三郎、享一郎、修五、栄三郎の五氏で修五氏は粟津家に、榮三郎氏は藤井家に養はれ、今現存せるは栄三郎氏のみで、他は皆故人になられた。又妹は節子(南兵吉氏未亡人)貞子、順子(竹林尚文氏未亡人)十九子(能久治未亡人)十三子、せい子(田島吉右衛門氏夫人)五十子で、貞子、十九子、十三子、五十子は是亦既に故人となられた。」と記載あり。『高峰譲吉博士略年譜』(119780938)p.8に兄弟の生誕順表、氏名、事柄の記載あり。近世史料館所蔵の『先祖由緒并一類附帳』(16.31-065)高峰昇(高峰精一) 嫡子高峰譲吉 二男高峰退二 三男高峰三郎 娘4人の記載あり。
【上野練兵場について】 昭和20年代の小立野の地図はないか。小立野にあった軍の施設が描かれた地図が見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:42)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:42)
昭和20年代の以下の地図に小立野地域は掲載されていないかった。『大金沢産業案内図』(118586050)『金沢市街図』(11902910)『金沢市学事一覧 昭和27年度』(118621884)『さきうら』(119764317)p.291「上野射撃場跡・上野弾薬庫跡」によると、同跡地は現在の小立野1丁目・2丁目、錦町、旭町地内に細長く伸びていたとのこと。上野射撃場跡の航空写真が収録されている。同写真の出典は『昭和20年代米軍撮影空中写真』(118314060)p.35と思われる。『さきうら』p.162によると、昭和21年に上野射撃場は農耕地として払い下げられた。『小立野校下の歴史』(119740790)p.233-234「旧上野射撃場」に「現在の錦町及び小立野一丁目の地が急上野射撃場とほぼ一致する。現在、金商高校前から少し上に上がり、県道芝原―石引線と小立野小学校通りの間の裏通り小 ...
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